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文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

映画の文楽3 木下惠介監督『楢山節考』の義太夫 ― 木下惠介の浄瑠璃世界

ひさびさ更新「映画の文楽」。今回は文楽座から太夫・三味線が音楽出演し、義太夫節が効果的に使われている作品について紹介する。

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木下惠介監督の映画『楢山節考』(松竹大船/1958)は、深沢七郎*1の同タイトル小説を原作とした映画。「姥捨」の風習のある信州の貧しい山村を舞台に、まもなく「姥捨」=楢山参りを迎える老婆・おりん(田中絹代)と彼女を捨てねばならない息子・辰平(高橋貞二)、そしておりん一家の面々や近隣に住む村人たちの日々が描かれている。

寒村の口減らしの陰惨な因習という前時代的でセンセーショナルな内容を扱っていることで有名な作品なのかと思いきや、この作品の名を高くしている最大の特性は、美術・音楽・演出に舞台演劇(歌舞伎)の技法を用いていることだろう。たとえば舞台美術家・伊藤熹朔を起用した美術。いかにもロケが栄えそうな題材ながら屋外撮影を一切行わず、オールセット。背景には書割を使用し、極端な遠近パースのかかったセットを用いる等、舞台を思わせるセットが使われている。また、場面転換では手前にいる俳優に当たった照明を落としてセット(大道具)を左右に引き、背後の幕を振り落としてそのさらに後方に組んだ次のシーンのセットへ直接移行する等、演劇的な演出で映像が進行する。

 

 

 

このような演劇的演出で特に印象的なのは、ナレーションにあたる部分に義太夫が用いられている点。既存曲の流用ではなくオリジナル新曲で、義太夫の作曲と演奏は文楽座から出ている。当時二派に分裂していた文楽座のうち新作作曲に意欲的な三味線奏者が松竹(因会)に残っており、また、ほかのメンバーも外部とのコラボに意欲的だったことから実現したのだろう。*2

  • 作曲=野澤松之輔
  • 演奏=竹本南部太夫/野澤松之輔、野澤錦糸(先代)、竹澤団六(七代目鶴澤寛治

野澤松之輔は文楽座の三味線弾きで、多くの浄瑠璃の復曲・新作を手がけた作曲家でもある。昭和20年代後半から30年代の近松復曲期にはその中心となって活躍した。この『楢山節考』もそんな時期の作品だ。

また、オープニングで定式幕*3を前に口上する黒衣も俳優ではなく文楽座からの出演で、人形遣いの吉田兵次というこだわり。むかしの文楽の映像を見るとかならずこの人が口上をしているので、声を聴いたことのある方も多いだろう*4。口上は「東西、東西、このところご覧に入れまするは、本朝姥捨の伝説より、楢山節考楢山節考、東西、東西」。この声と拍子木の音とともに定式幕の上にタイトル・スタッフロールが表示され、それが終わると定式幕が引かれてゆき(歌舞伎踏襲らしく下手から開く)、義太夫の語りで本編が幕を開ける。

そのオープニングから冒頭部分にかけての3分間は以下で見ることができる。(Youtubeムービー・松竹公式提供映像)


楢山節考(予告)

 

音楽はすべて和楽器を使用。クレジットでは長唄の出演者の名前も並ぶが、基本的には義太夫か太棹三味線の独奏が入る。

木下惠介作品で音楽の特殊な使い方をしている作品といえば、話が狂っている上にそのナレーションとして熊本弁のフラメンコが入る『永遠の人』(松竹大船/1961)を思い出すが、この義太夫もそれに張るほどすごい。というより、その原型となった作品なのだろう。

 

 

 

義太夫の使い方は基本的に歌舞伎の義太夫狂言と同じで、セリフでない地の文の部分が義太夫になっているのだが、その義太夫の入れ方が抜群にうまい。というのも、すべてのシーンのナレーションを義太夫で入れているのではなく、いかにも浄瑠璃に描かれそうな情の行き違いを描く哀切的な部分のみに、効果的に義太夫が使われているのだ。

