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文楽 上方文化講座2019(7)近代における大阪の芸能興行統制と都市社会 大阪市立大学

3日目2限目は、日本近現代史がご専門の佐賀朝先生(本講座初登場!だそうです)による明治期の芸能興行政策等についての講義。当初は講義内容「近代大阪の芝居地と都市社会」と発表されていたが、興行統制にフォーカスした内容にしたということで、当日タイトルをあらためられていた。

この先生、配布資料がものすごくしっかりまとまっていて、レジュメを見れば講義内容の概要がつかめるようになっており、かつ、お話の進め方が大変お上手で、まったく知識がない内容の講義だったにもかかわらず、とても理解がしやすかった。なので、この講義ノートはほとんどレジュメの引き写しなんだけど、実際のレジュメは史料提示または添付の上作成されていたが、本ノートでは史料類転載をカットの上(参照元は適宜注釈で記入します)、自分にわかりやすいよう一部書き改めているので、その点ご注意願いたい。

 

要旨を書いておくと、「大阪では、明治期に台頭した『劇場改良』運動が、都市計画問題・劇場火災等の現実的な問題と複合して進行した状態となり、東京とはまた違う様相を見せた」ということを史料を用いてつぶさにみていくという講義内容。あるいは、「大阪という都市社会において『文明化』はどういう経過をたどったのか」という一例を、芝居関連の出来事を通じて考える、とも言える。人形浄瑠璃成分自体は低めだが、明治期の人形浄瑠璃座の動向や『義太夫年表』の内容を理解するのに必須の知識も学べるので、ぜひどうぞ。

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近代における大阪の芸能興行統制と都市社会 INDEX

 

 

 


┃ はじめに

● 課題

1. 明治前期の大阪における芸能興行統制の推移から、近代化の過程で近世的な芸能興行がどのように問題視されたかを確認する。
2. 明治19年(1886)前後に全国的に展開され、大阪にも起こった「演劇改良」問題・「劇場改良」問題の経過と特徴を確認する。

→ 以上から、大阪の芸能興行・社会がどのように近代化・文明化したのかを考える。

 

● 着眼点

1. 明治前期大阪の芸能興行統制の論点と特徴
2.「演劇改良」の目的・背景と、そこから見える「文明化」の問題点
3. 「演劇改良」「劇場改良」が芝居地周辺の社会同行とどのように連動したか

→ 以上から、「演劇改良」「劇場改良」が大阪の芸能興行に与えた影響・問題性を探り、社会における芝居(演劇)の歴史的地位とその変化を考える。

 

▶︎ 補足 近世の芸能興行

近代における興行の変化を知るにはまず近世の知識が必要となるが、その点を簡単にフォローしておきたい。以降、文頭に「▶︎ 補足」とついているものは私が付記としてつけているものです。

徳川期において人形浄瑠璃・歌舞伎等の芸能興行を行うには認可(株)が必要であり、その権利を持った興行主=櫓名代が公認の芝居小屋を所持していた。大坂では道頓堀が公認の芝居小屋の設置可能地域で、芝居小屋のファサードに掲げられた「櫓」は公認興行の証であった。
しかし、櫓名代の打つ興行以外にも芸能興行は存在していた。株がなくとも興行を行う方法はいくつかあり、まず、櫓名代から興業権(芝居小屋)を借りるという方法があった。
もうひとつ、公認制をかいくぐる方法として、寺社奉行管轄の土地・寺社境内、あるいは新地開発の名目があれば規制から除外されるというものがあった。これらの地域で行われた非公認の興行は「宮地芝居(みやちしばい)」と呼ばれた。
天保13年、宮地芝居に閉鎖命令が出された。これによってあやつり浄瑠璃は道頓堀竹田座か若太夫芝居を借りなくては興行ができなくなった。しかし、宮地芝居は興行形態として社会に浸透していたためこの規制は現実的でなく、やがて撤回され、明治初期にいたるまでもてはやされ続けた。

 


