TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 5月東京公演・通し狂言『妹背山婦女庭訓』国立劇場小劇場

ひさびさの全段通し上演。10時半開演21時終演の長丁場だったが、ちゃんと1日通しでチケットを取った。

通して観ると、物語自体の持っている質量に圧倒される。時代ものならではの堂々たる見応え。ふだん、集中して観ているつもりでも、ある意味で気が散っているのだなと感じた。出演者のパフォーマンスの上下だったり、誰がどこに出ているいったわずかなノイズやデコボコは消し飛び、ただ物語だけが歴然とそこに存在していた。今回は段の順序を入れ替えることはせず、原作そのままの構成で上演しているため、より一層のことだと思う。出演者はそこでどう見せるのか、聞かせるのか。物語の巨大な流れに抗う、あるいはしなやかにその上をただよう気風がないと、存在感がなくなると感じた。

その点でいうと、「妹山背山の段」の大判事〈太夫=竹本千歳太夫、人形役割=蝦夷子館から:吉田玉男〉はとても良かった。大判事は人物像がなかなか理解しがたい、難しい役回りだと思う。「蝦夷子館の段」では切腹した蝦夷子の首を即座に討ち落とすにも関わらず、「妹山背山の段」になると実子・久我之助の首をいつまでたっても討つことができない。しかし、だからといって大判事がヘタレかというと、そうではないと思う。そういうわかりやすい、紋切り型のキャラクターではなく、大判事はあくまで普通の人であることが等身大に表現されていると感じた。大判事を卑小であると表現するのは似つかわしくない。

こういった「普通さ」の表現って、古典芸能では難しいと思う。まず、現在と初演当時(+舞台となっている時代)で価値観が違うので、現在どう上演するかにあたっての解釈(翻訳)とその整理が必要。それと、一番難しいと思うのが、古典芸能にわかりやすさを求める風潮にどう対応するか。これに刃向かうのは、劇場・出演者サイドにとっては心理的にとても難しいと思う。しかし、私は「わかりやすい」って、本質と関係ないと考えている。表現がわかりやすいことと、伝わるかどうかというのは、別の話。伝える努力というのは、技芸以外の部分でしても良いと思う。伝えるためにどうするかを芸自体に求めるのはちょっと違うと感じる。

彼の心のあるがままが表現された大判事の佇まいは、とてもよかった。義太夫や人形の輪郭はあくまで大きい。でも、それが表現しているものは、至極普通のこと。義太夫や人形の動作は大きいけれど、オーバーなわけではない。うまく言えないけど、このバランス取り、絶妙だと思う。

それにしても千歳さんの声が最後までもったのがびっくり。初日に聴いた段階で「え!?この調子では中日まですらもたないでしょ!?」と思ったが、実際には最後まで持っていた。どうして最近パフォーマンスが安定してきたのかはわからないけど……、千歳さんて、本当、変わったよね。

通し上演になることによって印象が変わった役でいうと、求馬〈人形役割=豊松清十郎〉。四段目だけの見取りで観ると「何をしたいのかサッパリわからない」という印象で不思議に思っていたが、それもそのはず。本人が特に何か考えて行動しているわけではなくて、運命や大義に流されるままに行動しているだけで、本人の意思はないのねと思った。芝六は大義を自分の身に置き換えて行動したためあのような事態に陥ったが、何も考えてないヤツは強い。でも、それはそれで、「何も考えてない」感を出すのに人形遣いは大変な思いをしているだろうと思う。鱶七〈吉田玉志〉も四段目だけだとあまりに唐突で、お三輪を即座に殺す理由がよくわからない、不気味な登場人物だと感じるが、通しで二段目も出ると、芝六よりだいぶまともに見えるので、納得感がやや上がる。四段目はとくに地方公演や若手会の見取りで見たことがあったので油断(?)していた段だったが、見取りと通しでの見え方は思っていたより大きく、面白かった。

 

 


以下、各段の感想。第一部。大序がついているため開演時間が早まり、10時半開演で、死ぬかと思った。

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[大序 大内の段]

国立劇場のやる気を発揮した98年ぶりの復活。地味ながらこれがついているとモメ事の発端や登場人物の立場が明確になり、話がつながりやすくなった。

ここを抜かすと出番が少なくて「どちらさん……?」となりがちな采女〈桐竹紋臣〉、鎌足〈大序=吉田簑太郎/吉田玉翔〉が何者かわかりやすくなるのがよかった。鎌足とか、入鹿誅伐の段や五段目を切って、芝六忠義にしか出てこなかったら、マジサイコパスだから……(全部出してもサイコパス)。