本作は老婆おりんとその息子辰平を中心にストーリーが展開するというのは先述の通り。この村では70歳になれば「楢山参り」といって、子どもに背負われて楢山へ行く(=村から離れた山の頂へ捨てられる)という習わしになっている。もう間もなく70歳を迎えるおりんはその「楢山参り」を受け入れており、山へ行く日に備えている。おりんは高齢ながら体が大変に丈夫でそれをつねに恥じており、楢山参りを待ちかねているようでもある。しかし、おりんの楢山参りについての本心は語られない。だがおりんの一家は辰平に後妻が来たり、孫・けさ吉が妊娠した女を嫁に迎えたりと、家族が急に何人も増え、口減らしをせずにはいられない状況である。けさ吉とその女房はおりんの楢山参りを心待ちにしていて、早く行けと露骨に進言してくる。辰平はおりんの楢山参りについて何も言うことはなかったが、あるとき、ふと涙を見せる。内心では、おりんに楢山へ行かないで欲しい、ずっと元気で家にいて欲しいと思っているのだ。おりんと辰平の親子は本心を見せあわずにいるため、表面上、言動がすれ違い続ける。このような親子のセリフなしでの感情のやりとりが行われる部分にナレーションとして義太夫が入り、浄瑠璃が効果的に使われている。語りや三味線に胡弓がかぶってきて、いかにも浄瑠璃といった哀切な雰囲気をかもしだす。

逆に義太夫が使われてないのは、浄瑠璃にはないような、人間の心のうちにある醜い闇=えげつなく生々しい人間味が描かれる部分だ。たとえば、おりんの家の隣に住む一家。この一家の親子はおりん親子とは真逆の性質である。おりんの幼馴染・又やん(宮口精二)は楢山参りを嫌がるために家族からひどく疎まれ、ろくな食事も与えられずこき使われている。又やんは、楢山参りをするくらいなら、このまま人間以下の暮らしをするのでいいと思っている。彼の息子(伊藤雄之助)は父に冷淡で、最後には無理矢理又やんを楢山へ連れていき、崖から突き落として殺してしまう。この一家が登場する場面には義太夫は入らない。また、近所へ盗みに入った男とその一家に村人たちが制裁としてリンチを加えるくだりがあるが、その部分にも義太夫は入らない。浄瑠璃もなかなかに怖い話が多いが、双方とも、浄瑠璃どころの騒ぎでない恐怖をおぼえる場面だ。ある意味、おりんと辰平の心のやりとりに匹敵するような人間味のあるシーンだが、浄瑠璃が描く清浄な世界観からかけ離れているため、義太夫を使わなかったのだろう。

 

 

 

義太夫を使う以上は、演技の間尺を義太夫に合わせなくてはならない。

例えば、孫・けさ吉が最初に登場するシーン。戸外から家の中へ体を左右に振りながらノシノシと入ってくるという動作は、義太夫に合わせてちょっと人形振りっぽくなっている。その出てくる間合いの音楽への合い方がなんとも映画とは思えないほど“カンペキ”すぎて、面白い。けさ吉役は三代目市川團子(三代目市川猿之助/二代目市川猿翁)で、本職だ。

また、辰平のあたらしい女房・玉やん望月優子)が祭りの日に初めて家を訪ねてくるシーン。ここでおりんは貧家にはとっておきのご馳走を彼女に振る舞うが、その食事の支度が映画にしてはかなり長い。普通の映画ならお膳が瞬間的に出てくるところ、義太夫がゆったり語られながら進行するので、「いつまで飯よそってんねん!! 政岡の飯炊きか!?!?」ってくらいに時間がかかる。文楽の場合、時間は義太夫の語りにあわせて伸縮するので飯の支度に時間がかかっても気にならないが(むしろ本当の食事のときのようなのんびりした気分になって好ましい)、映像で観るにはなかなか新鮮な間合いだった。

