TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

麻雀漫画と昭和の日本映画と文楽(人形浄瑠璃)について書くブログ

文楽 気になる人形遣い6人 −勝手に技芸員名鑑・アイドル篇−

文楽を見始めたとき、ある意味で一番苦労したのが、「技芸員さんがひとりもわからん!!!!!!!」ということだった。

あのひしめくおじさんたちは一体なんなのか。歌舞伎や落語ならテレビに出ているような人は知っている、能・狂言なら有名ドコのご宗家や露出のある人の名前はわかる、けど、文楽は全員まじ普通のおっ…………。失礼いたしました、普通のおじさま、おにいさまなので、誰が誰だかわからない。なんというか完全にそのへん歩いてる感じなんですけど(素直すぎる感想)。

全然知らん人の大群衆といえば、話は変わるが、みなさん、杉作J太郎の名著『ボンクラ映画魂 三角マークの男優たち』という本をご存じでしょうか。これは杉作氏が60年代後半〜70年代の東映映画の出演者800人について大スターから大部屋役者まで分け隔てなくその愛を語った俳優事典……もといエッセイ集で、杉作氏独自の視点からそれぞれの役者さんへの思い入れがこれでもかとたっぷりと書かれており、たとえその役者さんの名前すら聞いたことがなく、あまた記された無名の映画たちを観たことがなくてもその愛のパワーでじっとり読めてしまうすばらしい本である。まったく聞いたこともないような映画のタイトルにどんな映画かしらと思いを馳せ、そして、のちにその映画を観たとき、ああっ、あれ、杉作サンの言っていたあの人だ、と、背景のほうにちょろりと映った俳優さんを見つけてこの本を思い出し、またあるいはいつも見ていたはずの大スターの杉作視点の側面を知り、なるほど、と本書のページを繰りながらつぶやくのである。世間一般の評価にとらわれることのない気持ちの良い筆致によって、たとえ初めて観る映画や俳優であっても愛着を感じさせてしまう……、この本をきかっけに東映映画にハマった人もいるのではないかしらと思う。

やはりファンは個々の出演者につくもの。ほんとうは歌舞伎等のように、「この人を生で観てみたい!聴いてみたい!」と思って劇場に足を運んでもらえるのが一番良いのだろうけど、しかし文楽の技芸員さんはメディア露出もほとんどないので、たとえ人間国宝クラスでも正直知名度は低いと思う。いやほんとまじで誰一人としてわからなかったです、私。諸般の事情で簑助さん、玉男さんは元々知ってましたけど、調べないとほかの方はわからなかった。そして調べるのもなかなか一苦労だった。パンフレットの技芸員一覧の写真は古くて「誰???」状態だし、本やネットに載ってる情報も大抵「わかる人向け」に書いてあって初心者には意味不明だし……。でも少しでもわかるようになると、それぞれの方に愛着が湧いてくるんだよね。

そこで、この記事では、文楽を見始めてから2年間の自分の考えをまとめるのと兼用として、杉作J太郎氏に及ぶべくもないが、自分が「この人は」と思った人形遣いさん6人について、自分の感じたことや思っているたわごと、愛着をじと〜っと書きたいと思う。

INDEX

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┃ 1. 吉田簑助(よしだ・みのすけ

#美少女 #姫 #色気 #かわいい #かわいすぎる #わしは女方やない! #人間国宝

写真左『女殺油地獄』おかち

文楽人形に対し、「まるで生きているよう」という表現を聞いたことがある人は、多いと思う。あの言葉はまさに簑助さんのためにある、現代文楽最高の美少女。

簑助さんの遣う人形は「生きている」。もしかしたら簑助さんは人形に「遣われて」いるのではないだろうか。と思うことがある。ときおり、ひとりでに動き出す人形を簑助さんが引き止め、振り回されているように見えることがある。心に残っているのは『生写朝顔話』の浜松小屋の深雪。家老の娘・深雪は親の決めた結婚を嫌い、恋する男を追って出奔したものの盲目となって袖乞いに身を落とし、貧しい掛小屋に住んでいる。そして巡礼となって彼女を探し歩いていた乳母の朝香と再会するも、深雪は身を恥じて名乗れずに小屋に身を隠す。その苦しみに大きくからだを捩って顔をそむけ、身悶えする姿は悲しく美しく可憐であり、彼女の閉じられた目からは、流れるはずもない涙がきらきらとこぼれているようで、まさに“ただの”人形とは思えなかった。

