TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 6月大阪文楽鑑賞教室公演『五条橋』『菅原伝授手習鑑』寺入りの段・寺子屋の段 国立文楽劇場

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大阪の鑑賞教室公演の配役は、前期・午前の部、前期・午後の部、後期・午前の部、後期・午後の部の4グループに分かれている。昨年まではこのうち前期・後期のいずれか2グループのみを観ていたが、今年は一念発起して、全グループを観た。

 

 

A. 前期・午前の部

寺子屋の段 配役]

  • 前=豊竹藤太夫・鶴澤清友/後=豊竹希太夫・鶴澤清介
  • 松王丸=吉田玉男/千代=豊松清十郎/源蔵=吉田和生/戸浪=桐竹紋臣/春藤玄蕃=吉田文司

おまけ演目だと思っていた『五条橋』。しかし、油断してはいけなかった。牛若丸役の清五郎さんがすごく良かった。みずみずしく端正な佇まいで、絵巻物が動いているような優美さ。上品な衣装の扱い、爽やかで小さめの仕草が貴公子風でとても良かった。扇をかかげる→下ろすときにも微細な表情がつけられていて、貴人らしい雰囲気があった。下ろしている途中から弁慶の演技になるので、そのとき牛若丸を見ているお客さんはごく一部だと思うが、そういった細かいところも一連の動作としてとらえた演技だった。

それにしても牛若丸の袴、ド派手。白地に鳥居の模様という北九州の成人式みたいな大変特殊なセンスだった。

 

本編・寺子屋は人形が全日程の中で突出して良い配役。なぜ玉男さんと和生さんを固めたのか。確かに玉男さんの松王丸の覇気に競り合える源蔵は和生さんか勘十郎さんしかいないとは思うが、玄蕃が文司さんだし、千代も清十郎さんだし、あからさまに人形の配役が良すぎ。

その中で面白かったのは、戸浪が紋臣さんだったこと。今回は勘壽さんが出演していないので、戸浪の配役が全体的に若い人にスライドしている。その4人の中でももっとも若い雰囲気の戸浪。芸の熟練度ではなく、醸し出す雰囲気自体がかなり若い。源蔵って絶対サイコパスだとは思っていたけど、こんな若い奥さん連れて駆け落ちとか、まじでやばすぎと思った。

紋臣さんの戸浪はなかなかのお色気奥様だった。人形(着付)自体は同じものを同配役複数人で共有しているのではと思うが、一番抜き襟して見える構え方、かつ動作を分解する複雑めの遣い方だからだろうか。千代とおじぎしあうところとか、土産に手をつけるよだれくりに「めっ💓」とするところとか(ここ、おかんノリのマジ叩きする人いません?)、近所の歯医者で大島渚気取りのキモ男に見初められてストーキングされてそうな感じだった。かねてよりツメ子供たちを迎えにくる保護者が全員男性なのを不思議に思っていたが、あいつら戸浪目的だな。

戸浪の若さに引きずられて、和生さんがかなり素早くなっていた。逸る戸浪を引き止めるところとか。和生さんって、結構、人に合わせるよね。たまに突然素早くなる和生さん、好き。和生さんの源蔵はいい。おさえた律儀な雰囲気で、端正な源蔵だけれど、真面目すぎてやばい人感があって良い。真面目でやばい人って本当にやばい。和生さんによく来る役の中で源蔵だけ浮いているように思うが、ご本人的にはどう思っていらっしゃるのかしらん。*1

松王丸は玉男さん。今回、4グループ観てよくわかったが、玉男さんは相当安定度が高い。演技が非常に安定していて、ブレがない。何回やっても同じ。迷いがなく、全体の流れやメリハリのコントロールが的確。演技がシーンごとでバラけていない。目指す表現が明確で、全編の見え方から逆算して演技を設計しているんだと思う。最近、演技が場面場面でぶつ切れになる人がいるのが気になっていたけど(義太夫も)、ならない方がすごいということなのね。今回それが本当によくわかった。でも、そういう比較とか気づきとは一切関係なく、私は玉男さんの松王丸が好き。前半の本心を塗り隠した正体不明の不気味さ。後半の静かさのなかの、滲み出るような、しぼり出すような、押し殺した悲しみ。どのときも堂々として、かつ、清澄な佇まいで、本当に素晴らしいと思う。

