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麻雀漫画と昭和の日本映画と文楽(人形浄瑠璃)について書くブログ

文楽 上方文化講座(1)文楽案内 −『妹背山婦女庭訓』の上演をめぐって 大阪市立大学

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8月21〜23日、大阪市立大学で行われた「上方文化講座」に参加した。

「上方文化講座」は文学部向けの授業を一般市民にも開講するという講座。一般参加は抽選制となっており、学生と合わせて(たぶん)300人ほどが3日間にわたって授業を受けた*1。「上方文化」といっても文楽が中心で、毎年1演目をテーマとして床本の講読や周辺文化の講義、技芸員による談話・解説等の授業を行う。今回のテーマは『妹背山婦女庭訓』四段目(井戸替えの段〜杉酒屋の段〜道行恋苧環〜姫戻りの段〜金殿の段)。開講形態上、古典芸能・国文学以外の講義が含まれるのが特徴であり、文楽絡みだけではない幅広い周辺知識を得ることができる。

今回の更新から数回にわたり、この講座の授業のうちとくに文楽に関連が深いものをレポートしようと思う。1日4限×3日間と講義数が多いため、授業ごとに分けてまとめを掲載する。まとめは私自身が行っているものであり、必ずしも講義進行やレジュメに沿って記載しているわけではないことをお断りしておく。

まず第1回の更新は、1日目1限目、久堀裕朗先生による「文楽案内 −『妹背山婦女庭訓』の上演をめぐって」から。

 

文楽案内 −『妹背山婦女庭訓』の上演をめぐって INDEX

 

 

┃ 三段目切「妹山背山の段」の上演形態

今日、『妹背山婦女庭訓』の三段目切「妹山背山の段」(以下「山の段」)が上演されるときは、上手の背山・下手の妹山それぞれに床を設置し、太夫三味線が背山・妹山に分かれて掛け合いを行う。この上手・下手に分かれた掛け合いの形式は「山の段」だけに見られる特殊な上演形態となっている。以下のまとめでは、この特殊な上演形態について、以下の2つの視点から解説する。

(1)「山の段」初演時の演出意図……初演時はどのように上演していたのか?

(2)人形浄瑠璃の舞台構造・上演形態の歴史……太夫三味線は昔はどこに座っていたのか?

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┃ 「山の段」のシンメトリー構成

『妹背山婦女庭訓』は近松半二ほかによる合作であるが、「山の段」は立作者である近松半二が書いたものと推測されている。この段は近松半二作品の特徴であるシンメトリー構図が人物関係、舞台構成ともに生かされている。舞台は中央の吉野川を挟み、上手(向かって右)に背山の大判事清澄・久我之助親子、下手(向かって左)に太宰後室定高・娘雛鳥親子を配し、久我之助と雛鳥の恋と死を通して両家の長年の対立が和解に至るまでを描く。

この段の舞台構成上の最大の特徴は、通常上手に設置されている本床以外に、下手側にも仮床が設置されていることである。太夫・三味線は背山と妹山に別れ、それぞれの側の登場人物の演奏を行う。

『妹背山婦女庭訓』は初演当時、すでに退転していた竹本座・豊竹座、両座の出演者を寄り集めてキャスティングされた正月興行だった。作者の近松半二は竹本座・豊竹座の太夫、染太夫と春太夫を、それぞれ背山・妹山に配置した。さらには芸風を指して西風・東風と呼ばれていた両座*2の芝居町での立地関係と、舞台(上演劇場が建っている向き)の東西を一致させ、両者を配置したのである

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  • 背山:染太夫(竹本座) 西風……地味で堅実な気質
  • 妹山:春太夫(豊竹座) 東風……派手で写実的な気質

 ……とされているが、初演時から本当に現行と同じような舞台構成で上演していたのかは検証の必要がある。以下では初演時は具体的にどのような上演形態であったのかを資料を引きながら検証していく。

 


┃ 『妹背山婦女庭訓』と『役行者大峰桜』の配役

舞台構造の話に入る前に、まず「竹本座・豊竹座の太夫をそれぞれ背山・妹山に配置し」という部分について解説する。初演時、背山に配役されたのは竹本座出身の竹本染太夫、妹山に配役されたのは豊竹座出身の竹本春太夫だった。そもそもなぜこの二人が配役されたのだろうか?