印象的なのは圧倒的なかわいさ。簑助さんが遣う女の人形には、人智を超えた何かが取り憑いて動いているとしか思えない、破滅的で衝撃的なかわいさがある。人形って人形なんだから「かわいくて当たり前」という認識を木っ端微塵に破壊される圧倒的かわいさ。かわいさの桁が違う。まじかわいい。かわいすぎる。首筋を見せつけるような首の傾げ方や体の捻り方、人間では絶対できないような異様な姿勢が特徴的で、それが悪魔的なかわいさにつながっていると思われる。また、人形の体がちいさく華奢に見える遣い方も特徴的で、同時に出演する他の人形たちとの絡みではことに可憐な雰囲気を見せる。小動物のようなクルクルした仕草、ちょっとそわそわしたり、ひょっと伸び上がったりしている姿もいじらしく愛らしい。そして、簑助さんは基本的にきわめて清楚で可憐だが、同時に独特の色っぽさがある。もっと言うとえげつない肉感的なエロスがある。湿気をはらんだ悩ましげな仕草。柔らかく温かな肌。ぽっと上気したような表情。生身の女性にはありえない、この世には存在しない夢想的なファムファタル。言うなれば菩薩。ギリシャ神話にある人形に恋した男の心がわかるようじゃ…………。まさに国宝じゃ……。ありがたや…………ありがたや…………😭🙏😭🙏😭🙏😭🙏😭🙏

ちなみに簑助さんはご本人もかわいらしいです。いつもムキュ!とされていて、なんだか気の強いゴマちゃんって感じ。パンフレットの技芸員一覧に載っているポートレートはずるすぎ。わかっててやってるね、絶対。簑助さんはいろいろ確信犯だと思う。

 

 

 

┃ 2. 吉田和生(よしだ・かずお)

#老女形 #奥様 #気品 #人間国宝 #ほのぼの #進藤英太郎

写真左『摂州合邦辻』合邦道心

「こうすれば品が良くなるという遣い方はないんです。私らは役として捉えているだけ」−−。人間国宝に認定された直後、インタビューで「品のある芸風も師匠譲りですね」と言われて和生さんが答えた言葉がコレである。すっげーーーーーーーー!!!と思った。文楽人形の演技に欠かせないもの、それは品位である。いろいろすっとばして言うけど、人形の芝居に品があるというのは、人形遣いに対する賛辞でも最高ランクのものだと思う。それ言われて調子こかず、品があるのは私ではなく役と言えるとはさすがは和生様と、私は心の底から大尊敬したのであった。

和生さんには老女形の配役が多い。武家の奥方、身分の高い子女に仕える乳母役。『花上野誉碑』志度寺の段での乳母お辻役、『生写朝顔話』での乳母浅香役では仕える君主の身分の高さと役自身の気高さと慈愛を感じさせる、ハリのあるすばらしい演技だった。またあるいは威厳に満ちた貫禄ある老人、情にあふれた壮年の武将役もお得意な役柄。『心中宵庚申』の大百姓平右衛門、『源平布引滝』の義賢役ではきわだった気品と威厳、そして慈悲のある大人物として描いていた。いずれも知性と気品のある役である。知性や気品というのは演技そのもので表現することができない。私は文楽を含む時代劇の演技で最も重要なのは身分の表現であると思う。平家の公達役と町人の入婿役、大名の姫君役と川辺に立つ夜鷹役があるとして、使っているのがたとえおなじかしらであっても、同じ演技であってはいけない。貴公子とそのへんの青びょうたんとではそれこそ一から十まで氏育ちが違うのである(そもそも一般人は氏がない)。一般人役などの身分の低い役はよいとして、問題は身分が高い役の場合。打掛のさばき方や扇の上げ下ろしといったその身分ならではの所作は当然ながら、ちょっとした手元の動き、頭の動かし方や目線のつけかたでそれを表現しなくてはならない。そこに知性や気品がにじむからである。

