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麻雀漫画と昭和の日本映画と文楽(人形浄瑠璃)について書くブログ

映画の文楽4 内田吐夢監督『浪花の恋の物語』2:ふたつの「新口村」

┃ 過去の記事

 

あの有名な「新口村」……と言われても、古典芸能が好きな人以外には通じないと思う。なので、まず、文楽人形浄瑠璃)で「新口村」と呼ばれている演目について説明したい。

「新口村」が何かというのは、文楽や歌舞伎を観る人なら誰もが知っていることではあるんだけど、観ない人にはわからない、つまり、観ていなかったころの自分は知らなかったこと。そのため、今回この記事を書くためにあらためて調べ直したことを含め、細かめに解説を書いておきたいと思う。

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┃ 「新口村」とは

映画公開当時も含めて、現在、文楽で一般に通称「新口村」と呼ばれている演目は、後世(近松没後)につくられた『冥途の飛脚』の改作『傾城恋飛脚』の「新口村の段」のことだ。

『傾城恋飛脚』は、『冥途の飛脚』(正徳元年(1711)以前の初演)からおよそ62年以上もの後、菅専助・若竹笛躬の合作で安永2年(1773)12月に初演された人形浄瑠璃。『冥途の飛脚』から事件の概要、登場人物、ストーリーの骨子・展開を大幅に流用し、そのうえでめちゃくちゃコッテリした味をつけたような内容。原作がおだしでさっぱり仕上げた明石焼きだとしたら、こちらは濃厚ソースとマヨネーズ、それにかつぶしも青のりもいっぱいかけた、ソースたこやきって感じ。

場面構成は『冥途の飛脚』のそれに対応していて、大枠の内容は相似性が高い。「新口村の段」は、このうち最後の場面にあたる。

以下に、文楽現行の『傾城恋飛脚』「新口村の段」の概要を解説する。ここに至る前提は基本的に映画と同じなので、そのまま読んでいただけると思う。(アンダーライン箇所が『浪花の恋の物語』に使用されている部分)

「新口村の段」文楽現行

忠兵衛の親里・大和の新口村には、田舎に似合わない季節候(門付け)や古手買いが姿を見せていた。彼らの正体は、忠兵衛を探す追手だった。

そんな中、忠兵衛は梅川を伴い、実父・孫右衛門と縁故のある忠三郎という男の家を訪ねる。しかし忠三郎はあいにく留守で、最近この村へ来たばかりというその女房が対応に出る。忠三郎の女房は目の前にいる男が忠兵衛とも知らず、「封印切をして傾城を買い逐電したという孫右衛門の息子」の噂、この村にも追っ手が迫っている話をまくしたてる。忠兵衛は彼女に外出中の忠三郎を呼びに行ってくれるように頼み、梅川とともに留守を預かることにする。

忠三郎の家の中から二人が往来を眺めていると、忠兵衛にとっては懐かしい村人たちが通りすぎていく。そして、その中に父・孫右衛門がこちらへ歩いてくる姿を見つける。忠兵衛は養家への義理から孫右衛門の前に出ることはできず、その姿を拝むのみ。しかしそのとき、孫右衛門が足を滑らせて転んでしまう。出るに出られない忠兵衛、梅川は思わず走り出て、孫右衛門を抱き起こし、忠三郎宅の上がり口へかけさせて介抱する。持っていた懐紙で下駄の鼻緒を直してくれる梅川を不思議な思いで見ていた孫右衛門だったが、身なりや様子から彼女が息子・忠兵衛が連れて逃げたという遊女だと気付く。

孫右衛門はそれなら忠兵衛もすぐそばにいるだろうと考えるが、何も知らぬふりをして、不肖の息子の噂、養子に出して縁を切っていたことを慧眼と言われることの辛さ、それでも、身請けのために金がいるのなら養家へは黙って相談してくれればよかったのにと心境を語り、嘆き悲しむ。孫右衛門はせめて二人を少しでも遠くへと逃がそうと、「先ほどの介抱のお礼」という建前で梅川へ金を渡す。自らのせいで愛する忠兵衛を咎人にして、追われる身にしてしまったことを孫右衛門へ告白する梅川。孫右衛門は忠兵衛ともう一度会いたいと思うものの、忠兵衛はお上に追われ、それをおびき出すために義母妙閑は牢に入れられている状況。もし実の父である自分が会ってしまえば、みずからが訴人しなくては義理が立たない状況であり、そんなことは出来ない孫右衛門は忠兵衛に会うことを頑なに拒む。梅川はそれを憐れみ、「顔を見なければ許されるだろう」として、持っていた手ぬぐいで孫右衛門に目隠しをする。忠兵衛は孫右衛門の前に飛び出し、親子は手を取り合って再会を喜ぶ。