蘇我蝦夷子〈吉田玉佳〉は、横柄で小物な雰囲気がよかった。ぶりっこじじいだった。大序は若い太夫さんがどんどんリレーをしていくので、それに左右されない雰囲気作りが大変だと思うけど、ちょとした首の角度や姿勢、動作のメリハリで一貫したニュアンスが出ていた。

個人的には、ここで人形の大判事・定高・鎌足に別配役を立てる必要はなかったんじゃないのかなと思った。ここに配役されている人が頑張ってらっしゃるのはわかるんだけど、以降の段との違いがあまりに歴然としているのではありませんか。話がつながらなくなる。和生さんはあるお話し会で、黒衣だと表情が見えなくなり、自制に気をとられる必要がないからやりやすいと仰っていたけれど、客の立場からすれば、黒衣はそういった出遣いによるノイズ(ある意味でごまかしになる)がすべて消えるので、力量がもろ見えになってしまうと思う。私は、うまい人は黒衣のほうがよく、そうでないなら出遣いが好ましいと思う。

 
 
 
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[小松原の段]

前半部分、可愛いけど、もうちょっと緊張感をもってやってもらえると嬉しいなと思いました。

 
 
 
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蝦夷子館の段]

ここから出遣い。床の三輪さん・清友さんがすごく良くて、品格ある浄瑠璃だった。火鉢の炭が香り、柔らかい熱さの火の粉が時々ぱちっ、ぱちっと飛ぶ感じ。三輪さんが語ってると、なんというか、雰囲気がグッとむかしの格調高い少女漫画風になる。青池保子作画的な。どういう人物や情景でも作画効果(?)でかなり上品な方向に寄るので、蝦夷子館は適役だと感じた。めどの方〈吉田文昇〉はなかなか勢いがあって、三輪さんの浄瑠璃とのバランスがよかった。

 
 
 
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[二段目 猿沢池の段]

黒衣。内容は良いよ。ソツなく良いんだけど、なんでこれを昼飯前にやるねん。生理的な区切りが悪いよ。大道具転換の都合とかなのかもしれないけど、検討して欲しい。(おなかがすいてイライラしている人)(出ている人のほうがおなかすいてるんだから、がまんしようよ……)


[鹿殺しの段]

一瞬で終わる段。ここに出てくる鹿、ああいうの、東大寺の前のお土産屋さんに売ってるよね。あまりにぬいぐるみすぎて、客も
\しか……☺️/
\しんだ……😢/
って感じだった。鹿さん、なんであんなに露骨にモフモフしているのでしょうか。ここも黒衣(だったと思う。薄れる記憶)。


[掛乞の段]

おっとり大納言兼秋〈吉田玉輝〉はおなかがすきすぎてほおがこけてるってこと? そう言われてみれば、人形のほおがこけているような、そうでないような……。帝のためにがまんしてるのが可愛い……。

米屋新右衛門〈吉田玉勢〉vs大納言の歌勝負は可愛らしくて、なかなか良かった。米屋も請求書を渡すときに直接突き出すのではなく、うちわであおいで飛ばすなど、微妙に遠慮するのが良かった。


[万歳の段]

天智天皇〈吉田勘彌〉がとにかく全く動かなくてすごい。芝六〈吉田玉也〉が演奏しているときは微妙に「音……聞いてますよ……」的にほんのわずかに顔を傾けたりしているが、ぴたっと静止していた。あのよくわからない衣装でここまで静かにしているのはすごいなと思った。個人的には勘彌さんは采女か橘姫役が良かったんだけど、これはこれで良い……。

でも、天智天皇って、本当に芝六ハウスを御所だと思っているのかな。みんなの好意を慮って御所だと思い込んでいるフリをしているんじゃないのかな。昭和の喜劇映画だと絶対そうだけど、こちとら浄瑠璃だからそのへんはわからない。淡海はめちゃくちゃ淡白で率直な思考しかしないので、天智天皇の楽の所望をもろに迷惑がっており(そもそもこの大混乱すべてお前のせいだろ)、こいつやばいなと思った。