┃ 明治前期大阪の芸能興行統制

1. 主な大阪府府令年表

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明治前期、段階的に法令が出揃っていった。

明治元年〜4年の「再編身分制」の時期に役者への風儀統制があり、身分制の解体が進む4〜5年に興行への課税と芸能諸興行に関する基本的ルールが制定・実施され、15年に芝居・寄席・見世物など芸能興行全体への統制に関する基本法令が出揃った。 

▶︎ 補足 段階的な「維新」

明治維新といっても、明治になった瞬間、日本が近代化したわけではない。その初頭は移行期であり、法令が出揃うにしたがってだんだんと今イメージされるような「近代化」がなされていった。たとえば、身分制度明治4年春までは残っており、改変しながら使っていた。

 

 

2. 明治前期(10年代半ばまで)の芸能興行統制をめぐる論点と諸要素

(1)「再編身分制」期の芸能興行統制

明治2年(1869)2月 芝居・軍書小屋・にわか小屋への通達]

歌舞伎・人形芝居・町席*1に対し、小屋主・地主・興行人の名前帳等の提出・納税が命じられた。*2

→「再編身分制」期の三都(東京・大阪・京都)では、様々な職分を承認して納税が命じ、旧来の特権的序列を徐々に整序しようとする傾向があった。新政府は徳川幕府が公認していなかった非公認の遊郭にも納税させ、営業させた。

 

明治2年(1869)4・5月 「川原者」(歌舞伎役者)の風儀・交際・居住に関する統制]

道頓堀や宮芝居の役者たちを「川原者」と呼称し、「卑しき身分を忘れ奢りに長じ」ているとして以下を命じた。*3
①芝居茶屋・料理屋・旅籠屋や船行・他所行への呼び寄せ禁止
②芝居楽屋などへの平民の立ち入り禁止
脇差類の帯刀禁止
④芝居小屋出入りの際の「編笠」着用

→これらの内容は、天保改革時の芸能興行関係者に対する統制*4と同様。ただし、そこに「川原者」*5というイデオロギー性の強い言葉を使って再編成を図ろうとしている点が注目される。

 

(2)興行内容への統制 「勧善懲悪」

[明治5年(1872)8月 能狂言・歌舞音曲への教部省達の趣旨を布達]

①演劇類における歴代天皇の模倣・「褻瀆」(汚すこと)の禁止
勧善懲悪を主とし、淫風醜態に流れることを禁止
③遊芸渡世の者を「制外者」(制度・統制の範囲外)としてきた風習を禁じ、身分相応に慎むよう命じる

→①天皇に関わる描写の禁止、②勧善懲悪、淫風醜態の排除はその後も演劇内容統制の基調となった。
→③は、近世の役者取締において「河原者」としての差別的・特例的扱いがあったが、これを否定した上で、身分制解体後もその振舞を慎ませようとしたものかと思われる。

→大阪では、同4月の時点で勧善懲悪を旨とし「遊蕩淫惰」を排するべく、芝居仕組書(企画書)を興行前に提出するように命じていた*6。同7年には「妄談・怪誕(でたらめ)・淫せつ*7・醜悪之状」を一新し、勧善懲悪を旨とすることを命じる*8
明治15年の「劇場取締規則」でも、「勧善懲悪ノ趣意」、「猥褻ノ所為」禁止が強調されている。

 

(3)営業場所の統制

[明治5年(1872)8月 市中8か所(宮地)における芝居興行禁止]

  • 大阪府が上難波神社・座摩神社・御霊神社ほかの宮地芝居を禁止
  • 明治15年の「劇場取締規則」では、規制対象として計11箇所の劇場が指定された。

→芝居興行場所への統制は近世以来の芸能興行における特権的・序列的統制の系譜を引くものだが、対象が曾根崎・堀江等の近世大坂特有の新地芝居も含む。

 

[参考地図 明治期、大阪市内にあった人形浄瑠璃座とその所在地]