実は『妹背山婦女庭訓』には先行作がある。1751年(宝暦元年)竹本座初演『役行者大峰桜(えんのぎょうじゃおおみねざくら)』である。

「山の段」は『役行者』三段目切「矢背の段」と人物のシンメトリー構図および展開が酷似しており、江戸時代から『役行者』のリメイクであると指摘されていた(「矢背の段」も対立する両家が和解に至るという展開らしい)。『役行者』には近松半二も作者のひとりとして参加している。

役行者』初演時(?)、「矢背の段」に太夫として掛け合いで出演していたのは二代目竹本政太夫と竹本大和掾であった。そして、そこから20年の時を経て上演された『妹背山婦女庭訓』の「山の段」では、彼らの弟子である竹本染太夫竹本春太夫を競演させることで、興行上の面白さを盛り込んだと言われている。

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┃ 出語り・出語り座の歴史……太夫三味線は昔はどこに座っていたのか?

前述の通り、現在上演されている「山の段」は特殊な舞台構造をもっているが、はたして初演当時から太夫は本床・仮床に分かれて出語りしていたのだろうか? そもそも昔々の人形浄瑠璃の舞台構造はどのようなものだったのだろうか? いまは当たり前である出語りや出語り座(太夫三味線が演奏する専用舞台)はいつからあったものなのか?

このあたりのことは、浄瑠璃関連の古典籍や番付をたどると、だいたいわかるようになっているらしい。以下に簡単にその歴史をまとめる。(図はスライドで拝見した当時の本の挿絵を参考に私が記憶で描いているため、正確性は保証できません。うす目で見てください。)

 

 

<17世紀>

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※上から見た図

『人倫訓蒙図案』(1690)による記述。太夫・三味線は舞台奥、人形の後ろに座っている。人形遣い(当時は一人遣い)・太夫・三味線、すべて客席から姿は見えない。よって服装はフリーダム。

 

 

<18世紀>

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『今昔操年代記』(1727)の記述による。演目は『頼光跡目論』。基本的には17世紀と同じであるが、特別な場面のみ、太夫・三味線・人形遣いが姿を見せるようになる。図中の「平舞台」というところに出て演技を見せたらしい(ツケ舞台)。

出演者が特別に姿を見せるという点でいうと、人形浄瑠璃の解説図でよくある、人形遣いが透けた衝立の後ろで人形を遣っている図、衝立が透けているのは絵画上の演出かと思っていたが、マジで透けていたそうで、その意図は人形遣いの姿を見せるためだったそうな。

↓ 衝立は本当に透けていたという衝撃の事実

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*備考 今昔操年代記 2巻. [2] - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

 

<18世紀中頃>

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『当世芝居気質』(1765)の記述による。演目は『蘭奢待新田系図』。人形が三人遣いになり、舞台上で人形遣いが黒衣姿を見せるようになる。太夫・三味線はいまでいう御簾内で演奏を行い、姿は見せない。よって服装は超フリーダムであり、裸だったりする。暑いからでしょうか。

 

<1728年>

『外題年鑑』に竹本座「初テ正面の床を横ヲ横へ直ス」という記述あり。演目は『加賀国篠原合戦』。

 

<1734年>

同じく『外題年鑑』に豊竹座「正面の床を横床ニなす」という記述あり。演目は『北条時頼記』。

 

<1770年>

『神霊矢切渡』を御簾内で演奏している旨の記述あり。(資料名メモしそびれ)

 

<1797年>

『音曲鼻けぬき』に、以下のような場合は出語りになると書かれている。
・有名太夫がその劇場へ初お目見えするとき
太夫が旅興行から久しぶりに戻ってきたとき
・追善興行
また、「当世は出語り度々にして珍しからず。二段目三段目四段目の差別なく出語りする。」とも書かれている。これまでの「出語りになる特別な場面」というのはフシゴトや道行のみであり、通常のドラマが進行する段では出語りを行わなかった。しかし、この記述からはこの時代になると段を構わず出語りが行われはじめたことがわかる。ちなみに、当時の出語りでは行儀よく語ることがよしとされており、首を傾けたりするのは大変嫌われた。そのため、古人(昔からの名人)ほど短い景事など大騒ぎしなくても語れる演目を演奏した。

 

1800年頃>

『浄るり今物語』に「今では惣中出語り」とある。だが、首を振ったり、手を振ったり、お茶を飲みまくったりと大騒ぎする太夫は(悪い意味で)評判になった。

 