千代は清十郎さん、ふんわりと優しい雰囲気。かしらも結構丸顔で、ふっくらとした顔立ち。寺入りの段では「大丈夫かなこの人」と思ったけど、寺子屋の後半といろは送りのところは持ち前の清楚さが美しいかたちで出ていて、良かった。段切れ、客席に背中を向けてかがむところはとても綺麗な姿勢だった。あの姿勢、高さのコントロールや上体の見せ方が結構難しいんだなとわかった。

それにしても、千代と戸浪では、千代のほうが年下だと思っていたけど、もしかして年上なのかな。戸浪は子供がいないし、最近まで腰元勤めしていた設定だから、結構若いのかも。

千代と戸浪はどう違うのか。数年前の鑑賞教室で千代と戸浪の語りわけをやっていたけど、あれ、微妙だよね。武家の妻と在所の女房という解説をしていたけれど、声色以外にちゃんと語りわけしてる人、いるのかなと思う。戸浪だって武士の妻で、それなりの家の娘のはず。人形もついてくると舞台での見え方はさらに微妙で、両者の役の性質上の違いというより、人形遣いの個性の違いに相当引きずられていると思う。

寺子屋の子供たちは今回もめちゃくちゃ騒ぎまくっていた。菅秀才に似ているとされるいちばん美形の子、冒頭部を見ていると、あまりに落ちつきがなさすぎて笑ってしまった。あの様子を見たら一発で菅秀才ではないとわかる。それと、そのほかのしょうもない顔の子供たち、机の位置をガタガタいわす低レベルなしょうもないいたずらをしていて、本当にアホな子供でとても良かった。かしこいひとが頭で考えたアホではない、天然由来成分100%の味があった。そういえば、寺子屋のツメ子供たちって、回によって並び順ややることが結構違うんですね。そこも面白かった。ふざけてやっているように見えて、よく観察していると、道具の取り落とし等のミスのフォローのしあいが的確で自然なのも面白い。

菅秀才〈吉田玉征〉はものすごくモッフモフのプックプクの巨大ハムスターみたいだった。おっとりした所作がとても可愛くて、最後の「この悲しみはさすまいに」で涙を拭うゆったりとした仕草がとても愛らしかった。

いままで気付かなかったが、松王丸が捕手に呼びかけるところ、捕手がちゃんと返事しているんですね。ときどき不自然な返事の人がいて面白かった(失礼)。

 

 

 

B. 前期・午後の部

寺子屋の段 配役]

  • 前=豊竹呂勢太夫・豊澤富助/後=豊竹芳穂太夫・野澤勝平
  • 松王丸=桐竹勘十郎/千代=吉田簑二郎/源蔵=吉田玉也/戸浪=吉田簑一郎/春藤玄蕃=吉田玉輝

『五条橋』の弁慶の足の方、どなたかわからないけど、うまいと思った。

 

寺子屋、勘十郎さんは狂っていると思った(率直)。

昨年12月東京の鑑賞教室はかなり大ぶりの演技で、なぜそこまでやる?と思っていたけど、さらなる大ぶりな演技だった。単に誇張しているというより、大ぶりにするところを変えている。12月東京で目立っていたのは、松王丸の二度目の出、菅丞相の句を詠んで寺子屋に入り、座敷に背を向けて頭巾を取るところで「まじで!?」というレベルでメチャクチャ泣いていたことだけど、今回は源蔵が首を討つ音を聞くところと、首実検で首桶の蓋を閉めたあと、「まじで!?!?!?」というレベルに誇張した慟哭ぶりだった。とくに首実検のところ、さすがに玄蕃や源蔵が察するのではと思った。