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▶︎ 補足 松嶋遊郭優遇策と宮地芝居の禁止

明治4年(1871)、松嶋遊郭が設置された際、大阪市内各所にある遊所を松嶋に集める政策がとられた。この際、移転するか、閉鎖するかを選ぶという強圧がかけられたため、遊所は松嶋に集まった。芝居小屋では文楽と三栄のみが移転に応じ、これ以外の宮地芝居はなくなった。こうして、松嶋遊郭の優遇策として、松嶋文楽座・松嶋大芝居が松嶋で営業することになる。
その後、明治6年、堀江・天満大工町・曾根崎新地にも設置の許可が下り、堀江座が復活した。文楽座は明治17年、御霊神社境内へ移転した。

明治4年当時の歌舞伎・あやつり浄瑠璃の宮地芝居

  • 上難波社内 2(稲生神社はこの境内。そこに文楽座もあった)
  • 座摩社内 2
  • 北堀江下通二丁目 1
  • 曾根崎新地 1
  • 天満天神内 1

 

(4)衛生問題 伝染病の流行

 [明治10・12・15・19年のコレラ大流行]

  • 明治10・12・15・19年にコレラが大流行。大阪では明治19年(1885)に1万5000人の死者が出る大被害が発生。コレラ流行時は流行媒介を防ぐため芸能興行の休止措置が取らた。明治10年の際は興行差し止めは1ヶ月だったが、19年の大流行時は5月末〜11月末の半年にも及んだ。
  • 明治15年「劇場取締規則」には劇場構造上の規定が定められ、空気の流通に留意すべき義務、興行期間中の便所の清掃・防臭の規定が盛り込まれた。

→衛生問題は明治10年以降、近代の芝居小屋・芸能興行統制の主要素の一つになった。

 

(5)劇場火災と防火問題
  • 明治15年「劇場取締規則」では、劇場構造上の規定に防火の観点が盛り込まれ、非常出入口に関する規定、桟敷の堅牢化、桟敷に定員外の観客を入れることの禁止が定められた。
  • 大阪では、明治9年1月に道頓堀若大夫座、2月に筑後芝居、4月には竹田芝居で相次いで火災が発生。竹田芝居の火災では50人以上の死者が出ていた。

芝居小屋で多発した火災は、衛生問題とあいまって、「劇場改良」論を必然化した。

 

[まとめ]
明治初年〜10年代の芸能興行をめぐる諸問題の先に、内容や興行形態に対する「演劇改良」論が登場する。

 

 

 

┃「演劇改良」「劇場改良」問題の文脈 <東京>

1. 前段階 東京の市区改正(都市計画)での演劇への言及

 明治18年(1884)  内務省東京市区改正審査会が設置]

  • 明治17年から東京で市区改正(都市計画)の準備がはじまる。明治18年10月、東京市区改正審査会による計画案が内務大臣へ上申された中に、道路・河川・公園・上水道等とあわせ、演劇・歌舞音曲場の設立も言及されていた。そこでは欧米諸国を模範とし、政府が首都に演劇・歌舞音曲場を設置して「高尚」な娯楽を国民に提供することにより、演劇歌舞の矯正を行うことが必要であるとされていた。
  • この際、審議会で議論された山崎直胤*9の意見書には、イタリア・フランスは歌舞の優美さ・演劇の振興で国名を高めており、欧米諸国では首都に国立・王立の劇場が設置され上流階級がそれを享受していることを挙げて、日本も首都に「インペリヤール・テアトール」を設置すべきことが主張されていた。

→首都市区改正と連動した文明化の一環として、国立劇場創設と演劇内容の文明化・「高尚」化が提言されていた。

 

2. 首都での「演劇改良」問題

 明治19年(1885)6月 伊藤博文守田勘弥市川団十郎尾上菊五郎と「演劇改良」について会談]

不良債権の多い劇場を取り潰して劇場経営を安定させること、上演時間を短縮すべきこと、狂言作者の改良・文明化が話題に上がった。

 

明治19年(1885)8月 末松謙澄が演劇改良会を結成]