1802年

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『戯場楽屋図会』の記述によると、『壇浦兜軍記』「阿古屋琴責の段」の上演記録に出語り座が設置されていたとのこと。いまと同じ位置に太夫三味線の座る床が出来たのである。ただし、いまのようにクルリンと回るのではなく、奥から押し出してくる方式だったらしい。一応、出語り座での語りは特別な場面のみとのこと(このあたり、資料による認識のばらつき?)。

*備考 戯場楽屋図会 2巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

<幕末>

この頃になると、番付に出語りの記述がなくなる。このことから、幕末にはすべて出語りになっていたと推測される。

 

以上のことから、劇場設備として出語り座ができたのは18世紀終わりごろからだと推測される。

 

 

 

┃ 「山の段」の上演形態……初演時はどのように上演していたのか?

それでは「山の段」では太夫・三味線はどこに座り、どのように演奏していたのだろうか? 記録をたどってみる。

 

1774年(安永3年)江戸肥前座 背山:竹本染太夫/妹山:豊竹百合太夫

  • 本床・仮床……
  • 出語り…………?

義太夫執心録』(1819頃?)によると、この時点で「本床」「向ふ床(仮床)」ができた?(ただし資料の正確性が△)

 

1828年(文政11年)江戸結城座 背山:五代目竹本染太夫/妹山:豊竹若太夫(代数外)

  • 本床・仮床……
  • 出語り…………?

出演した染太夫の弟子、六代目染太夫の自伝『染太夫一代記』に「本床」「向床」の記述あり。番付に「出語」の記述なし。

 

1836年(天保7年)

  • 本床・仮床……
  • 出語り…………

番付口上に「かけ合い」「出がたり」の記述あり。この時点で現代と同じ上演形態になったようだ。ここまでは出語りではなかったのではないかと推測される。

 

以上のことから、『妹背山』初演時(1771年)の「山の段」では、上手・下手に分かれて、御簾内で姿を見せず語っていたと推測される。

 


┃ 竹本座の退転から『妹背山』上演に至るまで

浄瑠璃史で使われる「退転」という言葉は劇場が断絶することを示す。江戸期の資料にある言葉をいまでも使っているためわかりづらくなっているそうだ。竹本座の退転は1767年(明和4年)とされることが多いが、人形浄瑠璃の興行が途絶えた竹本座で歌舞伎が興行したときの番付によると、その退転は1768年(明和5年)となるはずである。

この年、竹本家が竹本座芝居興行の「株」を手放した。この頃は幕府により芝居小屋の軒数は8軒と決められており、その許可証を「株」と言った。「株」を手放したということはすなわち、竹本家が劇場経営から手を引いたいうことである。

竹本家の手を離れ、歌舞伎興行に移った竹本座だったが、すぐに人形浄瑠璃の興行に戻る。その中で、両座の退転によりばらけていた出演者たちが次第に集まってきて、竹本座・豊竹座の面々が顔を揃えて1771年正月『妹背山婦女庭訓』の上演に至る。

近松半二はこのことを活かし、竹本座・豊竹座の両座を背山・妹山に振り分けて「山の段」を構成したと思われる。

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注:雪月花の宴事件…竹田家ほか、芝居の仕打(興行の出資者)が役人を招待し、からくり仕掛けで一晩のうちに春夏秋冬の様子を見せる接待をしたのが「贅沢すぎ!」として公儀に咎められ、入牢させられた事件。

 

 


┃ 「山の段」での近松半二独自の工夫

先述の通り『妹背山婦女庭訓』「山の段」は『役行者大峰桜』「矢背の段」の構図を受けて人物構図・太夫配役が行われているが、『役行者』とは異なる点がある。

役行者』は二家の親子はそれぞれ「父娘」「母息子」であり、政太夫・大和掾は単純に男役・女役に分けて配役されていた。しかし、「山の段」は二家の親子を「父息子」「母娘」として染太夫・春太夫を家ごとに分けて配役した

これが近松半二オリジナルの工夫であり、芝居に奥行きを生んだとされている。

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*2016年4月大阪文楽劇場の公演パンフに載っている記述(『役行者』でも対立する二家の父息子・母娘で太夫を分けて語っていたという旨)は間違いだったと久堀センセイが訂正されていた。そのときは正確な資料を未入手だったよう。