[芝六忠義の段]

芝六が杉松〈吉田和馬〉を殺す理由がまったくわからない、と思っていた段だったが……。

お雉〈吉田簑二郎〉は元楽人の女房という設定で、そうなると本来はある程度身分があるはずで、このようなあばらやに住む在所のおかみさんキャラではないはずだけど、かなり普通の奥さん風に振られていた。昔はそうだったというニュアンスも出さない。彼女は、芝六とは考えていることが違うと思う。お雉はもう雲井に近き世界には関わりたくなくて、夫と息子二人と普通に暮らせればいいと思っているんだろうなと感じた。

その対比とみれば、芝六の意味不明の行動もある意味で説得力が出る。忠義を示すために子供を殺すといえば『本朝廿四孝』の慈悲蔵もいるが、慈悲蔵は武士の不幸を知っているから元の身分(本来の身分?)に戻りたいと思っていなさそう。でも、芝六はもとの身分に未練が残っていて、不幸には目をつぶって、積極的に武士に戻りたいと思っていたんだな。そういう単純さを利用されたように思う。かわいそう。

最後に、采女の局と三作〈桐竹勘次郎〉がそれぞれ神璽(勾玉)・内侍所(神鏡)を手に登場する。浄瑠璃の文章では采女が神鏡を持っているはず。なんで逆になってるんだ……。理解できない……。でも『絵本太功記』尼が崎の段でも、十次郎と初菊の祝言のところで操とさつきが持っているもの(銚子と土器)が浄瑠璃と人形の現行の演技で逆なので、まあそんなもんか……。

 
 
 
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[三段目 太宰館の段]

この段、ある意味、一番密度が高かった。山の段も素晴らしいのだけれど、ここでお互いが激しく対立するさまは、圧巻。大判事と定高〈吉田和生〉は大型の人形ではないし、極端に華美な衣装を着ているわけでもないんだけど、対峙するとお互いのオーラで舞台を埋め尽くすような存在感がある。一分の隙もないみっちりとつまりにつまった空気、玉男さん・和生さんという配役なくして、あの緊迫感は表現できなかったと思う。大判事と定高の放つ威厳と二人の強い意思で、舞台が狭く見えた。

大判事が人形のサイズのわりに巨大なオーラをまとって見えるのは、足取りの大きさがあると思う。最近個人的に気になるのが、人形自体のサイズに対する演技の大きさのコントロール。大判事は人形の大きさはふつうの爺さんサイズだけど、動きに強いメリハリがあり、かなり歩幅が広い。その足取りに大地を踏みしめる力強さがあって足拍子の音も大きい。だから巨大なオーラをまとっているように感じるのだと思う。

不思議なのは定高。普通の老女方の人形で、少し腰をかがめ気味にしてしずしずと入ってくるが、女帝のような威厳がある。動作がおお振りであるとかの極端さはないに、大判事と張り合うほどのオーラを持ち、瞬間的に只者ではないことが伝わってくる。動作の端正さや正面を向くときの顔の角度などのわずかなコントロールによるものなのだろうか。

共通して言えるのは、大判事も定高も(というか、玉男さんも和生さんも)一度静止したら絶対動かないのが覇気に通じているのではないかということ。時々、一連の動作が終わって止まったあとになってから姿勢を直す方がいらっしゃいますけど……、だらしないから、やめたほうがいいと思う。

それにしても、ここの最後に出てくる注進〈吉田簑太郎/吉田玉翔〉、唐突すぎてすごいよね。玉翔さんは率直さときらびやかさのバランスが好ましくて良かった。

 

 

 

ここから第二部。第二部は通常16時開演のところ、15時45分開演(微妙)。開演前、ロビーで案内スタッフの方が「開演してすぐ見所がございます〜!お早めにお席におつき下さい〜!」と言って回っておられた。山の段の冒頭は紅白幕が下りているはずだが……、藤蔵さんの「聴きどころ」のことですかね? 伽羅の香りがするような強靭さと品格をかねそなえた音色で、開演時の客席の浮ついた気持ちやざわめきを鎮める演奏だった。

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[妹山背山の段]

大判事と定高が吉野川の対岸同士から声をかけあうさまは、舞台が埋め尽くされるような覇気。雛鳥と久我之助は川を挟んだお互いの距離を果てしなく遠いと思っているだろうけれど、大判事と定高にとっては「近すぎる」くらいの距離じゃないのかと感じた。