しかしこういった和生さんの芝居はツウのひとだけが感じ取れる、わかる人だけがわかる演技、というものではない。和生さんの演技って誰にでも伝わるんだなって思う。文楽って、時々、会社の行事で初めて来ちゃいましたって感じの団体さんがいらっしゃることあるじゃないですか。それとか、地方の単発企画公演でお見かけする、ぜんぜんわからんけど興味本位で来てみましたっ!という方々。終演後にそういった方々が「おもしろかった〜^^」と話されているのを聞くととっても心なごむのだけれど、そこでよく「人形ってどうやって表情変えてるの????」とマジ聞きしていたり、「表情がいろいろ変わっておもしろかった!」と話されている方々をお見受けする。とくに、和生さんつとめられた役がそういう話題に登っているのをよく拝聴する。そういうとき、どんなひとにでも和生さんの表現は伝わるのだなとしんから思う。きっと「文楽人形は表情をいっぱい変えることができるんだな〜」と思って帰っていかれる方も多いんだろうな。それはすばらしい勘違いであり、同時にまごうことなき真実であると思う。

と、そんな格調高い芝居をしておきながら和生さんご本人は大変にフランクでいらっしゃるようで、予告なく無料イベントに出現なさったりするのも衝撃的。屋外イベントであるにっぽん文楽が雨天中止になった際に、主催者からのサービスで無料で舞台見学ができるという臨時イベントがあったのだが、そこに突如和生さんが登壇し、記念撮影をしてくれたという話を聞いたときはマジ仰天した。和生さん、そんなん若いモンに任せてもっと悠々としとって! と思うけど、飄々としているように見えてサービス精神たっぷりでお優しい和生さん、ずっとそのままでいていただきたいです。

余談。以前、ある公演に行ったら隣の席があいていて、勿体ないなと思っていたら開演直前になって垢抜けた麻のジャケットをお召しの「ツウ」風の年配の男性がさっと入ってきてそこに座った。と同時に「落としてますよ」とその男性が床を指差して声をかけてくる。ふと見やるとそこには私のイヤホンが落ちていて、拾って「ありがとうございます」と言ってその男性のほうを見ると、ものすごい進藤英太郎に似ているではないか。「すごい〜!進藤英太郎がおる〜!息子さんかも〜!!」と興奮していたのだが、よくよく見たら和生さんだった。上演内容はまったく頭に入らなかった。またあるとき、劇場脇のベンチで時間つぶしにお茶を飲んでいたら、あられ屋の袋を持った身軽で小綺麗な身なりの年配の男性が歩いてきた。ペットボトルを傾けながらフトなにげなく顔を見るとものすごい進藤英太郎に似ていて「すごい〜!進藤英(以下略) またまたあるとき、小規模なイベント上演の入場列にクソ寒外気に凍えながら並んでいたら、前のほうからトコトコと歩いてきた男性がものすごい進藤英太郎に似ていて「すごい〜!進(以下略) とにかく、文楽公演会場の近くで進藤英太郎に似た男性を見かけたら和生さんであることは間違いない。

 

 

 

┃ 3.  桐竹勘十郎(きりたけ・かんじゅうろう)

#女形 #町娘 #おてんば姫 #思い込み暴走娘 #キツネ #武将 #謎のFacebook

写真左『玉藻前曦袂』玉藻前実は妖狐

日々力説している、山口貴由の『シグルイ』を文楽化してほしいという件。なぜそう言っているかというと、あの気品と邪智と執念に満ちた美剣士・伊良子清玄を是非とも勘十郎さんに演じてほしいからである。

