TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 上方文化講座2019(6)語りとドラマ 人形浄瑠璃と映画が出会う場所 大阪市立大学

上方文化講座最終日、3日目1限目は「語りとドラマ 人形浄瑠璃と映画が出会う場所」。ご担当は映像文化論がご専門の海老根剛先生。

要約すると、人形浄瑠璃における「語り」の機能を映画では何がつとめているのか、また、具体的にはどういう例があるのかを解説していくという講義。なんだか話がうまく整理されていない気がしたのだが、一旦、説明の構造はいじらず、走り書きノート的に記事を載せる。

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語りとドラマ 人形浄瑠璃と映画が出会う場所 INDEX

 

 

人形浄瑠璃と映画の接点

人形浄瑠璃は「劇」と「語り物」の接点に成り立つ舞台芸術である。第三者の語り手が事件の顛末を語って聞かせ、それにつれて人形が動くという形態をとっている。これだけなら古浄瑠璃も同様だが、義太夫節成立以降の隠形浄瑠璃では、太夫は語り手である以上に登場人物になりきって人物の行為や劇的葛藤を追求しており、「劇」と「語り物」の接点を求めていくスタイルになっていった。

 

 

 

人形浄瑠璃の語りの構造

人形浄瑠璃では物語の進行に「語り手(書き手)」が大きく介在している。登場人物目線でストーリーが進行する以外に、冒頭で結末をあらかじめ伝える部分/途中で登場人物を客観的に見つめる部分/結末でその浄瑠璃の出自を伝える部分が入る。

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例 『心中天の網島』(原作)

上の巻「河庄」冒頭

南の風呂の浴衣より、今この新地にこひ衣、きの国屋の小春とは、この十月にあだし名を、世に残せしとのしるしかや。

→冒頭で物語の結末を伝えている

 

上の巻「河庄」段切

たつたこの足一本の暇乞ひと、額際をはつたと蹴て、わつと泣き出し、兄弟連れ。帰る姿もいたいたしく、後を見送り声をあげ、嘆く小春もいたはしき。

→登場人物を客観的に見つめる語り手(書き手)の所感が挟まれる

 

下の巻「道行名残の橋づくし」段切

朝出の漁夫が、網の目に、見つけて、死んだ、ヤレ死んだ、出合へ出合へと声々に、言い広めたる物語、すぐに成仏得脱の、誓ひの網島心中と、目ごとに涙をかけにける。

→この浄瑠璃が作られた出自を伝えて終わる

 

注:最初の段/最後の段と、マクラ/段切を混同して話しておられるように思ったが、どちらにも言えることではあるので、そのまま掲載する。

 

 

 

活動弁士は映画の「語り」なのか

映画初期の「語り」といえば弁士が想起され、弁士−映像の関係は人形浄瑠璃の 太夫−人形 と同様の構造と言われることがあるが、人形浄瑠璃は 太夫(主)−人形(従) であるため、 弁士(従)−映像(主) の関係とは異なる。弁士−映像の関係は、むしろ、歌舞伎の義太夫狂言の 竹本(従)−俳優(主) と同じである。*1

 

 

 

┃ 映画での「語り」機能 (1)カメラ

映画では、「語り手」の機能を「カメラ」がつとめる。

例1. マキノ雅弘監督『次郎長三国志 第四部 勢揃い清水港』東宝/1953年

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冒頭部

この作品の冒頭部には浪曲広沢虎造)が入っており、清水港の情景が語られるにつれて映像が切り替わっていく。

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場所(清水港)がわかるショット→町中の様子がわかるショット→大八車を引く青年の俯瞰→青年の視線の先、宿場の二階窓辺にいる娘→娘のいる二階の室内へ移行、物語が始まる。大八車を引く青年の俯瞰は、宿の二階にいる娘から見た屋外の様子。宿場の二階窓辺にいる娘が手を振っている様子は青年から見た様子。室内シーンではカメラは第三者の視線になり、主観→客観の交代が行われている。

 

 