ただ、不思議な印象があるのはこの場面くらいで、ほかのシーンは風景ショットを長めに回すなどで義太夫の間合いがうまく処理されており、ほとんど違和感を覚えさせないつくりになっている。

浄瑠璃とのマッチングといえば、おりん役の田中絹代は人形の婆のかしらのような顔をしているので、浄瑠璃の世界にしっとりと馴染んでいる。むしろ映画としては、ものすごい田舎のものすごい貧家の婆さんがこんな上品な顔してるか?ってくらい。嫁・玉やん役の望月優子は人形でいうとオフクチャンみたいな顔ながら、性根が世話物の心優しくおとなしい奥さん風、かしらは細面の老女形って感じなので違和感があってちょっと面白かった。歌舞伎をよく観る方なら浄瑠璃に個性ある外見の生身の人間が乗っていることに違和感がないと思うんだけど、私、基本的に文楽しか観ないので……。辰平役の高橋貞二文楽人形にはいないタイプの性根と顔立ちであるが、清浄な雰囲気が浄瑠璃の世界に馴染んでいた。 

 

 

この義太夫の詞章は、実は木下惠介自身によるもの(脚本=木下惠介)。浄瑠璃ながら近世風の古語・漢語等は使わず、近代〜現代風の言葉遣いで聞き取りやすいようになっている。ニュアンスとしては明治作の『壺坂観音霊験記』をもうちょっと現代の言葉遣いに近づけたくらいの感じ*5。たとえば映画冒頭、さきほど動画を貼った部分の浄瑠璃はこんな詞章。

〽山また山の信濃路に、人も知られぬ谷あいの、流れも細き糸川の、川蝉の声哀れなる、日陰の村の物語

木下惠介義太夫の使い方のうまさもさることながら、浄瑠璃の詞章をこんなにうまく書けるとはなぜ?と思っていたら、実は子どものころから歌舞伎、とくに義太夫狂言が好きだったそうだ。長部日出雄による木下惠介の評伝『天才監督 木下惠介』(新潮社/2005, 2013)には、木下惠介が幼少時にどのような歌舞伎を観たかはわからないと書かれているが、実は幼少期の歌舞伎の思い出を木下惠介自身が語っている記事が存在する。

『演劇界』1958年8月号(演劇出版社)に掲載された、「映画と歌舞伎について」と題した木下惠介の本作撮影中インタビューの抜粋を以下に紹介する。

日本人にもっとも親近感のある、伝統の日本音楽だけで映画を作ってみたいという考えは、かなり以前からもっていました。小さいときからわれわれがききなれた、あの太棹の三味線の音や琴の音、笛の音など、みんななつかしいものばかりで、また日本映画の音楽として十分に表現能力をもっています。たまたまこんどの『楢山節考』という適切な原作をえたので、これを試みてみることにしたわけです。

(中略)

ぼくの生れた浜松というところは、芸事のさかんなところで、ぼくの子供の頃から、東京や関西の歌舞伎がよく巡演してきてましたね。ぼくのうちは両親が芝居好きだったので、ぼくもずいぶん小さな子供のころから、芝居小屋に通っていたわけです。桝で仕切られた桟敷の仕切りをとびこえながら、廊下の売店に行って、センベイやキャラメルなんかを買いに行った、なつかしい記憶がありますよ。そのころ浜松で人気があったのは、先代の幸四郎(引用者注:七代目)でした。年に二回、定期的にやってくるのが、いつも超満員。ぼくもこの幸四郎が好きで、来るのが待遠しいような気持でいたのを憶えているけれど、やはりいまのファンの気持とおんなじかもしれませんね。出しものでは、天狗の出てくる芝居、あれはなんといったかな……、そうそう『高時』という狂言だったかしら。それに『大森彦七』なんかも、ずいぶん何度もみましたね。