  • 内務省参事官・末松謙澄*10が有力者を集めて演劇改良会を結成、伊藤博文井上馨らの後援を得て改良運動を進めた。同会の趣意書には以下の条目がうたわれていた。
    ①従来演劇の陋習を改良し、好演劇を実際に出さしむこと
    ②演劇脚本の著作をして、栄誉ある業たらしむこと(脚本家の地位向上)
    ③構造完全にして、演劇その他音楽会、歌唱会の用に供すべき一演技場を構造すること
  • 末松の「演劇改良」の論点は、洋風劇場建設、洋風舞台装置導入(花道の廃止)、興行時間の短縮(夕方以降に上演)、劇場内の茶菓販売廃止*11、上演作品の質的向上(「高尚」で「淫風」を排したものに)と新劇の制作、作者の権利確立、女優の将来的な登用、観客は「中等社会以上」を想定することなど、多岐にわたった。*12
  • 明治19年(1885)10月、漢学者・依田学海が作成した作品原案の朗読会が開催されたが、臨席者からは酷評を受けた。劇場建設資金の交渉や劇場図面をフランスから取り寄せるなども行われていたが、翌明治20年(1886)にこの運動は挫折した。
  • この挫折を受け、改良会に参加していた福地桜痴は独自の改良を目指して明治21年(1887)、木挽町三丁目へ新劇場を建設することを出願、明治22年10月に歌舞伎座が開場した。
  • このような「演劇改良」運動の流れを受け、明治20年(1886)4月、井上馨邸において初の天覧歌舞伎が実現。「改良」はその後も芸能界のキーワードとなった。

 

3. 首都における演劇改良運動まとめ

  • 西欧化・文明化を推進する政府の意向に従い、「上から」改良を進めようとするものだった。
  • 東京の市区改正や国立劇場構想と連動し、風紀改善の観点から演劇の近代化を目指すという形で、興行とその社会空間を改変しようとする性格をもっていた。
  • 火災・伝染病流行対策だけでなく、上演作品の「質的向上」をはかろうとしたが、近世以来都市住民が享受してきた演劇像とは隔絶していたため、限界があった。

→しかし、ここで提起された「改良」は女性芝居や男女混合芝居の登場、壮士芝居・政談芝居など様々な新ジャンルを派生させ、「下から」改良の呼び水となった。

 

 


┃ 大阪での「改良」問題と特徴

1. 前段階

明治9年(1875)]火災を受けての小屋主たちの対応

  • 4月の竹田芝居の火災を受け、5月、道頓堀の小屋主らは「諸事旧弊を一洗し改正の方法を相立度」いと協議し、俳優らの連判を得て、第二大区(南区)一等区長(総区長)・高田伝蔵に願い出た。*13
  • 12月、高田は三栄(三河屋妻吉)・尾上民見蔵・嵐璃寛らの俳優を呼び出し、劇場狂言の体裁が「淫逸」に流れており、俳優の振る舞いも「醜褻」であり、「百事御改正」の折柄、その改正に努めるべきと諭した。*14

→大阪ではあいつぐ芝居地火災を機に、劇場改良・演劇改良の機運が形成されつつあった

 

2.  演劇会社・俳優議会の試み

明治17年(1883)]道頓堀五座の合併計画

  • 2月、大阪の芝居元方中のあいだで、五芝居(弁天座・朝日座・角座・中座・浪花座)を合併して一つの演劇会社を設立し、競合なく興行を打つことで共栄をはかる計画が持ち上がる。興行主は、それに加入するか、五座とは別に会社を設立するかを選ぶことになる。*15
  • 9月、道頓堀戎座の座主・三栄は主要な俳優や芝居小屋の手代らを集めて「議会」を開催。芝居興行の改良案を決議した。「成丈劇場を廉価にて興行して観客に便利を興ふるの精神」で、内容は興行日数の標準化、役者への月給制導入、俳優買入の実力主義化、買入祝儀や天幕等の贈答廃止、演劇内容の品評と連動した給料の高下などだった。*16
  • 同月、道頓堀中座・角座・戎座の三座の興行主(座主)が協議し、各座の興行を年6回とすることで、俳優・作者・表方*17・楽屋周りの労人・前茶屋(芝居茶屋)が年中間断なく稼業し劇場を廉価にしようとする計画が報道された。