例2. 内田吐夢監督『恋や恋なすな恋』東映/1962年

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「葛の葉子別れ」のシーン

葛の葉のセリフが義太夫で語られ、舞台と同じ様式になっている。

注:講義では、葛の葉のセリフがすべて義太夫になっているかのようなニュアンス(人形浄瑠璃のようになっている)で紹介されていたが、本作は歌舞伎の義太夫狂言と同じシステムで、人物が発声するセリフ=俳優のセリフ、情景・人物の内面=義太夫(豊竹つばめ太夫)に割り振られている。葛の葉のセリフが義太夫になっていると言いたいがために特例的な部分を恣意的に抜いているか、義太夫狂言人形浄瑠璃の区別がついていない(違うことは知っていても、実演として具体的にどう違うかわからない)状態で説明されているのではと感じた。実際には葛の葉のセリフは俳優が喋っており、葛の葉のクドキは嵯峨美智子がすべてセリフとして読み上げている(義太夫としてのリズムには乗っていない)。

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美術は歌舞伎舞台を模しているが、映像はロングショット・長回しのような舞台中継的なものではなく、一般映画と同じようにカットが割られてカメラの寄り引きがあり、現実の舞台の見え方(知覚のプロセス)とは異なる*2。この効果が、語りと同じ情報の整理の機能を担う。

 

 

 

┃ 映画での「語り」機能 (2)モンタージュ・シークエンス

映画の始まりと終わりは観客を意識した伝達を行うシーンになっていることが多い。タイトルロールおよびその直後には、第三者視点から舞台・登場人物等の情報の説明を行うシークエンス(モンタージュ・シークエンス)が入れられる例が多くみられる。この「語り」は常に全面に出てくるわけではなく、部分的に使われる。

 

例3. オーソン・ウェルズ監督『上海から来た女』コロンビア映画/1947年

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冒頭部

「このような結末になると知っていたら、こうはしなかっただろう……」と、物語の結末を知っている人物(この場合は主人公)が過去を回想するという独白で映画がはじまる。ただし、途中で別の登場人物との会話なども挟まれ、頻繁に主客が転倒して、物語に導入されていく。


例4. ダグラス・サーク監督『天が許し給うすべて』ユニバーサル・ピクチャーズ/1955年

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冒頭部

街の俯瞰ショットからはじまり、高級住宅街を走っていく車、豪邸の庭先、そこに住んでいる主人公と、どんどん物語の核心になるものごとに寄っていく。*3

 

 

 

例5. 溝口健二監督『近松物語』大映/1954年

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おさんと茂兵衛が大経師の家を逃げた後、茂兵衛がひとりで自首しようとおさんを置いて逃げるシーン

山を下っていく茂兵衛をとらえたショットはおさんの視線、山の下に降りると茂兵衛の視線、おさんが転ぶと第三者の視点になる。

 

 

 

篠田正浩監督『心中天網島』の構造

篠田正浩監督『心中天網島表現社・ATG/1969年

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▶︎特徴1 ワンシーン・ワンショット

ワンシーン・ワンショットの長回し撮影。

→ひとつのシーンをひとつながりの時間として表現しており、演劇を観ているのと同様の体験となりうる

 

▶︎特徴2 フレーミングの変化による人物出入りの表現

ただしカメラは移動し、フレーミングの変化(見える範囲の変化)によって近松の文章の特徴である目まぐるしい人物の出入りを表現・処理している。

例 原作「河庄」孫右衛門が小春から起請文を受け取るくだり

この間、原作では治兵衛のことが描写されず、どこで何をしているの?状態になるが、映画『心中天網島』ではカメラを移動させ、治兵衛をフレームアウト(というか孫右衛門のうしろに隠れさせる)ことで、文章に書かれていない人物を映像上から消去している。治兵衛が原文に再登場する場面になると、フレーム内に戻ってくる。

近松の文章の特徴を映像で再現している

 