簑助さんの雛鳥の可愛さは圧倒的。読売の劇評の見出しが「簑助の雛鳥 可愛さ圧倒的」と知性ゼロのすごい文言になっていたけど、わかるわ……。値千金の圧倒的可愛さだった。宇宙レベルに可愛い。定高の出以降が簑助さんなんだけど、もう、可愛さの解像度が全然違う。あれは、前が誰であっても対抗できないと思うわ。出のあとすぐ、母に対して礼をする所作の、香るような愛らしさは最高だった。頭下げるだけなんだけど、そのときの胴の位置や頭との関係、顔をあげるときのちょっとした傾けや定高への目線の送り方(頭をあげきる前から見ているとか)で佇まいが出ているのではないかと思う。

その雛鳥につられてか、定高が情熱的だったのもよかった。汚らわしい玉の輿、娘は入鹿へは嫁にやらない、殺して好きな男に添わせると言う定高、母娘でひっしと抱き合うところの緊密さと濃度が本当に素晴らしかった。感情そのものが形をなして動いているような、ふだんの和生さんにはあまり見られない(?)、熱い演技だった。

大判事は前述した通り。ここではとくに直線的な動作が背山の簡素な白木の庵と似合っていて、人形ならではの硬質で美的な表現がとてもよかった。

ところで、みなさん、今回はどこの席とりましたか。私は何回か観たうちのある回で下手の最前列をとったのだが、まるで自分も妹山にいるかのような気分になれて、最高だった。というか、妹山に住むもぐらの気分になった。最前列だとかなりのローアングルになり、屋体の中がけっこうアオリ気味になるので、まるでもぐらが巣穴から人形たちのさざめきを覗いているかのような視線……。あの腰元たちに虐殺されそうな気がした。穴の出入り口に松葉をギッシリと詰め込まれ、そこに点火されるんじゃないかと思った*1。残念ながら背山側の前列は取れなかったので、背山のもぐらにはなれなかった。センターブロックを取れた日もあったので、川の下流のほうの魚(というか、後列すぎて、もはや鱶)の気分にもなれた。シンメトリー構図の舞台を満喫できて、なかなかよかった。

 
 
 
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[四段目 杉酒屋の段]

勘十郎さんのお三輪のクソヤバ女感は本当に最高だと思う。私は勘十郎さんは女方のほうが好き。なぜなら、一度見込んだ男は死んでも離さない狂った目をしているから。地獄の底まで追いかけてきそうだし、なんなら常に包丁隠し持ってると思う。いくら手頃そうな「疑着の相ある女」でも絶対手を出してはいけない部類。求馬が清十郎さんではあの覇気に負けて、杉酒屋の時点ですでに殺されてそうだと思った。

お三輪は鬼灯を手に、帯のうしろにうちわを差して登場する。あのうちわについてる銀色のマル、月の模様だと思っていたんだけど、鏡になっている?みたいですね。求馬に背を向けてうちわを掲げる所作は、うちわを鏡に見立てているのかと思っていたけど、あの月の部分に本当に求馬を写しているということなのかしらん。

それはともかくこの段は子太郎〈桐竹紋秀〉がとても良かった。子太郎はすごい。文楽に出てくる丁稚や手代・番頭でチャリがかったヤツは大抵主家の娘や奥さんに惚れていて、その横恋慕で悪行をはたらくが、子太郎は非モテによるモテ男求馬への怨嗟だけで四段目の大混乱を巻き起こす。普通、モテるやつが妬ましいという思念だけでそこまで頑張れないよ。お三輪に惚れているわけでもないのに求馬を陥れようとしてくるのがイイ。お三輪を応援しているとも取れるが、それ以上に求馬への「こいつがめちゃくちゃひどいめにあったらいいのに」思念がすごい。非モテの怨嗟がこもりまくったキモユーモラスで伸びやかな動きが愛らしかった。

ところで冒頭部で子太郎が箒で叩こうとしている虫は何なのだろう? いままでなんとなく蛾かと思っていたんだけど、すごく慎重に箒の下を覗き込む動作からすると、もしかして、ゴ………………?*2それと、子太郎のエプロンをよく見ると、「子」の文字が書かれた白丸の下に、小さく「〆」と書かれているように見えたのだけど、どういう意味なのかしら。白丸の上の部分にも何か黒い、模様のような、汚れのようなものがついていたが、それが何かはわからなかった。