勘十郎さんの持ち味、それは舞台から滲み出るような異様な執念だ。別にご本人が苦労話をしているわけではないし、わざとらしい頑張り感が出ているというわけでもない。むしろトークショー等でお見受けすると、ほんわか天真爛漫な天然キャラでいながら、実にまわりをよく見て、自分に何が求められているかを常に冷静に考えている方という印象を受ける。たいへんに実務的な方なのではないかと思う。だけどあくまで振る舞いは明るく可愛らしく、立派な方だと感じる。しかし、勘十郎さんが舞台に出ているあいだは「この人……ヤバいんじゃないか……」という、なにか超えてはならない一線を超えた、それこそ伊良子清玄のような異様なオーラが劇場を包むのである。まるで不動明王像の光背のように、情炎がその背後に見えるよう。驚異的だったのは『本朝二十四孝』の「奥庭狐火の段」。八重垣姫という深窓の姫君が恋する男の危急を知り、それを知らせるために親を裏切り、諏訪大社の神の使いのキツネの霊力を借りて諏訪湖を渡るという話。何事にもおそるおそるという風だったあどけない姫君が兜をかつぐとあら不思議やその雰囲気が一転、まるで増村保造映画に出てくるような情念が爛々と燃立つ女へと変わる。姫の衣装が早変わりで火炎柄の白い着物になるのと同時に舞台の空気が一瞬にして変わったのを感じた。

勘十郎さんはこういう情念に駆り立てられた狂った女役が良いと思う。ことに『曾根崎心中』のお初は本当に一線を超えたヤバい女になっていて、出の瞬間からびびった。あのお初は心中どころか徳兵衛の腕をひっつかんで駆け落ちしそうな勢いであった。人形の目に青く燃える情炎がともっているよう。あれには古典作品をこうも新しく解釈する人がいるのかと驚いたものである。ほかに印象的だったのは『妹背山婦女庭訓』のお三輪。おぼこい田舎娘と思いきや、恋する男にほかに女がいると知った瞬間ぶち切れてものすごい剣幕で追っていく姿。あんな普通っぽい娘さんにここまでの意思が、と驚かされた。最後まで決してヨヨとすることのない、強固な意思と情念を持ったすさまじい女の姿だった。お師匠様の簑助様の極限の美を突き詰めた非現実的なまでに美しい女性像とは異なり、女性から見た女性像というべきリアリスティックな精神性が勘十郎さんの味であると思う。

勘十郎さんは女方の一方で立役もこなされていて、そのときは「こいつ……ヤバいのでは……?」という思いつめた狂気をたたえているのが特長的(結局狂ってる)。なんか人形がヤバい感じに思いつめているんだよ……。『一谷嫩軍記』熊谷直実役はやばかった。忠義のために息子と敦盛を入れ替えて息子の首を討つという熊谷の行動は現在の倫理観では考えられない時代浄瑠璃独特のヤバすぎる行動だが、ある意味で現代に演じるにふさわしい狂気と思いつめを熊谷の人形の上に表現されていたと思う。はずみとは言え義父を殺してしまう『夏祭浪花鑑』の団七も、義父が悪辣という設定上の「理由」よりも団七自身が秘めた狂気におぞましい人間味を感じ、人っていつどういうきっかけで気が狂うかわからない、世の中はきれいごとでは済まされないと思わされる生々しい恐ろしさだった。立役の狂気と女方の情念でもって、是非ともあの美しい邪念と妄執をたたえた剣士・伊良子清玄を演じて欲しいというのが私の願いである。

演技そのものとしては洗練された外連味ともいうべき聖俗が同居した遣い方が印象的で、華とほのかな昏さを感じさせる演技が独特の味を出していると思う。先述の長町裏の団七など、手数が非常に多い複雑な動きを洗練された無駄のない手順でこなされていて観ていてスカッとしたものだ。凄惨な殺人シーンを凄惨なままで見せている点も良いと思った。キツネのお役がお好きというのもその外連の一つだろう。こういう外連が強い役って普通に考えたら芸そのもの以外に頼っているとして嫌われそうに思うけど(ご本人もトークショーでキツネの役ばかりという批判を受けるとおっしゃっていた)、それを逆に好きだとアピールしているというのは私はすごいと思う。でも実際に観てみると、外連そのものを上回る技量と研究を感じ、勘十郎さんの意思の強さと異様なまでの執念を感じるのだった。