▶︎特徴3 ただし、人形浄瑠璃の映像化ではない

ところどころに太夫の語りが入り、黒子が登場したり、盆が回るのを模した美術表現があるため、映画『心中天網島』は人形浄瑠璃的であると言われているが、人形浄瑠璃としての『心中天網島』を映像化しているわけではない。あくまで「近松の文章の映像化」である。

というのも、地の文(黒子がおさんからの手紙をカメラの前に持ってくるなど、黒子の行動が地の文を表現している)と人物のセリフは完全に分離されており、俳優の身体と言葉(セリフ)が離れがたい関係になっている。人形浄瑠璃では地の文とセリフはシームレスだが、この映画はそうではなく、俳優の身体/セリフが一致した関係である。これは歌舞伎の義太夫狂言の表現と同じで、篠田監督自身も歌舞伎の観劇体験を発想の源泉にしていると思われる。これは、映画冒頭部、篠田監督の電話の声が入っているシーンで「歌舞伎の道行〜」という発言が入ることからも言える。

→× 人形浄瑠璃の映像化
 ◯ 近松の文章の映像化

 

 

 

−−−−−講義ノートここまで−−−−−

 

 

 

篠田正浩監督『心中天網島』についての解説はとても面白かった。ただ、人形浄瑠璃については、ちゃんと筋道立てて話されてはいるのに整理の仕方が不自然なのは、先生ご自身の中で文楽は知識であって実感ではないからかなと思う。浄瑠璃(戯曲自体)と義太夫(語り物としての芸能)と人形浄瑠璃義太夫と人形が複合した芸能)の区別をした上での整理がなされていないと感じた。特に、「義太夫浄瑠璃、語り)」には「地の文」と「セリフ」があることと、人形浄瑠璃は「浄瑠璃(語り:聴覚情報)」と「人形(演技:視覚情報)」によって構成されていることを説明の中で混同されているようだった。そのあたりが混線状態だった講義の前段説明と最後のまとめは申し訳ないのだがこの記事ではカットした。おもしろいお話なのに、もったいない印象。

でも、文楽に興味があるわけではないお若い先生が、ご自身の専門分野をチューンナップしてお話を一生懸命考えてきてくださるって、ありがたいよね。本当、がんばっていらっしゃる先生という感じだった。体験的に理解していない分野の講義準備は大変だったと思う。来年からは一般受講生を気にせず専門分野の話をそのまましてもらうのが一番ですよと言いたい。受講生自身の中で結びつければよいし、そのほうが受講生として面白いと思う。

 

 

 

┃ 上方文化講座2019記事 INDEX

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*1:この後、浪曲映画は人形浄瑠璃と構造が同じという説明があったが、これはちょっとわからなかった。個人的な所感では、浪曲映画の映像が厳密に浪曲師の語りとシンクロしているかは怪しい。確かにおおまかには合っているけど、それは脚本上の構成や、あとあとの編集レベルでなんとなく合わせているレベルであって、人形浄瑠璃のように語りに人形(映像)が追随している完全なプレレコ形式なわけではない思うが……。

*2:でも、実際に集中して舞台を見ているときって、感覚的にはこういう寄り引きでもって人形が見えますよね。お人形さんたちも話に関係のない奴らはじーっとしていて、客の視界からフェードアウトしようとしてますし。これは歌舞伎でも他の舞台芸術でも同様だと思う。

*3:講義では『義経千本桜』すしやの段の冒頭「春はこねども花咲かす、娘が漬けた鮓ならば、なれがよかろと〜」がこれに近いという紹介があったが、それはそうなんだけど、それを言い出したら浄瑠璃のマクラ、全部場所紹介では? いまの季節はなんとか、ここはなんとかの国なんとか村、そのなんとかハウス、そこにはなんとかという人がいました的にどんどんズームしていく構成だよね。長唄や謡ではじまるタイプも情景描写が入ってることが多いし、いきなり話が始まるのは『彦山権現』の六助住家とかくらいか? 段切がコトバなど特殊な終わり方なのは、『大経師』の大経師内や『忠臣蔵』七段目にあると思うが。