→芝居興行の合理化・効率化と競合の排除・調整により、「劇場を廉価」にして客を呼び込もうとする動きが会社や議会という形をとって目論まれた

 

3. 明治19年以降の大阪における「演劇改良」問題の推移

  • 明治19年、夏頃に起こった名護町(長町)貧民移転問題を主軸として、近代大阪で初めて「市区改正」問題が焦点化した。
  • 12月、大阪府区部会は「市区改正ノ計画ヲ請フノ建議」を可決。大阪における市区改正の課題として以下のものが挙げられていた。
    ①道路・橋梁の数・位置・幅員の確定
    ②公害発生事業場の郊外移転
    ③芝居を含む「賤業者」の集約と郊外移転
    ④花街の移転の準備

→大阪でも市区改正が問題化するのと時を同じくして演劇改良・劇場改良問題が推移した。

  • 9月、東京での演劇改良運動を受け、南区の有力者・安井健治・扇谷五兵衛が演劇改良会発足のための相談を開催。*18
  • 10月、大阪府警本部が道頓堀五座の座主、俳優・中村宗十郎らを呼び出す。五座で演劇会社を設立し、名護町貧民長屋移転の跡地に五座併合の大劇場を設立し、演劇改良を実現すべきと口達。しかし五座は衛生対策のため修繕中で、大金を投資して建設した現在の劇場を無駄にすることになり、貧民長屋移転は審議が始まったばかりであることからは非現実的であるとされた。*19
  • 明治20年7月、大阪府が千日前の興行許可を取り消して、千日前にある興行関連を名護町の貧民長屋跡地へ移転させる方針を打ち出す。

→これによって千日前の興行関係者に興行禁止反対運動が起こり、「演劇改良」運動はなし崩しになって新劇場建設や芝居改良は実現されなかった。また、改良運動に熱心だった役者・中村宗十郎明治22年に死去したことも大阪での演劇改良運動挫折の要因とみられている。

▶︎備考 名護町(長町)貧民移転問題

名護町貧民長屋移転とは、大阪の南区(現浪速区日本橋筋3~5丁目にあたる旧「名護町」(通称「長町」)の貧民長屋を移転させた都市計画。
衛生状態の悪い長屋が密集した名護町では前述のコレラ大流行時に甚大な被害が発生。明治19年(1886)、名護町の家屋を排除し、そこへ遊所を移転させる計画が持ち上がった。
しかし計画が進むうち、遊郭の設置が不許可となり、それ目当てだった発起人やらまだ使える家あるもんと言う家主やら当然のごとくまいっちんぐな住民やらで大揉めがはじまる。
が、明治24年(1891)、長屋の建築基準をさだめた「長屋建築規則」が適用されて名護町の長屋の取り壊し・改築が開始され、名護町の「不潔長屋」は4分1に減じられた。
立ち退きをさせられた住民らは、難波村、天王寺村・北平野村などの「場末」の村へ移転したが、長屋の改築後も名護町へ戻ることはできなかった。これが大阪最初のスラムクリアランスの例となった。

 

 

 

┃ おわりに

大阪での「演劇改良」問題の推移と特徴

①東京の「演劇改良」問題の影響を強く受けながらも、明治9年の芝居小屋火災事件等の段階から伏線となる動きがあった。また、道頓堀の劇場経営の合理化問題、五座連携問題が同時に存在していた。

明治19年以降の「演劇改良」問題は、大阪の市区改正上の問題である名護町貧民移転問題と直接連動し、劇場の移転・新設・合併問題として展開した。

③東京では芝居関係者の動向が「演劇改良」に大きく関わっていたことに対し、大阪では大阪府の芸能興行統制政策とその転換が軸になって、「上から」の「演劇改良」問題が展開していた。

④市区改正問題・都市再開発問題においての芸能興行関係者や地主などの錯綜した利害関係により、問題が複雑・混迷化した。

 

[まとめ]
明治前期の芸能興行統制の展開や「演劇改良」問題の推移は、政治的動向とも深く絡みながら、近世〜近代移行期におかえう都市社会構造の諸変化と不可分なかたちで結びついていた。