最大の特徴は、通常の立役にはないほどのうつむきの表現。胴体に対して90度に近い、人形の首が完全に落ちているような状態にしていた。女方だと背筋を伸ばしながら首だけかなり俯かせる所作をさせる人がいるけど、立役でやっている人は初めて見た。通常、うつむき姿勢、たとえば首討ちを音を聞いて刀を取り落としてよろけ、刀を拾ってもたれかかり、うつむいて右腕をひたいに当てて顔を隠す所作のところ、あそこでも通常は顔はやや見えるはずなんだけど、髪の毛(頭頂部)しか見えないくらいに下げていた。また、人形全体の構え方として、肩をいからせ気味にしているのも特徴的だった。寺子屋の中へ入る所作(後述)から推測しても、松王丸の物理的な大きさを強調しているようだった。

むかしの映像を見ると勘十郎さんもここまで誇張した演技はしていないので、何か考えがあってやっていることだろう。勘十郎さんなら、ふつうにやってもだれからもちやほやされると思う。そのほうがまっとうなはずなのに、なぜこんな戦闘的なことを……。阿古屋で本当に琴を弾いているのも狂ってると思ったが、この松王丸はまじで狂っている。なぜこんな演技をしようと思ったのか、何を目指しているのか。

私は、勘十郎さんは、単にわかりやすくしたいというより、人形の演技を人間の演技に近づけようとしているのではないかと推測している。ただ、私は、人形浄瑠璃が人間の役者のリアリズムに近づくのは、「ないわ」と思っている。歌舞伎を見慣れている客を引くという意図なのか。しかし客の立場からすればそれなら歌舞伎を観ればいい。そこをなぜ「そっち側」に近づけようとしているのか。今後、人形遣いとしてここまでの役をできる時間は限られているはずなのに。単なる派手さ志向ではない、やばいオーラを感じる。

惜しむらくは、人形の安定度が低く、軸や重心がぐらついていること。このような勘十郎さんの人形の不安定さは体格要因だと思っていたけど、後期の松王丸役おふたりも人形の重心が安定していなかった。不必要な揺れは、玉男さん以外の全員に起こっていた。首実検では、人形がぐらつくと頭につけている熨斗紙が振動するのでかなり気になる。人形って、体力や体格で持っているわけじゃないんだなと思った。そして、左が相当うまい人でないと、松王丸、まともに横も向けないわと思った。向き直りの姿勢移行や羽織の袖の処理、刀の扱いがめちゃくちゃになっている回があった。通常、主要な役の左を勤めているのは固定の人だと思うが、このように何配役もあると、慣れていない人が入るんだと思う。がんばって!って感じだった。

床は、私が行った回だと勝平さん(後)が弦を切ったのか、音が途中からおかしくなり、大幅に音が抜けて、大変そうだった。そのあいだは芳穂さんがひとりで頑張っていた。いろは送りの最後は三味線の音が出ないとどうしようもなくなってしまう、大丈夫かなと思ったけど、それでもなんとか演奏されていて、最後までいけていた。

 

 

 

C. 後期・午前の部

寺子屋の段 配役]

  • 前=竹本織太夫・鶴澤藤蔵/後=豊竹靖太夫・野澤錦糸
  • 松王丸=吉田玉志/千代=吉田一輔/源蔵=吉田玉佳/戸浪=桐竹紋秀/春藤玄蕃=吉田文哉

さる昨年12月東京公演の『鎌倉三代記』。高綱物語に入ったところで隣の席のおじさんが泣き出したので私はびびっていた。文楽の上演中に泣き出す人は何度も見てきたが、これ、話の内容的には別に泣けないですよね。と思っていたが……、玉志さん(高綱役)に拍手してるのが自分とこのおじさんだけということに気付いた。あの玉志さんガチ恋おじさん、どなたかは存じませんが、今回の公演はご覧になりましたか。私はこのために後期日程へ来ました。