それからやはり同じころだけど、関西歌舞伎もよくきていましたね。先代の雁十郎、いまの鴈治郎(引用者注:初代)の大きな顔がまたいまだに印象に残っていますね。女形では梅玉(引用者注:三代目か)や秀調(引用者注:三代目か)も憶えています。関西歌舞伎はお得意の“上方もの”をよく出していて、ぼくもそのころ中学生になっていたのかな……。『紙治』*6や三勝、半七の『艶容女舞衣』なんかがとても好きだった。中でも三勝半七の後半の心中行のところなんか、二人の愛情の表現の、いわゆる色模様というやつがとても美しかったのを今でも思い出しますね。映画界に入ってからも、これをいちど映画にしたいな、と思ったこともあるくらいです

(中略)

近松ものに興味をもちはじめたのも多分中学二三年生のころだったように思います。あの心中物は、やはりそのころにひどく感動したものです。それからそのころ好きだったのは『朝顔日記』*7と『壺坂観音霊験記』。朝顔ではあの川止めのところ*8になるとさんさんと、涙を流したものですよ。壺坂ではあの川底の観音様が現れるところ*9が、なにか子供心にひどくひかれて好きになった。田舎に来る芝居の出しものには、これに『寺子屋*10や『先代萩*11といった悲劇調のものが多く、またそれがいちばんよくうけていたから、ぼくの好みもそんな方向に向いていったのかもしれないけど……。

このころからぼくは義太夫のあの太棹*12の音がとても好きでしたね。寺子屋の例の“いろは送り”*13のところなんか、今でもきくたびにいいなあと思うくらい……。まったく歌舞伎のチョボ*14の効果はじつにうまく作られている。そんなところからこんどの『楢山節考』の音楽構成のヒントが生まれたといってもいいでしょう。つまり子供時代から見ていた歌舞伎が、いつの間にか身についていて、それがこんどの映画に義太夫をとり入れるときに、とても役立っているわけですね。自分の知らぬ間に義太夫の素地ができていたのかな……。

こんどの映画の『楢山節考』には広い意味では歌舞伎のものをとり入れているといっていいかも知れません。セリフが義太夫の調子に合うよう苦心して書かれていることもその一例で、またこのセットの遠景が芝居の画割りみたいな感じを出しているのも、そうしたねらいの一部でしょう。本当は俳優さんもどちらかといえば歌舞伎の役者のように、うんと調子の高い、極度にはりつめたような感じの演技が欲しいのですが……。もし出来れば全体を歌舞伎調の衣裳と台詞でやってみたいという考えもありました。

もちろん、子どものころに観ていたというだけでなく、映画監督になってからも歌舞伎を観に行っていて、好きな歌舞伎役者として中村勘三郎(十七代目)、松本幸四郎(八代目)、中村歌右衛門(六代目)の名を挙げている。映画に向く歌舞伎俳優はと訊ねられると、すでに映画に出演歴のあった幸四郎は映画俳優としても立派に通用すると答え、また、多くの歌舞伎俳優が映画でも実績を出せるだろうと語っている。『瞼の母』での勘三郎の演技を見て映画でもいけると感じたと話すくだりも。実際、十七代目中村勘三郎はこの『楢山節考』の3ヶ月後に公開された山本薩夫監督の映画『赤い陣羽織』(松竹/1958)で映画へ初出演し、さらに1960年には木下惠介監督の映画『笛吹川』(松竹)へ出演することとなる。

それでは、木下惠介は古典芸能原作の映画にも挑戦する意欲があったのだろうか。インタビュアーは歌舞伎狂言で映画化したいものはないかとも質問しているが、それに適当なものはないとの回答だったようだ。

 

 

 