なにはともあれ、子太郎・ザ・妹背山で一番まともな登場人物、および紋秀さんにはありとあらゆる意味で今半の弁当を差し入れてあげたいと思った。

床は津駒サン&宗助さんで軽やか。肩のこらない、しかしラフに振りすぎない絶妙な塩梅で、山の段の緊迫感から解き放たれてリラックスして聞ける。緊張を強いることはないけど浄瑠璃を聞くのをさぼらせない程度に舞台へ惹きつけるテクニック、さすが。だからこのあと帰らないで。(理由は後述)

 
 
 
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[道行恋苧環

橘姫〈吉田一輔〉は求馬に会うため、夜毎三笠山から三輪の里まで通っているという設定のようだが、ガッツありすぎじゃないですか? 後述するが、私、ことしの初詣で大神大社へお参りするために三輪へ行ったんだけど、奈良から電車でも30分かかった。深窓の姫が歩けるとは思えない距離だった。橘姫、世が世ならオリンピックのマラソン代表選手に選ばれると思う。橘姫は求馬が手を出してこないことを悩んでいるようだが、あんな大昔のド田舎で毎晩毎晩なにをやってんだろうと思う。お話しをするにも毎晩だと流石にだんだんネタが尽きてくると思うんですが……。ジェンガでもやってるのかな? 子太郎、覗き見してきて!!!

それと、詳しくは書けないが、手踊りのところで少し衝撃を受けたことがあった。今後が気になる。あっ、踊り自体は、お人形さん(っていうか人形遣い)それぞれの個性がすごくいい感じに出ていて可愛らしかった。よって、揃ってないところが良いとも取れるんだけど、揃い方が日によって結構ムラがあるなと思った。

 

[鱶七上使の段]

鱶七は玉志サン。多分、本公演では初役(上演資料集調べ)。鱶七は野暮ったい漁師としてぶっきらぼうに出てくる……はずなのが、「田舎の漁師」っていうより「東宝戦争映画の軍人風」になっていた。そのなかでも三船敏郎とかじゃなくて、『独立愚連隊』の佐藤允のようなかなり都会的でスマートな印象。要するに玉志サンそのまんまなんだけど、玉志サンそのままがピンッと出てきちゃうと夏木陽介になってしまうところ、床が藤太夫さんだったので、そこでぶっきらぼうで図体がばかでかい印象が出ていた。やはり人形の見栄えは床あってのものだなと思った。藤太夫さんは山の段の久我之助はかなり上品な貴公子風に仕上げておられたが、こっちはまさに「どってう声」だった。

鱶七のマイペース行動について、初日に見に行ったら、「かまきりの大臣」から預かった手土産の酒を一瞬でイッキ飲みしていて「いやそれただのアナタの素では!?!?!」と思った。が、中日あたりに行ったら、ゆっくり飲むようになっており、千穐楽近くではちゃんと思わせぶりに飲み干していて、安心した。

後半で男見学にくるツメ人形の官女たち。文楽人形サンたちって、時折、自分が人形だと気づいているフシがあるが、ここでは鱶七は「立ってみい」と言って官女たちを直立させ、「ようも煮え込んだものじゃ」と笑う。「煮え込んだ」というのはツメ人形は首が衣装に埋まっているさまを指しているそうで、鱶七は自分(三人遣いの人形)とツメ人形の違いに気づいているようだった。あと、官女の袴をめくって(つまんで)セクハラをはたらいていた。

この官女のうち、向かって左から二番目にいる奴が私に似ていた。私の今年度の目標は「金殿の官女になる」で、朝起きたらツメ人形になっていないかなと毎日思ってるんですけど、残念ながらいまのところまだなれていない。でももしかしたらあの官女がツメ人形になった私なのかもしれないと思って気を紛らわせた。

ところでこの段に出てくるとある役のお人形さん。あなたがマイクロビキニの巨乳ギャルなら有難や🙏尊や🙏って感じなんだけど、誠に遺憾ながら武士なので、背筋をS字に湾曲させずにピッと伸ばして座って欲しいなと思った。もし文楽マイクロビキニの巨乳ギャルが出てくることになった暁には、頼むから勘彌さんに遣って欲しいです!!!!!! 