とはいえこの部、めちゃくちゃやばい。本公演で相応の役をやっているような人は誰もいない。全員がランクアップした配役。ぎりぎりの均衡、出演者のひたむきさだけで舞台が成り立っている。紅潮した、うわずった気持ちが伝わってきた。人間(しかもまったくのあかの他人)の純粋な気持ちを見たような気がして、ドギマギした。

よだれくり〈吉田和馬〉がなんとなくおりこうそうだった。小太郎〈吉田玉峻〉も相当上品でおりこうそうだった。かなりおぼっちゃま感があった。両者とも人形の構え方が端正なことによるものだと思う。和馬さんのよだれくりは、寝る前に明日の持ち物枕元に揃えていそうだった。かぶとむしとかと一緒に。

千代〈吉田一輔〉が戸浪〈桐竹紋秀〉と礼をしあうところ、戸浪の背後でよだれくりたち〈吉田玉彦、どうしたその髪型〉が手土産を食いまくるのを千代が「食ってる!食ってる!」と戸浪に教えていた。ほかのグループでは、千代と戸浪が丁寧に二礼していたりして、戸浪がよだれくりたちのいたずらになかなか気づかないパターンもあったが、一輔さんは早々に教えるのがおかしかった。この場面では、各回の配役による千代・戸浪のおじぎの仕方の違いも面白かった。体を地面と並行気味にする人、頭をかなり下げる形にする人、動作でも、胴体部分をまっすぐにおろす人、何段階かで曲げ気味にする人。必ずしも千代のほうが上品だとか、艶やかであるとかはなく、役の性質というより人形遣いの個性が出ているようだった。場面としては一瞬で、さりげないところだけど、面白かった。

玉志サンの松王丸は、かなり若い雰囲気で、衝撃的だった。始終、凛々しい佇まいだった。前半はまったくの他人面をしているようにクールに演じ、後半はかなり率直というか、素直にその心を見せるようなストレートでみずみずしい雰囲気だった。

しかしなんというか、キラキラ感とスレンダー感がかなり出ていて、天海祐希が松王丸を演じたらこんな感じになるのではと思った。宝塚の男役スター感があるというか。『ベルサイユのばら』を文楽でやる暁にはオスカルは勘彌さんだなと思っていたけど、まさかの玉志サンかもしれない。いややっぱり玉志サンにはフェルゼンをやって欲しい。話がそれた。えっ、松王丸がこんなキラキラしてるってありえるの? 樋口とか高綱、光秀が若い雰囲気なのはわかるんだけど、なぜ松王丸でこれ? と思ったが、松王丸はまだ子供が小さいところをみると実際には若いはずなので(江戸時代制作ということを考慮すると私より若いと思う。考えたくないけど)、なるほどそういう解釈ね……と思った。寺子屋の松王丸は雪持松の衣装を着ている。あれは、どういう場所に身を置いても変わることのない、松王丸の汚れなく清らかな心を表しているのだと思っているのだけど、その雪持松の衣装が似合う、清潔な松王丸だった。

それにしても、籠から降り、寺子屋の前に立つところでの病気具合にはびびった。あまりに具合悪そうすぎて、この人、インフルエンザなのかな……。はやく家帰って……。と思った。たぶん織太夫さん(ものすごい前のめりでやっておられた)に合わせてるんだと思うけど、すごい病気ぶりだった。織太夫さんといえば、文楽の現行通常とはすこし違う詞章でやっているのかね? 綱太夫本とかでやってるのか? 藤蔵さんの演奏もすこし違うところがあるように感じたが。ただ、三味線の演奏に関しては、太夫に合わせているとか関係ない次元で、三味線さん個々が継承しているものによって違いがあるようだった。