浄瑠璃では親の立場から子殺しの哀切が語られる名作が多い。木下惠介が少年時代に観たという義太夫狂言『菅原伝授手習鑑』「寺子屋の段」と『伽羅先代萩』(「御殿の段」)はともに親子の別離を描く浄瑠璃であり、子どもを殺さざるを得なかった親の立場からの悲しみや煩悶が描かれている。この二つの作品では、劇中で殺される幼い子どもが自らは死ぬべき境遇にあることをわかっており、親の心中や状況を察して自ら死を選んだという設定になっている。しかし子どもが自ら死に直面した心中、あるいは親から見殺しにされることへの心中を語ることはなく、その内面は伏せられたままで進行する。そして、その子どもの心中を察した親は、子どもを見殺しにせざるを得なかった社会境遇と、それを受け入れ犠牲になった子どもの健気さを嘆き悲しむ。

この映画『楢山節考』はそれをまるで反転したよう内容だ。つまり、境遇上死を選ぶことになる親=おりんの心中は徹底して伏せられ、子ども=辰平の立場からの葛藤や煩悶を中心に描かれている。このことが本作の浄瑠璃使用の理解のポイントになると思う。*15

この作品での義太夫の使い方を見ていると、木下惠介の戦時中の作品『陸軍』(松竹/1944 昭和19年)のクライマックスを思い出す。それまでは息子の出征に対し無反応かのように見えた母・田中絹代が、ついに息子との別れとなるラストシーン、軍歌の合唱の中、出征の式典で行進する息子を見送りの大群衆をかき分けて走って追いかける場面は、木下惠介の『伽羅先代萩』だったのだろう。主君を守るため、目の前で幼い息子・千松が殺されても動じない忠烈の乳母として振舞っていた政岡が一人になった途端に急に泣き崩れて心中を吐露するという「先代萩」でもっとも名高い場面を思い出す。『陸軍』は戦時中の国策映画であり、陸軍からの依頼で制作されたものなので、本来であれば息子の出征を母が喜んで送り出す内容になるべきだろう。しかし木下惠介は素直にそうせず、田中絹代が政岡のように、目の前で子どもが死を選ぶことになったとしてもそれをそのまま見殺しにする、せざるを得ない、「本心とは真逆の態度を取る」ことで、内容に文句がつけられないギリギリのところを攻めている。よくあれを作ったなと思う(っていうか、こんなん納品されて、陸軍の担当者、まじ困惑したと思う。そのうえ突然のBL入りだし)。

そう思うと、「……とは言ふものの、可愛やな、君の御為かねてより、覚悟は極めていながらも……」という政岡の語りは、ほんの数十年前までは生々しい言葉だったんだなと感じる。

 

 

 

 

*1:高校生のころに『楢山節考』を読んだとき、「この作家、露悪的なポーズを取っているのかな」と思った。若者が戦略的に前時代的でセンセーショナルな話題を扱っているようで、鼻白んだ。深沢七郎には、ハスに構えた態度で無邪気さ・無知性を押し出し、ひょうひょうとした現代的な態度を作為的に取っているようなイメージがあった。しかし、今回いろいろと調べてみると、深沢七郎は相当歌舞伎が好きらしいということに気づいた。木下惠介との対談企画(『中央公論』1958年6月号掲載「楢山を越えて」)でも歌舞伎の話をしているし、『楢山節考』が歌舞伎化されときの歌舞伎座の筋書きへの寄稿でも歌舞伎好きの人向けに文章を書いている。木下惠介は深沢との対談で『楢山節考』をはじめて読んだとき、子どもの頃に見た見世物の安達ヶ原の鬼婆−−妊娠した女の腹を裂き、鮮血にまみれた胎児を取り出す−−を思い出した、『楢山節考』にはそのような血のイメージがあると話しているが、深沢はドン引きして、僕は歌舞伎の『黒塚』のほうがイメージに近いというようなことを語っている。ふーん、ああ見えて(?)露悪的でえげつないものは嫌いなんだなー、と思った。この対談の中で深沢が「歌舞伎は歌舞伎、文楽文楽、映画は映画で、それぞれ違うものだ」と語っているのも印象的だ。