 

 

 

 


−−−−−講義ノートここまで−−−−−

 

 

 

 

 

ある意味、上方文化講座で一番面白い講義だった。近代史には興味があるけど、なかなか手を出すことはないので、勉強になった。大阪の地域性をいかした内容だったこともよかった。最後のまとめ自体はある意味普通なんだけど、それを史料をひくことで丁寧にみていく過程が面白い。

上記ノートは固い内容になっているが、実際の講義では史学知識のない人が門前払い的なことににならないよう、当時の芝居小屋復元図や錦絵等をスライドで映したり、分かりづらい言葉は簡単に説明をつけておられて、堅苦しさはない。お若い先生でしたが、かなり慣れておられる方で、話し方も明瞭でわかりやすく、とても聞きやすかった。

 

 

 

内容そのものは芸術としての人形浄瑠璃自体と関係ないけど、興行としての人形浄瑠璃に深く関わるもの。『義太夫年表』等で興行記録を確認していくと、人形浄瑠璃の芝居小屋がちょかちょか移転していることに気づく。なんでこんなに移転してるのか不思議だったが、芝居地の規制や都市計画にもとづいて移転させられているパターンもあることがよくわかった。やたらと神社境内で営業しているのも不思議だったが、薄く知ってはいたけど規制によるものだったのね。先生自身の専門分野をいかした、文楽とほどよい距離感の講義だった。

松嶋遊郭への遊所移転・優遇政策関連はこの先生が最近手を出している分野らしく、今後の発表等が期待される。これについて、人形浄瑠璃にかかわる簡単なことは『義太夫年表 明治篇』にも載っているので、ご参考にどうぞ。

 


┃ 参考文献

 

┃ 参考サイト

講義で見せていただいた、明治期の道頓堀五座の外観復元CGは以下で見られる。

▶︎関西大学 大阪都市遺産研究センター 可視化プロジェクト

可視化プロジェクト|大阪都市遺産研究センター|関西大学

こちらのサイトには御霊時代の文楽座の外観写真が載っていた。道頓堀五座が現在でいうとどこにあったかも参照可能。

▶︎三井住友トラスト不動産 このまちアーカイブ大阪府 難波 

4:芝居・文化の都 ~ 難波 | このまちアーカイブス | 不動産購入・不動産売却なら三井住友トラスト不動産

 

 

┃ 上方文化講座2019記事 INDEX

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*1:昔噺・ニワカ・軍書講釈等を行う小屋

*2:史料:明治2年2月25日、南大組の中年寄が芝居・町席のある町々に通達した内容による。『南大組大年寄日記』参照。

*3:史料:明治2年4月25日「俳優ノ風儀取締」、同5月4日「川原モノ居住心得」。『大阪府府令集』参照。

*4:天保13年(1842)7月22日の町触など。

*5:天保の改革当時、江戸では「川原者」という言葉が使われていたが、大坂では使われていなかった。

*6:史料:明治5年4月2日「芝居仕組大意書ノ提出」。

*7:漢字が出ない。女篇に「蝶」の右側

*8:史料:明治5年7月「芝居等諸興行営業心得」

*9:フランス帰りの官僚。

*10:イギリス帰りの人。「義経=ジンギスカン説」を唱え、『源氏物語』をはじめて英訳した。

*11:大阪でいう「表方」の仕事。下層民が従事していた。

*12:史料:末松が明治19(1885)年10月に行った公演による。『大阪日報』明治19年10月9日号より。

*13:史料:『大阪日報』明治9年5月16日号。

*14:史料:『大阪日報』明治9年12月19日号。

*15:史料:『日本立憲政党新聞』明治17年2月21日号。『日本立憲政党新聞』は『大阪日報』の改題。

*16:史料:『朝日新聞明治17年9月6日号。

*17:大阪の芸能興行界で内部の雑用を行う者をさす言葉。

*18:史料:『朝日新聞明治19年9月29日号。

*19:史料:『大阪日報』明治19年10月17日号。