しかしそのとき、多くの人の足音が聞こえ、孫右衛門はこの家に追っ手が迫っていることに気づく。捕手たちが周囲に迫りくる中、孫右衛門は二人を裏口へ押しやる。そのとき偶然にも捕手の頭に「梅川忠兵衛」が捕まったという知らせが入り、捕手たちは道を引き返していく。老父は足元に気をつけよと叫びつつ、小さくなっていく二人の影を見送るのだった。

養子先への義理から、それぞれ実父・息子に顔を合わせることができない忠兵衛・孫右衛門の葛藤を描く内容で、特に、いくら義理に苛まれていても実の息子への気持ちを捨てることができない孫右衛門の感情吐露(それもあくまで義理立てして語る)が物語の中心になっている。孫右衛門は義理を立て続けようとしつつも、最終的には人間らしい感情、言い換えると一種の弱さが勝ち(それが物語上肯定され)、最後にごくわずかな時間だけ、忠兵衛へ会うことができる。

映画に使用されている梅川のクドキ*1、「めんない千鳥」と呼ばれる目隠しをしての再会*2は、「新口村」の中でも見せ場。映画に取り込まれているのも理解できる名場面である。

しかし、近松作の『冥途の飛脚』にも物語の最後に、名前もそのまま「新口村の段」という、忠兵衛が梅川とともに故郷新口村の父に会いにいく段は存在している。ならば、この映画のクライマックスはなぜ近松原作の「新口村」の人形浄瑠璃にしなかったのだろうか。

 

 


人形浄瑠璃『冥途の飛脚』『傾城恋飛脚』の上演史

ここまでのドラマパートが『冥途の飛脚』準拠であるにも関わらず、クライマックスの人形浄瑠璃がなぜ『傾城恋飛脚』なのか? この構成そのものについては、公開当時の文楽の上演状況を知っている人だと「まあそれもあるんでは」と感じるのではないか。

なぜなら、当時は文楽でもそういう上演のしかたをしていたから。

は?と思われるかもしれないが、『冥途の飛脚』と銘打っておきながら、『冥途の飛脚』の結末「新口村の段」を『傾城恋飛脚』の結末「新口村の段」に差し替えて上演するという形態は、かつての文楽では時折行われていた。

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※注:段名表記は時代により異なるが、現行に揃えて表記する。

歌舞伎ではこのような上演はされないので気づきにくいが、文楽ではかなり長いあいだ、慣例的にこの方式の上演が行われていた。もっとも、最近ではこの上演方式はとられていないため近年のファンは知らず、私もこの事実は文楽を観慣れてきてから知ったことだった。

そのため、この映画に対して、作品への事実誤認があるとか、逆に、まったく違う作品同士を組み合わせる卓抜な発想であるとかは、ちょっと違う。

はい、以上、疑問解決!!!!!!!!!!!

……となるところなのだが、今回はもう少しよく考えてみたい。そもそも、こういう上演形態になっていったのはいつからで、どういう経緯をたどってのことなのだろうか。この状況に至った経緯を確認するには、人形浄瑠璃での『冥途の飛脚』および『傾城恋飛脚』の上演史を振り返る必要がある。

そこで、国立劇場が発行する上演資料集をベースに『義太夫年表』等を使い、『冥途の飛脚』初演から現代に至るまでの上演の記録を調べてみることにした。

 

 

伝承形態

文楽人形浄瑠璃)は伝統芸能なので、初演当時からすべての演目がしっかり原型そのまま脈々と伝承されているかのように思われるかもしれないが、実はそうではない。廃曲(伝承されなかった作品)も多いし、現在に残っている曲であっても、すべての作品が初演当時のままで残っているわけではなく、断絶からの復活、別の作者による改作の混入、部分的にカットしての上演など、さまざまな加工が行われていることがある。また、たとえば人形が一人遣いから三人遣いへ移行する、三味線の演奏技法が発展するなど、人形浄瑠璃という芸能そのものの技術発達による変更点も発生している。つまり、必ずしも現行曲は初演の原型そのままに上演されているとは限らない。

