TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 10月地方公演『生写朝顔話』『ひらかな盛衰記』『日高川入相花王』神奈川県立青少年センター

台風19号通過直後の開催決行だったが、私鉄・地下鉄等が当日早々から通常運行していたのでスムーズに横浜までたどり着き、最初から観られた。

今回上演の大井川の段は、大井川が増水して朝顔が川を渡れなくなるという場面。昔の水害は本当に恐ろしいものだったんだろうなと思う。朝顔が川岸に来た時点ですでに船頭避難してるし、徳右衛門もものすごい勢いで朝顔を止めてくるしね……。

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昼の部、『生写朝顔話』。

明石船別れの段。深雪(豊松清十郎)と阿曾次郎(吉田文司)は兄妹みたいだった。文司サンがこういう純粋な二枚目役なのは不思議な感じがする。育ちのよい上品な坊ちゃん感があった。あと、人格がまともそう。

清十郎さんは清楚なお嬢様風。深雪の透明感のある清楚さはとても良かった。深雪ってまともに考えたらクソヤバ女だと思うが、「怖!!」とならない慎ましさがあった。しかし口元は拭くんやのうて、「ぽっ」と軽く抑える程度にしてくれ。清十郎は内心いやなのかもしれんが、そこは辛抱。

 

笑い薬の段、祐仙(桐竹勘十郎)がウザ可愛かった。こういう憎めないキモさ、チャーミングさや愛嬌は、勘十郎さん独自のもの。カートゥーンのキャラクターみたいで、可愛い。下手の柱にニョロリと巻きついて、「誰もいないよね〜?」と周囲を見回すときのウザさ、もったいぶって茶を立てるところのひたすらのウザさが良い。ウッシッシと肩をピコピコさせて笑うところも祐仙の小物ぶりや軽薄さが伝わってくるようで、浄瑠璃の言葉以上に、人形が多弁。そういったコミカルな動きや着物の着崩しなど、やることが多いのに決して雑多に見えないのは、ひとつひとつの動作が徹底的に洗練されて整理され、メリハリがついているからだと思う。着物の着崩しの段取りはすごいと思った。勘十郎さんが結構自分でやってる。笑いをごまかすために口元に手を持っていくのに紛らわせて襟を少し引く等して、自然に着崩していっているようだった。

それと床が三輪さんというのが面白かったな。滑稽な中に辛口の締まった品があり、勘十郎さんのケレン味とバランスが良いと感じた。しかしほんとなんで三輪さんが文楽太夫になったのか知りたいよ。

 

岩代多喜太(吉田玉輝)、ターンの速度が異様に早くてピッと綺麗に90度回るあたり、融通利かない感じがするのが良かった。祐仙の笑いころげぶりに途中でイライラしてくるのとマッチしていた。骨が綺麗に取り終わるまで焼き魚食えないタイプだと思う。ししゃもにぶち切れてそうだと思った。でも、玉輝さんはご自身はせっかちにならず、ちゃんと勘十郎さんが延々茶ぁ立ててるのをじ〜〜〜〜っと待っておられた。

ところで、徳右衛門(桐竹勘壽)って、なんであらかじめ笑い薬を買ってたんだっけ……? 以前、何かのレクチャーイベントで聞いた気がするんだけど、忘れた……。でも、文楽には通り道に偶然落ちてた死体の首を切り取っておく人もいるので、笑い薬買っとくくらい、たいしたことないか。と思考を放棄した。

 

宿屋の段、津駒さん宗助さんが良かった。琴の演奏があるので聞き応えとしては華やかではあるのだけれど、どこか朝顔の零落したうら侘しさが感じられるようで、しっとりと冷たい佇まいがあった。朝顔の、貧苦に迫られて枯れてしまった儚い声の表情も良かった。

人形もこの段になると、健康的な清楚さだった明石船別れの段からうって変わって、長雨に打たれて傷んだ花のような、少し悲しげな雰囲気。ただ琴がかなりグシャグシャになっちゃってて、惜しい。清十郎さんがどうこうというより、左が全然合ってないのでは……。ちゃんとした左は本公演でないと無理か……。今回の地方公演、人形さんは結構パツパツで舞台を回しているのかなと思った。

 

それにしてもこの演目、宇治川とか浜松小屋を抜くと、筋書き状態だなと思った。本編を上演しているはずなのに、ダイジェストをやっている感じ……。よほどのスター的な人が出ていないと間が持たない気がした。今回でいうと、仮に勘十郎さんが祐仙をやらなかったら、かなり厳しい。