*2:この映画が制作される前に、『楢山節考』は菊五郎劇団ですでに歌舞伎化されていた(脚色=有吉佐和子。1957年6月歌舞伎座、7月大阪歌舞伎座で上演)。当時の歌舞伎座の筋書を確認したが、演奏者の記載がなく、純歌舞伎として上演したのではないかと思う。観劇した原作者深沢七郎の手記(該当公演の筋書に掲載)によると、突飛なことはせず、ごく普通に歌舞伎化されていたようだ。そのような「マネ」ととられかねない前例があったにも関わらず、浄瑠璃義太夫狂言)としてまったくの新境地を切り開いた木下惠介のガッツがすごい。
この歌舞伎座での『楢山節考』の公演に、当時文楽三和会の三味線弾き・野澤喜左衛門(二代目)が来場していたという話がある(『演劇界』1957年7月号、安藤鶴夫歌舞伎座の幕間 “楢山節考”と喜左衛門と」)。これは単なるシュミで来ていたわけではなく、武智鉄二演劇評論家)が小説『楢山節考』の発表(1956年)直後、喜左衛門へ『楢山節考』の作曲を依頼したことによるらしい。
経緯としては、この前年に武智プロダクションで企画した朝日放送近松」(石川淳原作)に豊竹つばめ太夫(後の四代目竹本越路太夫)・野澤喜左衛門が出演しており、同作が芸術祭で奨励賞を取ったことから、その次の作品として『楢山節考』を考えていたらしいのだ。喜左衛門はその参考にするために公演を観たらしい。当時三和会は三越劇場公演中で、その日は百貨店の休業日=休演日で、稽古のあいまにやって来たのだったそうだ。喜左衛門は内容に感銘を受けて帰っていったようだ。この武智鉄二の計画のその後については、私に当時の劇壇・放送等の知識がなくて詳細が追えず、どういう内容を意図していたのかや実現したかどうかはわからなかった。
もし喜左衛門が『楢山節考』を野澤松之輔よりも先に義太夫として作曲していたらどうなっていたのだろう。おそらくこの映画の企画自体が存在しなかったと思う。この映画は義太夫ありきで作られていて、かつ、野澤松之輔が引き受けたからこそ成立した企画だと思うので。喜左衛門が作曲していたら、東映など他社が手を出したかもしれない。それこそ内田吐夢あたりを立てて。それにしても、喜左衛門へいちはやく作曲を依頼した武智鉄二はさすがの慧眼だと思う。武智も『楢山節考』のもつ浄瑠璃性に気づいていたのだろう。
ちなみに、野澤松之輔は木下惠介義太夫使いのうまさに感心し、文楽のために新作を書いてくれと頼んだそうだ。これも実現していたらどうなっていたでしょうね……。この映画は浄瑠璃としてなんとかうまくまとまっていると思うけど、木下惠介大先生の叙情性というのは文楽が扱う浄瑠璃に描かれる情の世界観とはまた違いますからね……。
逆に、いま『楢山節考』を文楽で上演することになったら、おりんの人形配役は間違いなく和生さんだな。

*3:古典芸能や演芸の舞台で使われる、くすんだオレンジ・グリーン・黒の三色の太い縦縞の幕のこと。

*4:口上って、誰にでも出来るようで出来ませんからね。現在の文楽公演では若手や中堅の人形遣い数人が交代で口上を行なっている。しかし、出番や人手の都合などでたまに慣れていない人・初めての人が臨時でやっていると、間合いや声の調子・スピードなどに違和感があり、客は「こいつ初心者やな」とすぐにわかってしまう。本物と真似との違いを木下惠介はよく知っている。