『冥途の飛脚』をはじめとする近松の世話物に関しては特に注意が必要で、長い時間の流れによって上演と断絶、復活と改作が大変複雑に入り組んだ状態になっている。極端な例を挙げると、現代の文楽でもっとも有名であろう演目『曾根崎心中』は、本来は初演後すぐに断絶し、戦後になって復活されたものだ。なので、『曾根崎心中』は本当は「伝統的な演目」ではない。現行で上演されているものは初演時を復元して復活しているわけではなく、当時の方針等によってカット・改変を行なっている。これもまたいまとなっては一般には知られていない情報になってしまっていると思う。

 

初演・改作・復活の過程

そんな中、『冥途の飛脚』は江戸時代から伝承されている曲だ。とはいえ、厳密には『冥途の飛脚』は初演当時から絶えることなく脈々と受け継がれてきたというわけではない。この曲は、初演(正徳元年(1711)以前)の後はほとんど再演の記録がなく、一旦断絶する。*3

正徳3年(1713)、人形浄瑠璃で改作『傾城三度笠』が上演。作者は紀海音で、登場人物は『冥途の飛脚』から取られている部分が多いが、この段階で話はかなり盛られている。忠兵衛が封印切りを確信的に行うこと、友人の性格等の設定が大きく異なり、ほぼ別物のように思う。この演目の再演記録はない。

近松死没・紀海音引退後、合作制が確立した発展の時代を経て、延享・寛延期 1744-50 に人形浄瑠璃は全盛期を迎える。現在に残る人形浄瑠璃の代表作『夏祭浪花鑑』『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』等の初演はこのころ)

宝暦7年(1757)、歌舞伎『恋飛脚大和往来』が上演される*4。これは大変な好評を博して繰り返し再演され、「新町封印切の段」は上方和事の代表演目になるまでに人気を得る。

(宝暦〜天明期 1751-88 は、作者として竹本座には近松半二、豊竹座には菅専助が登場。人形浄瑠璃の技巧発展全盛期を迎える。この時代の代表作は『本朝廿四孝』『妹背山女庭訓』『伊賀越道中双六』『桂川連理柵』など)

安永2年(1773)改作『傾城恋飛脚』が上演される。『冥途の飛脚』原作からはおよそ62年以上経っての改作だが、これは歌舞伎『恋飛脚大和往来』等の人気を受けてのこと。「新口村の段」は大変な好評を得て、以降、それのみでの単独上演が見られるようになる。

(寛政期以降 1789- は人形浄瑠璃業界の風潮が変わり、新作上演より芸の練磨・伝承が重視されるようになって、再演が多くなる)

寛政6年(1794)、歌舞伎『恋飛脚大和往来』の人気を受けて、改作『傾城恋飛脚』の全段通し上演が行われる。

文化2年(1805)、四世竹本染太夫により、原作『冥途の飛脚』の中の巻「新町の段」(現行「封印切の段」)が復活。そして文政3年(1820)、おなじく四世竹本染太夫によって上の巻「飛脚屋の段」(現行「淡路町の段」)が復活。これに復活済みの「封印切の段」、そして「新口村の段」(おそらく『傾城恋飛脚』)を加えた通し上演が行われた。

これ以降、原作『冥途の飛脚』「淡路町の段」「封印切の段」は、今日まで断続的に上演され続けることになる。ここから、『冥途の飛脚』「淡路町の段」「封印切の段」→『傾城恋飛脚』「新口村の段」という原作・改作混在の通し上演の形態がはじまったようだ。

また、この原作復活は好評を得て、天保年間(1830-1843)には原作「淡路町の段(飛脚屋の段)」「封印切の段(新町の段)」の一般向け稽古本も刊行されたらしい。

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「原作・改作を混在させて通し上演する」という状況は、勝手なイメージでなんとなくもっと近年始まったことかと思っていたが、1820年からその状態なら、もう、むしろそれが伝統的だよね……。