『生写朝顔話』のなかで文楽として一番面白いのは浜松小屋ではないかと思うが、渋すぎるから出さないのだろうか。個人的には、明石船別れより、歌を書いた扇を渡す宇治川をやったほうがよいように思ったのだが、どうなんだろう。

 

なにはともあれ、勘壽さんがご出演されていて良かった良かった。徳右衛門、律儀そうな厚みあるジジイぶりで、さすがだった。

 

 

 

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夜の部、『ひらかな盛衰記』松右衛門内より逆櫓の段。

今回の地方公演の個人的目玉演目。松右衛門は勘十郎さん。個人的にはこれくらい抑えているほうが好み。最近の松王丸や由良助にあった無駄な誇張がなく、時代物の中の世話らしさを感じる人物像でとても良かった。

以前、女方人形遣いさんには「架空でしか存在しえない女性像」に寄るタイプの人と、「現実の女性像」に寄るタイプの人がいるように感じると書いた。それは立役にもあると思う。先代玉男師匠のご一門の方は「架空でしか存在しえない男性像」に寄っている印象があるけれど、勘十郎さんは「現実」に寄っている印象がある。玉男さんや玉志さんの松右衛門からは、たとえるならギリシャ彫刻が生命を得て動いているかのような、空想の中でしかありえないはずの完全な理想像がこの世に受肉した姿とも思える表現を感じるんだけど(私はそこに人形浄瑠璃ならではの世界を感じる)、勘十郎さんの場合は「もしかしたらずっと昔にはこういうスゴイ人がいたのかも」と思える、夢想と現実の境目の人物像を表現している印象。ものすごく絶妙なラインで、良い意味で普通の人間っぽさがある。動作がもちゃっとしているためだと思うけど、人形にじわりとした体温があったり、からだの表面に中年男性らしい脂肪がついているように見える。偶像ではなくあくまで人間。その等身大の誠意が伝わったからこそ、権四郎は松右衛門の説得に応じたのだろうと感じさせられた。

ただ、逆櫓はそのままでは間が持たないと感じた。所作が崩れていてモタモタしてるように見える。樋口役は逆櫓のほうが簡単だろうと思ってたが、そうではないようだ。逆になんで玉男さん玉志さんがあそこまで出来るのか、わからなくなった。記録映像を見ると、先代の玉男師匠は型を決めるにしても動作をパキンとさせすぎず、無駄な力を抜いた優美な所作。そうであっても時代ものならではの武将らしい美々しさや古典的な男性美が発現している。型が決まっていて、それを正確にこなしていくというのは決して四角四面になるという意味ではないと教えられる。時代物の立役というのは難しいんだな〜と思った。ここでは樋口は人間に見えてはいけないのかもしれない。

 

玉志サンの権四郎は思っていたよりはるかによかった。文楽らしいクリアな質感と持ち前のキレの良さがマッチして、ぴんとした姿勢も凛々しく、在所のめちゃくちゃカクシャクとしたシャッキリジジイで良かった。正直、もっとキラキラに寄ってしまうかと思っていたが、ちゃんと在所ジジイだった。それと、ご自分がやりたいことをやってらっしゃるんだろうなと思った。夏の七段目の平右衛門も由良助とおかるを無視してやっていらしたと思うが、今回も松右衛門を食ってもいいと思ってるだろと感じた。今後も戦闘的なまま、ガンガンいって欲しい。

権四郎のかしらは目が閉じて口が開く仕掛けがあると思うけど、それ以上の表情があるようだった。これは朝顔もそうだったので、地方公演ならではの舟底のないステージによる見上げ効果や、フットライトが強めの照明の、いつもと違う見え方のせいかもしれない。槌松が門先にいるんじゃないかと何度も外を伸び上がって見ているときのそわそわぶりとか、事情を聞いてお筆にソッポを向いているときの険しさとか、松右衛門の話を聞いて目を閉じてよくよく思案しているときとか、時々、人形にクレイアニメのような生々しい表情があるように感じ、はっとさせられた。お筆の不用意な発言に湯飲みを投げて激怒する場面のマジギレぶりは良かった。めちゃくちゃ怒っていた。逆に、松右衛門に持ち上げられて上座へ据え直されるところ、持ち上げられてびっくりしてピョコン!とするのがプレーリードッグのようで可愛かった。でももうあの段階ではお筆を許してるよね。もっと言うと、本当は包丁研いでる時点ではすでに許してるんじゃないのかなと思った。包丁の研ぎ方があんまり怖くなくて、樋口に本当に子供を殺すことを迫りたいわけではなく、あとはもう自分自身が納得できるかどうかで、その気持ちの間の埋めたさでしかなかったのではないかと感じた。この点は、以前に観た玉也さん権四郎とはかなり違っていた。