 

[姫戻りの段]

もうちょっと緊張感をもってやってもらえると嬉しいなと思いました(2回目)。

 

[金殿の段]

豆腐の御用役の勘壽さんの袴が大豆色で良かった(正確にはライトベージュに茶色系の細かい縞模様だったかな。遠くから見ると大豆色に見える)。

しつこいですが鱶七の話(まじしつこい)。玉志サンて全体的にはすごく上手くて、人形ならではのクリアな佇まいも本当綺麗に出ていると思うんだけど……、細かいところでひとつ思っていることがある。昨年12月の『鎌倉三代記』高綱や一昨年の『ひらかな盛衰記』の樋口もそうだったのだけど、段の中の動作ごとに人形から受ける印象(演技のトーン)が微妙にばらつく傾向がある気がする。端的にいうと、高綱なら井戸から出てくるとき・物語のとき・最後に木登りするときのトーンが若干ばらついて、高綱としての一貫性が見えづらい。いや、もちろん、この議論が発生するレベルにまで技量が及ばない人のほうが多いとは思うけど。

これが起こっている原因は、私は、ご本人の芸風自体やご自分で「こうやりたい」と思っている部分と、師匠から引き継ごうとしている部分がまだ乖離しているからじゃないかと思っている。観ていると、明らかに自信をもってやっておられるであろう部分とそうでない部分のつなぎが弱く、精度の落差みたいなものを感じる。その理由としては、師匠をトレースするだけにしたいくない、でもまだご自身の表現として着地しきっていないから、こうなっているのではと想像している。とはいえ始終ばらついたままなわけではなく、公演会期後半にいくほどそれがまとまっていき、最終日近くになるとほぼ解消されるので、ご自分の中でだんだん整理されていっているんだろうなと思う。昨年、2ヶ月にわたってやっていた『彦山権現誓助剣』の京極内匠役の後半・東京公演の最終日近くは本当良かった。京極内匠は嘘をついている場面が多いのでどうしてもバラつきが発生するはずなんだけど、人形のニュアンスに背筋の通った統一性があって、一人の人間の多面性というかたちでそれが表現がされていて、とても良かった。今回の鱶七もやっているうちにだんだんピントが合ってきたのだと思う。二段ある出番で太夫の傾向がまったく違うので、よりばらつく可能性が高い状態になっていたけど、中日〜後半はとても良かった。特に鱶七が物語をするところは、後期日程はかなり変わっていた。一番良かったのは後半の「物語より窺ひ見るに……」以降。金輪五郎って粗野げなキャラクターに思えるけど、武士らしい精悍なメリハリとキラキラぶりがあって見応えがあった。こっちのほうが本領発揮ですね。

衣装引き抜きはもう初日と最終日近くではクオリティに歴然とした差があった。みなさんお疲れ様ですと思った。鱶七の左遣いの方、金殿のほうは慣れた方をつけているんだと思うが、衣装の着崩れも細かくケアしておられて、よかった。それと出のところは、官女とふざけあっていた田舎漁師の風情とは打って変わり、正体不明の不気味さが出ていて、会期はじめから良かったです。

しかしこの段、初日に行ったら呂太夫さんが休演で希さんが代役となっており、「まじで」と思った。技芸員側の事情は知らないけど、国立劇場も配役に責任持ってくれと思った。希さんは頑張っていたと思うけど、若手会はともかく本公演は頑張っていれば良いというものではないと私は考えているので、津駒サン、杉酒屋で帰らず代役してくれやと思ったよ……。杉酒屋は軽い内容に対して実力があるベテランが配役される段というのは理解しています。でも、はじめから津駒サンを金殿にしといてほしかった……。

 
 
 
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やっぱり通し上演はいい、と思った。浄瑠璃そのものが持っている物語の力を感じる。段ごとに見ていくと、芝六は狂人ではないのかとか、求馬はなんでお三輪を物扱いしているのかとか、いまいちピントがあいきらないのだけれど、通しで観ると、どの登場人物も「時代の流れ」とでもいうべきものに押し流されているんだなと感じた。そのエネルギーは巨大で、ちっちゃなお人形さんたちでは抗えない。通し上演って、技芸員側からすると、どうしてもしょうもない段・しょうもない役に配役される人が出てしまって不満が出るらしいんだけど(今回道行の床10人もいるのに全員名前呼び上げていたし)、客の立場からすると見取りより通しのほうがはるかに見応えがあるよね。