*5:楢山節考』の構造は『壺坂観音霊験記』に似ている部分があると思う。草深い田舎の貧家で肩を寄せ合って暮らす主人公たち、お互いを思いやりあっているのに表面上すれ違う気持ち、神仏的存在がまつられた山、二人での山参り、相手を思うための自己犠牲、山での自死、残される側の悲しみ。文楽の『壺坂』では座頭・沢市が妻・お里とともに壺坂寺のある山へ登っていく(=死に向かっていく)道行が印象的だが、本作でも辰平がおりんを背負って山を登っていくシーンがクライマックスにくる。ただ、本文では触れなかったが、この映画がおもしろいのは実はこの楢山参りよりも前の部分であって、楢山へ登るシーン以降は正直言って陳腐というか、過剰演出だと思う。浄瑠璃風でまとめるなら、もう少しやり方があるはずだが……。『壺坂』もあの生き返りの展開はどうかと思いますけど、曲自体がいいのでなんとなく納得してしまう。

*6:心中天網島』。改作を含む場合がある。

*7:『生写朝顔話』。

*8:『生写朝顔話』四段目「大井川の段」のこと。

*9:『壺坂観音霊験記』「山の段」の最後の部分のこと。

*10:『菅原伝授手習鑑』四段目切「寺子屋の段」のこと。

*11:伽羅先代萩』。

*12:義太夫節に用いる太棹三味線のこと。長唄等に使う細棹三味線に比べ大型で、低音で大音量が出ることが特徴。……って、文楽鑑賞教室の三味線さんの解説みたいなこと書いちゃった。

*13:寺子屋の段」段切で、松王丸・千代夫婦が息子・小太郎の野辺送りをする場面の通称。いろは歌になぞらえた詞章がついていることからこう呼ばれる。

*14:歌舞伎での義太夫(竹本連中)の演奏。

*15:この映画、歌舞伎や文楽の知識があるかどうか(見慣れているかどうか)で見方がかなり変わると思う。古典芸能サイドからの映画評としては、歌舞伎評論家・郡司正勝による評(『映画評論』1958年8月号掲載「日本人の尾骶骨について『楢山節考』」)が的確であると感じた。たんに古典芸能の技法を取り入れているから云々というありがちな切り口ではなく、木下惠介浄瑠璃義太夫への理解がありすぎて、逆にこの映画の精度が鈍っているのではないかという「わかってる」感炸裂のキレまくった評である。そのうえ、のっけから『楢山節考』は『二十四の瞳』『野菊の如き君なりき』『喜びも悲しみも幾年月』に続く語り物映画の系列だと書いているのはことによかった。突然のオレの妄想開陳大会。郡司センセイが歌舞伎文楽ヲタというだけでなく、木下惠介大先生ガチ恋ヲタということが本当によくわかってとても良かったです。郡司センセイ落ち着いて。この映画、義太夫が使ってあるからアナタ批評に呼ばれたんです、木下惠介大先生ファン枠じゃなくて古典芸能枠ですから。それはともかく、『楢山節考』原作は古浄瑠璃的であるとの指摘には膝を打った。また、演劇評論家・尾崎宏次の、この映画は人形浄瑠璃であるという指摘も鋭い(『キネマ旬報』1958年6月号掲載「人形浄瑠璃と映画」)。ほかにもごく普通の婦人雑誌の「今月の映画♪」みたいなコーナーなのに書いているのがやばい文楽ヲタ(松之輔様命)というのがあって、細かいところまで実によく「聴いて」記事をものしていたりと(一般誌であの映画について簡単に説明するとしたら、一番誰にでもわかりやすいであろう映像を切り口にすると思うんですけど、そうではなく、胡弓の使い方をグイグイ説明している)、当時の文楽ヲタが好き勝手喚いている映画評が散見されて、どれも味わいがあって、良い。なかでもこの映画の義太夫は現代的であると書いている人がいたのは、さすがヲタの耳。