後のヤスさんは、出だしがかすれ気味で声が出ておらず、不調なのかなと思ったけど、千代のクドキのところはとても良かった。ヤスさん、いつも通り死んだ目で解説をされていたけど、私の隣の席に座っていた学校行事観劇らしき女子生徒さんが、ヤスさんが死んだ目で解説していたことをパステルカラーの可愛らしいメモ帳に可愛くて細かい字で一生懸命メモしておられた。

 

最後になったが、『五条橋』、牛若丸〈桐竹紋吉〉が相当のショタ風、弁慶〈吉田玉翔〉がイケメン武将風のキラキラ作画でびびった。人形の体格そのものに対する遣い方がそう見せているのだと思う。

 

 

 

D. 後期・午後の部(Discover BUNRAKU)

寺子屋の段 配役]

  • 前=豊竹睦太夫・竹澤宗助/後=竹本小住太夫
  • 松王丸=吉田玉助/千代=吉田勘彌/源蔵=吉田文昇/戸浪=吉田簑紫郎/春藤玄蕃=吉田玉勢

Discover BUNRAKU(外国人向け公演)の回だったため、『五条橋』は上演なし。

昨年12月東京公演のDiscover BUNRAKUではほぼすべてを英語で解説していたが、今回は逆にほぼ日本語だった。Nozomi Englishが聞けなくて残念。Nozomiは内容が間違っている英語の解説を律儀に訂正してたが、Nozomiよ、そこは英語で言ってくれと思った。玉翔さんは大阪弁のままでいいです。

驚いたのは、デモンストレーションの定番『仮名手本忠臣蔵』「裏門の段」を、冒頭部分のみながら、人形・舞台装置付き(幕のみ)で上演したこと。年間通しで忠臣蔵をやっている大阪ならではの企画。配役は解説に出ている人で、太夫=希さん、三味線=友之助さん、人形勘平=玉翔さん、お軽=玉誉さんだった。裏門の段はシチュエーションが複雑すぎて、はじめて文楽を観る人向きの内容ではないと思っていたが、人形がついていればだいぶわかる、かもしれない。人形解説では、立役の人形に妹背山の注進を使う、女方では後ろぶりを見せるなど、いつもとは違うデモンストレーションが見られた。注進の人形で「泣く」「慟哭する(だっけ?)」をやった玉翔さんは大変だったと思う。金時のかしらの人形って、普通、泣かないよね。でも、見ていてちょっと複雑な気分になった。この人たち、本公演で勘平や後ろぶりをするような人形を遣える日が来るのかな、来るとしてそれはいつなのかなと思って……。

そのほか、解説で舟底のセリを動かすところを見られたのがよかった。演目によって上段下段があるときとないときがあるが、電動式で動かすことができるとのことだった。

 

本編。ものすごいチャレンジ配役だと思ったが、千代の人形が本公演相当の勘彌さんで、千代を中心にまとまっていた。ひとり相応の人がいるだけで結構もつもんだなと思った。かなり瑞々しく清楚な雰囲気の千代で、しかし微妙にあでやかさというか、色気があり、最高だった。小太郎の手を引いてしずしず入ってくるところと、白い着付に着替えてのれん口に立っているところが良かった。私があの寺子屋のツメ子供の保護者なら、ほかの芋オヤジたちから抜け駆けして仲良くなるべく毎日1000回くらいLINEを送ってブロックされたい。

が、全体的には、「いろいろな事情で微妙な配役になってしまった地方公演(夜の部)」という感じだった。千代は引っ込んでいる時間が長いので、首実検のところが微妙な空気に……。全員頑張っているのはわかるが、どうしようもない。東京は鑑賞教室2グループで配役に優劣がつかないようにしてあるけど、大阪はなぜこんなにチャレンジ精神を発揮してくるのだろうと思った。

よだれくり〈桐竹勘介、人形に男塾の先輩感が……〉はパパツメ人形におんぶしてもらって帰ろうとするも、ツメ人形が三人遣いの人形をおんぶできるはずもなく、パパは転んでしまう。そこで逆によだれくりがパパをおんぶして、親子は退場していく。というシーン、このグループのよだれくりパパは単に転ぶだけでなく、腰をいわしていて、面白かった。しかし、ツメ人形から三人遣いの人形が生まれるって、すごいよね。そこは越えられない壁だと思っていた。よだれくりのママは三人遣いなのかもしれない。