個人的にはせっかくの通し上演なら、「入鹿誅伐の段」をつけて欲しかった。上演時間の都合でカットしているのだと思うけど、金殿で終わると、金殿がよほどのすごい配役でない限り微妙な空気のまま放置されるので、おたの申します。

 


今回は通しになることによって、浄瑠璃の構成のおもしろさもより強く感じた。本作でよく言われるのは登場人物や舞台の対位法だと思うが、今回、いちばんおもしろみを感じたのは、イメージの連鎖。

五段構成の浄瑠璃だと、一段ずつが独立した話で相互関係は薄いものが多いと思う。とくに、時代物風のパートと世話物風のパートは関連性が薄い。しかし妹背山は単に話が続いているだけでなく、イメージが連鎖しているのが面白い。イメージの連鎖というか、ある登場人物には叶えられなかった願いを別の段の登場人物は叶えることができるが、それを叶えたとしても不幸になってしまう、という設定。

ひとつめは、「ふたつ命があったなら」というイメージ。「山の段」で切腹した久我之助は、大判事に「命がふたつあったら、ひとつの命は帝に捧げ、もうひとつの命は生きながらえて親に仕える」と言う。久我之助は当然、これを叶えられずに死ぬ。しかし妹背山の中にはこれを叶える人物がいる。二段目に登場する芝六の二人の息子、三作と杉松だ。三作は義父・芝六(ひいては帝)のために鹿殺しに加担し、身代わりとなって死のうとする。しかしその身代わりに杉松が死に、三作は生きながらえて父の願い通りに出世する(最終的には大判事に養子にもらわれますが)。ああなるほど、兄弟がいたなら、久我之助の願いも叶ったんだなと思った。

ふたつめは、「川を隔てた恋」のイメージ。「山の段」では雛鳥と久我之助は川を隔ててあれほどまで恋い焦がれながら再会が叶わなかったが、四段目で七夕様(天の川を隔てて再会を願う牽牛と織女)に祈りを捧げていたお三輪は、なんの障害もなくアッサリと恋する男・求馬と思いを遂げてしまう。というか、話がはじまった段階でもうできてるけど。浄瑠璃業界の「おぼこ」という言葉の使い方は独自性がある。しかしお三輪は入鹿誅伐のため鱶七に殺され、添い遂げることはできない*3。雛鳥は恋する男の間近に行きたいと願っていたけど、お三輪は男のすぐ側にいても不幸になってしまう。

あと、山の段で腰元たちが吉野川の流れの果て(海)には鱶がいると話しているけれど、それが、物語の流れの最後に出てくる鱶七なんだね。

 

 

 

↓ あらすじまとめはこちらから。

 

 

お正月に、初詣で三輪の大神神社(おおみわじんじゃ)へ行った。

2日の午前中に行ったら人出がすごすぎて、あまりの人の多さに幽体離脱しそうになった。観光地かと思っていたのだが、初詣に来ていた人々はみなさん異様に軽装で、近隣住民だけではって感じだった。神社側も、特急祈祷など、なかなかすごい商売をやっておられた。

でも大神神社は本当に霊験あらたかでしたので、みなさま、大阪公演のおりにはぜひ奈良へも回って、大神大社にお参りしてグイグイお願いごとをしてみてください。

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東大寺の門前にいた爪黒の牝鹿。爪が黒い牝鹿は気が遠くなるほどたくさんいた。芝六はなぜあんなに苦労して探していたのだろう。しかもこいつらえさを持っていない私をガン無視してきた。まるまると太りやがって。芝六にチクってやる。

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*1:子どものころ、そういうことをしていた。私が。

*2:私は家賃入れてくれるならゴキ御前が我が家に居候遊ばされても構わない派です。家賃入れてくれるなら。

*3:でも鱶七はえらいよ、死に際に一応フォロー入れてくるからさぁ……。求馬とか、あいつ最後まで何もしないのに。鱶七が死にかけのお三輪に「それでこそ天晴れ高家の北の方」と言うけれど、「北の方」という言い回しは単に身分の高い人物の妻という意味だけではなく、不幸な娘が玉の輿に乗る場合に使うことが多いと聞いたことがある(時代がだいぶ遡るが『落窪物語』など)。