このような混在通し上演が多かったのは戦前まで(特に明治期)のようだ。昭和期に入ると、混在通し上演であっても改作「新口村の段」の段名表記を「大和往来新口村」としたりして、別の狂言だとわかるよう区別されていることもある。また逆に、1日で『冥途の飛脚』「淡路町の段」「封印切の段」→『傾城恋飛脚』「新口村の段」の通しを行わず、演目入れ替え(二の替わり等)で公演前半と後半に分離させるなど、ワンセットであることを示唆しつつ区別をつけた上演もみられた。

こうして上演状況を確認していくうち、改作「新口村の段」の見取り上演の頻度の高さに驚いた。特に文楽協会設立以前(昭和30年代まで)の「新口村」の上演頻度はかなり高い。私はいままで改作の「新口村の段」は原作のオマケみたいな感覚で観ていたけれど、実際にはかつては『冥途の飛脚』自体よりも『傾城恋飛脚』の「新口村の段」のほうが有名だったのだろう。

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※注:『國文学 解釈と教材の研究』2000年2月号掲載「文楽で聴く近松心中天網島・冥途の飛脚・心中宵庚申−」の論考では、改作「封印切の段(新町の段)」は文政の原作復活以降すたれたとみなされている。*5

 

しかし、『冥途の飛脚』と『傾城恋飛脚』は同じ話の書き換え・同一構成ではあるものの、実は主要登場人物の性格設定に大きく異なる点がある。『冥途の飛脚』「淡路町の段」「封印切の段」→『傾城恋飛脚』「新口村の段」と続けて上演したときには話がつながらなくなって観客の混乱を招く。そのため、現在の文楽本公演では『冥途の飛脚』と『傾城恋飛脚』は必ず別立てで上演を行うようになっている。

この「くっつけたときに話のつじつまが合わなくなる」は、この映画を読み解く重要なヒントになると私は考えている。

 

外題表記の混乱

こういった原作・改作混在の通し上演に加えてややこしいのは、外題(上演演目名)表記の混乱だ。原作の『冥途の飛脚』という外題は、文政の復活上演依頼、長い間使われなかった。大正中期までは『傾城恋飛脚』『恋飛脚大和往来』の外題を使いながら、実際には原作『冥途の飛脚』「淡路町の段」「封印切の段」『傾城恋飛脚』「新口村の段」を上演しているという状況が続いていた。

このような慣例記載について、当時の観客がなんとも思っていなかったかというと必ずしもそうではなかったようで、『浪花名物 浄瑠璃雑誌』大正3年(1914)10月号に掲載されている同年9月の文楽座9月興行劇評には以下のように書かれているので、当時からマニアは切れていたようだ。この公演も『恋飛脚大和往来』という外題で、実際には『冥途の飛脚』「淡路町の段」「封印切の段」→『傾城恋飛脚』「新口村の段」の原作改作混在通し上演を行なっていた。

(前略)併し殊に可笑しきは番付口上近松研究の第二回として冥途の飛脚を上場いたし相演じ云々と麗々しく書立てたるにも拘らず外題表には恋飛脚大和往来とあり、為に一見世の近松研究者を蔑視したるかの感あり、斯る大矛盾に気の付かざる筈はなけれども(以下、文楽座の興行体制についてぶち切れ続ける。文楽座は斯界の「最高学府」にも関わらずこのようなことを平気でしているのは嘆かわしくお先真っ暗等、痛いヲタ独特の長文が延々と……)

『冥途の飛脚』という外題が復活されたのは、大正9年(1920)9月。しかし、これはすぐに定着したわけではなく、その後も『恋飛脚大和往来』『傾城恋飛脚』の外題での上演も行われ続けた。

現在の文楽本公演では、かならず『冥途の飛脚』の外題で上演している。しかし、文楽劇場開場(1984)以前、すなわち朝日座時代の大阪公演では、内容は『冥途の飛脚』であっても、『傾城恋飛脚』という外題で上演していた(東京公演では同時期であっても必ず『冥途の飛脚』)。理由がよくわからないが、上方演劇界の慣例を踏襲していたのだろうか……。文楽劇場開場後は、東京公演・大阪公演とも『冥途の飛脚』で統一されている。*6

 

 

 