そんな勘十郎さんには公式Facebookページがある。「コハ一体?」という謎の写真をアップするFacebookページが……。今までで一番すごかったのは満面の笑みで子ギツネを抱っこしてる写真。お父さんのFacebook状態。ほかに書くべきことあるやろ! 公演前後にアップされる人形の写真が一番の目玉コンテンツだが、頼むからスケジュールも全部事前告知して欲しい。

三世 桐竹 勘十郎 - ホーム | Facebook

 

 

 

┃ 4. 吉田玉男(よしだ・たまお)

#立役 #武将 #二枚目 #ヘタレ #人形がクソデカい #癒し系

写真『菅原伝授手習鑑』松王丸

人形の足音(足拍子)がむちゃくちゃでかいので、それまで寝ていたお客さんも玉男さんが出てくるとビックリして起きる。まるで松の巨木のごとき威風堂々とした覇気を放つ、時代物の武将ならこの人、という立役人形遣い。その演技には肉体と骨格を感じさせる芯の太さと重量感があり、古典芸能の世界観ならではの男性美が表現されている。手数をカットして動きをミニマムにとどめ、ひとつひとつの動作を重厚に見せていく演技で表現される『菅原伝授手習鑑』の松王丸、『一谷嫩軍記』熊谷直実の実直な美しさには胸を打たれるものがあった。

文楽人形って着物の下の胴体の中身は空洞で、そこに木でできた腕と足が吊ってあるだけなので、それそのままでは重量は感じない(例え実際には重くても客からはそうは見えない)。が、玉男さんの人形にはたしかにそこに血と筋肉が存在していると思わされる。おそらくこれは「止め」の姿勢やそのメリハリの美しさによるものだろう。ひとつひとつの所作にある止めの姿勢を一発で決めて、あとで調整すればいいやというスキがない。そこに緊張感や重量感、メリハリが生まれるのだと思う。それを感じたのは中之島文楽『ひらかな盛衰記』逆櫓の段が出たのを観に行ったとき。そもそもが初心者向けの公演で客席の雰囲気がゆるいし、上演時間も短いから気楽に見ようと思っていたのだけど、上手の障子が開き、髪をさばき豆絞りのハチマキを結んで船頭のこしらえをした樋口がドンと出てきたとき、ざわめいていた会場の空気は一瞬にして掃き変わった。そこは完全に平安末期の福島の海岸であり、彼は人形ではなく本物の朝日将軍義仲の御内において四天王の随一と呼ばれたる樋口次郎兼光であった。それだけの覇気を表現できる人。

一方では世話物のヘタレた二枚目役も結構映えて、優しいんだろうけどドクズだねオーラが絶妙な不思議な人でもある。近松の世話物の上演時にはそのナチュラルで優しげな雰囲気や情けないヘタレクズオーラが幕間の話題独占。『心中宵庚申』の半兵衛が妻お千代を抱いて背中をぽんぽんしてあげる優しい手つきには、なにげない所作ながら半兵衛の心の優しさと、それゆえにそのままではこの世で生きていけない悲しさが滲み出ていた。

いままでで拝見した舞台で一番よかったのは『玉藻前曦袂』の道春館の金藤次。金藤次はかつて赤ん坊の頃に捨てた娘に再会するも、止むに止まれぬ事情で父と名乗る間もなく彼女の首を討ち落とすことになる。金藤次は前半と後半でまったく雰囲気の変わる役だが、時代物の武将を遣っているときと世話物の二枚目を遣っているとき双方の素質が結晶化していて、金藤次の威厳ある姿と裏腹の内面の優しさ悲しみが表現されていたと思う。たいへんに美しい舞台だった。

配役やご本人のぱっと見は無骨でコワそうな玉男様だが、トークショーなどに行くと意外やほんわか癒し系の方で驚かされる。なんというか、それこそ文楽に出てくる姫的なオーラを放っておられるというかのおっとり優しいお話ぶり。60代であの立場でこんなピュアな人っているんだ……。たくさんのひとに愛されてスクスクお育ちになられたのね……。税金おさめててよかった……。(養分)という思いでございます。みなさん、玉男様トークショーには是非参加して癒されてください。