 

↓ アンケートに答えるともらえるトートバッグ。なぜこの柄。

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4グループ観て感じたこと。まず、普段、自分が何を見て、何を見ていないかが、とてもよくわかった(気がした)。それと、普段、無意識レベルで自分が「普通」と思っているものは何なのか、ベテランはそうでない人と何が違うのかがよくわかった。普通に見える、聴こえることってすごいんだなと思った。人形に関しては、とにかく、上演時間中、人形をまっすぐ持ってる時点で、すごい。人形が、立って、座るだけで、すごいです。

太夫は若手中心となっていて、大丈夫なのかと思った。が、三味線にベテランの人がついているので、なんとか上演できていた。普段の公演では三味線に「おお」となることは少ないけれど、今回のような配役の場合、その場で突出した技量の人が一番目立つ現象が起こるためか、ベテランの三味線さんの巧さがよくわかった。みなさん良かった。三味線の音の表情のディティール、うるおい、艶やかさなどが感じられた。

人形はあからさまに前期の配役がよく、後半にいくほどチャレンジ精神が横溢していて、さすがに初めて文楽を観る方には前期に来てほしいと感じた。

本当は幹部は脇に回って、玉志さん松王丸・玉男さん源蔵の回を作って欲しかったけど、玉志さんの松王丸を見たら、これは間違いなく玉志さんは玉男さんに競り負けたなと感じたので、現時点ではばらけて良かったのかもしれない。また時が経てば、変わると思う。

 

 

 

おまけ 人形見較べポイント。

 

戸浪は源蔵から受け取った袴を畳むか否か

戸浪が袴を受け取った後、源蔵は重要な話をするが、そのとき戸浪はどう源蔵に向き合うのか?

  • A 桐竹紋臣 一切畳まない。受け取ってそのまま後ろに下げ、源蔵に向き合って話を聞く。畳みそうだと思っていたんだけど。
  • B 吉田簑一郎 かなり丁寧に畳む。紐等もちゃんと畳む。ただし、源蔵の話に相当気を引かれている風で顔は源蔵に向けており、手元はお留守風。
  • C 桐竹紋秀 一切畳まない。受け取ってそのまま後ろに下げ、源蔵に向き合って話を聞く。
  • D 吉田簑紫郎 畳まない。受け取ってしばらく持ちながら源蔵の話を聞くが、自然な流れをつくって後ろに下げる。

*AとCのおふたりは兄弟弟子のため同じ所作である可能性があるけど、紋壽さんがどうしていたかは未調査。本公演の定番戸浪・勘壽さんはDの簑紫郎さんに近い感じだったはず。

 

松王丸が寺子屋へ入るときの玄関の鴨居のくぐり方

そのまんま屋内へ入ろうとすると頭につけている熨斗紙が鴨居にひっかかってしまうところ、どうやって処理するのか?

  • A 吉田玉男 人形を高い位置に構えたままで、直立状態でくぐる。人形遣い自身がかがんで人形の位置を下げ、松王丸の姿勢はキープ。ぎりぎりでくぐるので、人形の位置の上下にはほぼ気づかない。
  • B 桐竹勘十郎 人形を高い位置に構え、松王丸にやや頭を下げさせてくぐる。人形自体の高さを保ったままで、松王丸に「くぐらせる」。人形の姿勢が崩れてでもやっているので、おそらく松王丸の大きさを強調するためにやっていると思われる。
  • C 吉田玉志 土間→屋内の段差を上がる所作を利用し、土間で人形の位置を低めにしておいて、歩く動作の中で自然にくぐる。そのため土間と座敷の認識が発生している。
  • D 吉田玉助 人形の位置自体が低めで、元々つっかかりがない。くぐるという動作を意識をせずにやってるのではという感じだった。