以上が『冥途の飛脚』『傾城恋飛脚』をめぐる人形浄瑠璃の上演史。

各段の原作・改作の錯綜は、予想していた以上に複雑な状況だった。文楽現行曲の各作品の上演史というのは基本的には国立劇場が刊行している上演資料集を参照すれば江戸時代の初演からの歴史が詳細に載っている。これがもっとも手軽な調べ方だ。が、今回、『冥途の飛脚』『傾城恋飛脚』の上演資料集を見てみたところ、両者で記載が曖昧に混在していた。調べたら、両作がどのように上演されてきたのかの研究整理は遅れており、いつ・どっちの・どの段が舞台にかけられていたのかが整理確認されてきたのは近年のことらしい。人形浄瑠璃は歌舞伎・能楽に比べ研究が相当少ないというのは知っていたが、近松ものの有名作さえ、ここまで基礎的な情報整理すらされていなかったんだと驚いた。

以上の上演状況の変遷確認は、『國文学 解釈と教材の研究』(2000年2月号/学燈社)掲載の内山美樹子「文楽で聴く近松心中天網島・冥途の飛脚・心中宵庚申−」を参考にしつつ、上演資料集の記録をベースに『義太夫年表』各巻の番付(人形配役等)で検証した。*7

 

クライマックスの「新口村」が原作でない理由は、改作のほうが人気があるからそうしたというのではなく、率直には原作は廃曲だからだろう。原作の文章だけでも残っているならそれをもとに曲をつけて新しく作ればいいではないかと思われるかもしれないが、人形浄瑠璃の復曲というのは莫大な労力がかかる作業。原作の研究、作曲、人形の振り付け等を起こして実際に舞台にかけるまでは数年の時間と多大な労力を要する。仮に映画制作側からどうしても『冥途の飛脚』の「新口村の段」でやりたいという強い要望があったとしても、この映画のみのために短期間で(かつ、当時の文楽座三和会の体力で)すぐにそれを実現することは難しかっただろう。国立劇場系列はたまに古い演目を復曲するが、『冥途の飛脚』「新口村の段」の復曲は行われていない。(なぜ復曲しないのかは、国立劇場系列が刊行しているパンフレットを読むとなんとなくわかる)

しかし、近松原作を重視して、原作通り(原作をトレースした内容)の映画にしたいなら、脚本として近松の作劇術を謳うようなオチにしなければいい、あるいはラストシーンに人形浄瑠璃を使わなければいいはずだ。にもかかわらず、この映画はどうしてこのような混在形式になっているのだろう。

私は逆に、『冥途の飛脚』「淡路町の段」「封印切の段」→『傾城恋飛脚』「新口村の段」という原作改作混在の「通し上演」を映画化すること自体がこの映画の趣旨だったのではないかと考えている。むかしは、観客も出演者も両者が別物と認識しつつ、“梅忠もの”という大括りの「ジャンル」でこの二つの作品を理解していたのだと思う。ただ、観客はどのように「同じもの」「別物」と認識していたのか? 相当もやっとしていたのではないか。私は、それがこの映画の構成に影響を与えているのではないかと感じている。

 

その理由を述べる前に、もうひとつ気になっていることがある。それは、この人形浄瑠璃「新口村」での人形の演技が、現行の文楽公演と異なっていることだ。(つづく)

  

 

 

TIPS. 2 歌舞伎での上演状況

歌舞伎での改作『恋飛脚大和往来』は、「生玉の場」「亀屋の場」「新町揚屋の場」「新口村の場」で構成されており、このうち現在まで残っているのは「新町揚屋の場」「新口村の場」のみとなっている(「新口村の場」の前に道行がつく等の方式もあり)。

各場面での構成は『冥途の飛脚』に対応していて、「新町揚屋の場」は『冥途の飛脚』「封印切の段」、「新口村の場」は「新口村の段」に相当する。ただし、『傾城恋飛脚』と同じくかなりの脚色(類型化)が行われており、主要登場人物の性格が大きく異なっていたり、忠兵衛の封印切に正当性をもたせる演出をする場合があったりで、原作からの乖離は相当著しい。というか、歌舞伎の場合、それどころではすまない破天荒なことが起こっていたりするんですが……。

現在、舞台にかかる場合は、「新口村の場」のみで見取り上演される場合が大変に多い。ほか、「新町揚屋の場」のみの見取り上演、「新町揚屋の場」「新口村の場」で通し上演をする場合もある。