 

 

お筆の勘彌さん、およしの清五郎さんも上品でとてもよかった。お筆の武家の生まれらしい凛とした立ち振る舞いの中にあるどこか色っぽい雰囲気、およしの在所の女房とは思えない楚々としたおとなしげな雰囲気がよかった。おふたりとも抑えめで、松右衛門と権四郎の真逆の個性対決が際立っていた。さすがに勘彌さんはうまいね、お筆の帰り際、門口でクルリと回るところがとても綺麗だった。

 

床、ヤスさんは権四郎とおよしが良いなと思った。在所の真面目な良い人、その人たちが心からそう思って喋っているという感じがあった。しかし松右衛門がいまいちで、私は義太夫をやりたい人というのはああいう役をやりたいのだろうと思い込んでいたので、逆にヤスさんはどうしてああいう語り方をしているのだろうと思った。単純な大げささに頼らないアプローチをしようとしているのか。お若い方の場合、「ああ、この人はこうしたいのだろうけど、未熟でまだそれが表現できないのだろうな」と思うことがあるけど、その「こういうふうにしたい」まだ見えない状態だった。暗中模索中なのかもしれない。錦糸さんはヤスさんにやらせる分のフォローをされてたと思う。

逆櫓は床も人形共々モタモタしてしまっていて、ピンボケしてしまっていた。もっとメリハリつけていかないと、波が立った海の上で荒々しくやってる感がない。少なくともこの段、三味線は演奏そのものがかなり難しいのではないかと感じた。

 

 

松右衛門内ってすごく聴きがいのある面白い段だと思うけど、同時に、地方公演の見取りにするには難しい内容だと感じる。松右衛門内は「有名演目かつ人気演目だけど、いきなり観ると全然意味わからん話」の上位にランクインすると思う。あまりにも特殊なシチュエーションの話で、かつ煮詰まった状態からはじまる。事前にここまでの段の内容を把握しておかなければ、登場人物たちの言っていることが始終まったく理解できないと思う。さらに、前提を理解した上で権四郎の心の動きに注目することが非常に重要になってくるけど、そこまで気づいてもらえるかが難しい。「ジジイに注目」は文楽に普遍的な鑑賞のポイントだけど、普通に考えたら、松右衛門のほうに重要な意味があるかのように思ってしまうよね。

ところで、冒頭に出てくるあの近所のツメ奥さんたち、異様にクセが強くなかった? あのクセの強さ、すごい。あの奥さんたちの話ってかなり重要なのに、ビジュアルのクセが強すぎて話聴くどころじゃなかった。

 

 

 

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日高川入相花王』渡し場の段。

文哉さんが船頭役で出ていらっしゃるからか、口上がいつもと違う調子の人だった。文哉さんはもっさり船頭な感じでよかった。

それにしても、地方公演も後半なのに、なんでこんな状態なんだ。興行側は自分が何をどう表現すべきかを常に考えて舞台をつとめることのできない人を重要な役に配役するのはやめて欲しい。

 

 

 

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みなさん、頑張っていらっしゃったが、本公演ってやっぱりすごいなと思った。本公演のレベルの高さがよくわかった。そして、会場環境に左右されないベテランの安定感もよくわかった。パフォーマンスの安定というのは重要だと思った。

地方公演は地方公演で本公演にないイレギュラーな配役が面白いが、今回の場合、率直に言うと、三輪さんに宿屋、津駒さんに松右衛門内を語って欲しかったな〜(率直すぎ)。津駒さんって、本公演では当たらないけど、「いかにも文楽」な段、いいよね。尼が崎やすしやがかなり良かったので、松右衛門内も聴きたかったな。

 

 

 

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地方公演恒例グリーティング・ボーイズ。お伺いしたら、お人形はお七さんとのことだった。文楽のお人形さんたちはタンスを共用されているので一見では区別がつかない。清之助さんは体育会系の部活のようにめちゃ大きな声でお客さんに挨拶されており、いいぞ若人、その覇気でおれたちの北川景子・清十郎を守ってやってくれと思った。

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(お七さん、ゾウリムシが寄ってきたのでものすごくテンション下がってます)