*こちらもAとCのおふたりは兄弟弟子のはずだが、くぐり方が異なる。初代玉男師匠がどうしていたかは未調査。


そのほかの松王丸の所作

松王丸の二度目の出、「梅は飛び」と詠んで寺子屋に入り、「女房喜べ」で勢いよく扉を閉めて座敷側に背を向けて頭巾を取るところの所作。頭巾をとりながらそのまま顔へおろして涙を拭っているのは玉男さんだけだった。ほかの人はしていなかった。玉志さんがしなかったのが一番意外だった。あの所作の目的は、松王丸の感情を表現しつつ、頭巾を外した拍子に乱れた髪の毛を自然に直すのが目的だと思うけど(たしか初代玉男師匠はそういう考えでやっているはず)、玉志さん、玉助さんは頭巾を外してそのままおろし、手で髪の毛をふさふさ直していた。勘十郎さんは、去年の12月東京鑑賞教室では拭いていたけど、今回は拭いてはいなかった(12月にやっていた泣き崩れをしなかった)。髪は直していなかったかな。

それと、首実検の最中、松王丸はときどき玄蕃や源蔵、奥の一間に目をやるが、あの目を動かす速度、玉男さん以外の人はかなり速かった。しかし、一瞬だけキョロっとするのでは、客席からは何をしているのかわからない。盗み見ているわけではないと思うので、本意を隠し仕事のふりをしてじっと注視しているというふうにしたほうがよいように思うが、どうか。玉男さんって気をもたせるような演技しないよなあと思っていたけど、ちゃんとしていたんだなあと思った。玉男さんは余計な所作をカットしているように見えて、目の動きと指先の動きは結構凝っている。首桶の蓋を閉める所作に意味をつけているのは今回は玉男さんのみだった。勘十郎さんは蓋を閉めた後の所作・姿勢に意味づけをされていた。

ほか、勘十郎さんのみ、2度目の出のツケが違う気がしたが、単に打っている人の差かも。

 

首実検での源蔵の所作

だいぶあとになって気づいたのだが、首実検にさしかかるところ「忍びの鍔元寛げて」で、源蔵に本当に鍔元をくつろげさせている人って、実は少ない? Cの玉佳さんはやっていたが(刀身が見えるレベルで引き抜く)、ほかの人は基本的に柄の部分につばを吹きかける演技だよね。っていうか、玉佳さんは両方やっておられた。これだと若干複雑気味に見えるために、ほかの人はしないのだろうか。役の人格に付随する個々のくせ的な演技の多い玉也さんをよく見ておけばよかった。失敗。

 

 

 

展示室

↓ うし アンド 唐突にリアルなにわとり(下にこの巨大にわとりをだっこしている玉志サンの写真が置いてあって最高だった)

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↓ 松王丸の衣装

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↓ 菅丞相の木像

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↓ むかしのブロマイド。1930年(昭和5年)8月、四ツ橋文楽座公演 舎人松王丸=吉田栄三

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 ↓ 同公演 女房千代=吉田文五郎

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↓ 1945年(昭和20年)1月、四ツ橋文楽座公演 一子小太郎=吉田亀夫、女房千代=吉田文五郎、妻戸浪=吉田栄三郎、菅秀才=吉田光
舞台が暗すぎてよく見えない。古い文楽の思い出エッセイ等を読むと、文楽は(物理的に)暗いとよく書いてあるが、こういうことだったのだろうか。

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*1:突然関係ないこと言いますけど、今回私が見た回の和生さんのヘアスタイルは、あまりびしっとしていませんでした。和生さんの髪型のびしっと具合のムラが気になる今日この頃、だんだん人間だけじゃなく人形の薄毛までも気になってきて、寺子屋にいる菅秀才に似た子が頭頂部薄毛気味なことに惑わされ、寺入りの段に集中できなかった。あの薄毛感、剃ってるわけじゃない感じがする。