*原作『冥途の飛脚』の歌舞伎上演は明治以降。

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┃ 参考文献

*1:人形浄瑠璃で、女性登場人物が心情を述懐すること。女性登場人物が悲しみ等で心情が昂ぶらせる場面ではこのような「クドキ」が入る。歌うような節付けと舞踊的な振り付けを伴い、女方の人形にとっても派手な見せ場となる。

*2:浄瑠璃の詞章に「めんない千鳥」とあることから、孫右衛門が目隠しをして忠兵衛と手探りで再会する部分をこう呼ぶ。歌舞伎ではよく使われる用語のようだが、現代の文楽では特段言われないかも。「めんない千鳥」とは、京阪において目隠しをして逃げた子を捕らえる子どもの遊びをいう。

*3:一度だけある記録は番付等ではなく、『音曲猿口轡』記事によるもの。

*4:現存最古の台本は寛政8年(1796)。初演記録は歌舞伎年表による。ただし初演時の内容が現行と同じかというと違うらしい。

*5:ここで若干気になるのが、内山美樹子氏の考証では

改作「新町」が廃れたかとみなされる根拠の一つは、番付の人形役割に改作「新町」で活躍する槌家次右衛門の名が全く見えないことである

※引用者注:槌屋次右衛門=梅川の親方。梅川の忠兵衛への思いに理解を示し、まわりがギャンギャン騒いでも他人に身請けされないよう配慮してくれるイイ人。

と書かれているにも関わらず、『義太夫年表』明治篇・大正篇の番付には槌家次右衛門ほか、改作の封印切にのみ登場する役の人形配役がついていること(徳川期は人形配役表記なしの番付も多く、役の有無が判定できない)。表記があるのに「全く見えない」とまで断言されているのは、義太夫年表が間違えているかな(私が見ているものの版が古いのかな?国立劇場の図書室のと国会図書館のを使ってるんだけど)。それとは別に役名の揺れとして、原作の太鼓持ち伍兵衛など茶屋にいる脇役男性を指さないとも限らないというのはわかるが、少なくとも下記のうち大正9年と13年は同時に伍兵衛の配役もついているので……。昔の人形浄瑠璃、役名が一定しないのでなんとも言えませんが……(ほかにもイレギュラーとしては、歌舞伎『恋飛脚大和往来』にしか登場しない「槌屋おえん」役の人形配役がついている公演もある。おそらくこれは原作の花車のことを指してこの役名にしているか)。

  • 明治39(1909)4月・御霊文楽座『恋飛脚大和往来』(淡路町+封印切+新口村の通し)→「槌屋次右衛門」「判人由兵衛(改作・封印切にのみ登場する身請けの仲介人。端的に言ってせこい女衒)
  • 大正9年(1920)9月・御霊文楽座『冥途の飛脚』(同通し)→「槌家次右衛門 ※これは主役格を遣うような格の高い人形遣い(吉田辰五郎)が配役されているので、素人目には改作の可能性がある気がしますが……。」「判人由兵衛」
  • 大正13年(1924)2月・御霊文楽座『冥途の飛脚』(同通し)→「槌屋次右衛門」

仮にこれらが改作ではなく原作だとすると、改作「封印切の段(新町の段)」の最後の上演は、もっとも早くて文化13年(1816)にまで遡るかも。

また、同論考での改作「封印切の段」廃曲の根拠として、安政2年(1855)、慶応2年(1866)、明治22年(1889)に行われた改作「淡路町の段」+「新口村の段」通しという、「封印切の段」を抜いた特殊な上演方法に着目している。※改作であるか否かは推測。明治22年(1889)は『傾城恋飛脚』にのみ登場するおすわ(妙閑の姪で忠兵衛の許嫁)、梅川忠兵衛(梅川の兄)の役が人形配役に見られるので、まず改作と思われる。

*6:国立劇場国立文楽劇場は基本的に正本準拠で外題表記を行う。そのため、民間公演とは表記が異なる場合もある。

*7:この手法は一般図書館でもできるようないちばん手軽な手段なので、素人が判定できることは限られているけど……。検証していると上演資料集と義太夫年表で齟齬のある点がみられ、より細かい調査をするなら相当大変だと思った。それにしても上演資料集は「文楽座の忘年会でやりました💓」とかまで載ってるんですね……。師匠主催の勉強会@師匠ハウスはまだわかるけど(上演劇場の表記が突然の個人宅)。関係ないけど義太夫年表の新刊は今秋に出るらしいです。