 


┃ 備考 竹本染太夫竹本春太夫の曲風(浄瑠璃評判記より)

竹本染太夫(?-1786)
竹本座・西風/大判事+久我之助
二代目竹本政太夫の弟子。古風な浄瑠璃、声が低め。ものによっては感動させる。

竹本春太夫(?-1784)
豊竹座・東風/定高+雛鳥
竹本大和掾の弟子。細かい節で美しく聴かせる。はんなりした優美な曲調。

 

————講義ノートここまで————

 

 

事前告知では『妹背山婦女庭訓』四段目がテーマと聞いていたが、この講義は三段目「妹山背山の段」の話だった。四段目しか予習してきてねぇ〜……。『妹背山』はおととしの4月の通し上演で観たし、DVDでも観たことがあるため三段目も内容を理解していたからよかったが、びびったびびった。しかし久堀センセイ、あらすじや登場人物をまじで一切説明することなくいきなり舞台構造等の話をはじめていたが、学生さんはついて来られていたのでしょうか。本当に一切ミジンコも説明していなかった。本公演でも「山の段」ってそうポイポイは出ない(らしい)ので、一般受講生でもついていけない人がいたのではないか。そしてこの後の技芸員さんの談話でも「山の段」の話が多く、もうどうせなら三段目・四段目をテーマにしたほうがよかったのではないか疑惑が湧き出していた。

しかしながら「山の段」をモチーフに人形浄瑠璃の上演形態・舞台構造の歴史を探るという講義は大変に興味深いものだった。人形の出遣いを「昔はやってなかった」を盾にしてやたら嫌う人がいるが、そんなこと言ったら太夫だってはじめは出語りしてなかったよ。という他人の足元を掬う豆知識を獲得した(そこ?)。やはり好き嫌いに過ぎないことに変な理屈付けをしないほうがいいと思った。それにしても、太夫三味線が出語りでなかったころはみんな人形をじいっと見ていたのだろうか? そのころの観客の鑑賞態度を知りたいものである。

また、『妹背山婦女庭訓』の初演時の配役は、退転していた竹本座と豊竹座の太夫を競演させる意図があったというのも面白かった。かつて文楽が三和会と因会に分裂し、文楽協会が設立されてふたたびひとつになったときに記念公演として上演されたのはこの『妹背山婦女庭訓』であると聞くが、なぜ『妹背山』が選ばれたのか、それがわかった気がした。*3

そして、参考図版がたくさん見られたのは面白かった。とくに昔々の裸で語る太夫さん三味線さんはおかしかった。暑いよね〜。さらに昔は身振り手振りを大げさにすることは嫌われていたというのにはびっくり。いつからあんな大ぶりになったのか。いや、もちろんいまの太夫さんでも配役に関わらず汗ひとつかかずに静かに語っている方もおられるが。上記の出語りの件もそうだが、現代において「こういうのが趣深い」とされているものでも、必ずしも昔から「そう」だったわけではなく、価値観を含めて上演形態というのは変化していくものであるのだなと思った。たとえば「日本の心」「日本の伝統」であるかのように思われている演歌は1960年代頃に発生した“最近のもの”であること等を指す「作られた伝統」という言葉があるが、古典芸能である文楽人形浄瑠璃)にも少なからずそういった部分が存在するのだな。こういったことに常にエクスキューズをもって接するのは難しいことと思うが、なにも考えず「昔は〇〇だった」という理屈付けをして思考停止する前に、幅広く、よく勉強したいと思う。

というわけで1限目終了。学生時代より真面目にノートを取ってしまった。まだまだ先は長い。2限目、引き続き久堀先生の「『妹背山婦女庭訓』解説」に続く。

 

 

 

┃ 参考文献

  • 『上方文化講座 菅原伝授手習鑑』大阪市立大学文学研究科「上方文化講座」企画委員会・編/和泉書院/2009
  • 文楽ハンドブック 第三版』藤田洋・編/三省堂/2011

 

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*1:募集人数は100人になっていたけど、絶対200人以上はいたと思う。だって入場整理番号が100番以上出ていて、かつ整理券切れになってたもん。

*2:道頓堀芝居町において竹本座・豊竹座の位置がそれぞれ東・西にあったことからそう呼ばれた。

*3:そう都合よく配役がいかなかったかもしれないが……