 

 

 

┃ 5. 吉田玉也(よしだ・たまや)

#立役 #武将 #ジジイ #ジジイ #ジジイ

写真右『心中宵庚申』平右衛門

ジジイ役をやらせたら、玉也さんの右に出る人はいないだろう。ジジイ……それは「つまんなさそうな役」に思えて、実に奥深い役。文楽の物語にはジジイっていっぱいいて、どのジジイもストーリーの要石となる大変重要な役回りである。それゆえかあまりに無数のジジイが出てくるため、ジジイの見分けがつかなくなるのではという不安が湧き出てくるが、玉也さんがジジイ役をやっていれば、そのジジイがどんなジジイかよくわかるので安心。田舎で三本の木を守って暮らすひょうきんで穏やかなジジイ、都からの勅使を務める居丈高で横柄なジジイ、元武将でいまは石屋を営んでいるジジイ、孫LOVE婿惚れ船頭のジジイ、斬られてもなかなか死なない性根まで腐りきった強欲クソジジイなど、いいジジイから悪いジジイまで、さまざまなジジイ演技を楽しませてくれます。個人的には味のある在所のジジイ役が最高で、『ひらかな盛衰記』大津宿屋の段で無骨な船頭ジジイ・権四郎が脚絆を口にくわえて外すガサツな演技には「こんな細かいところまで!」と頭が下がる思いだった。ジジイぶりにディティールがありますな。若山富三郎的な役者スピリット、いや人形遣いスピリットを感じる。

人形遣いって動きの多い芝居をする人と、手順を刈り込んだ芝居をする人がいて、玉也さんはそのうち前者である。動きの多い芝居(業界的には「手数が多い」と言うのかな)では速い動きの中でのひとつひとつの動作、そのつなぎの洗練性が必要になり、それができていないと単なる粗雑になってしまうと気づかせてくれたのも玉也さん。激しく複雑な動きのある演目でも、アスリート的な華麗な所作を見せてくれる。その意味では『夏祭浪花鑑』の因業ジジイ・義平次役はなかなか死なない感に溢れており、異様な元気いっぱいジジイぶりが超最高だった。ボディビルジジイの時代劇版って感じ。

あと、玉也さんて絶対まともな人だと思う。全然知らないですけど、まともだと思う。

 

 

 

┃ 6. 吉田玉志(よしだ・たまし)

#立役 #凛々しい #清潔感 #動かない #袴がつねにブルーグレー 

写真中央『ひらかな盛衰記』船頭松右衛門実は樋口次郎兼光

ひたすら凛々しい人。山奥の誰にも知られていない沢の清流が昇り始めた朝日を浴びてキラキラと輝いている……みたいな感じ。心に残るのは『加賀見山旧錦絵』の又助。陪臣という卑しい身分で身なりも貧しい男、それの身分ゆえに取り返しのつかない過ちをおかすのだが、その輝くように凛とした立ち姿は彼の心根の清潔さをそのままに表現していた。そして『ひらかな盛衰記』松右衛門内〜逆櫓の段では逆に船頭に身をやつしながらもその正体は武勇に聞こえた武将・樋口次郎兼光を覆い隠せないほどの凛々しさで演じておられて大変にすばらしかった。このような輝くばかりの清潔感はほかのひとにはないものだと思う。清潔感というのは真似やナンチャッテではできないもので、例え持っていたとしてもすぐにくすんでしまうもの。きっとこれは玉志さんのいままでの修行の成果と、ご本人がもとよりそなえていてベテランとなったいまなお保ち続けていらっしゃるものであろうと思う。その清々しさが好き。

立場的につねに大々的な役が来る人ではないが、大人しめの配役でもいつもやる気に溢れておられるのが玉志さんの良いところ。あんまり活躍のしどころのない役でも、所作ひとつひとつからその情熱のほとばしりが感じられる。『平家女護島』の鬼界ヶ島の流人3人のうち一番地味な(?)康頼で出演されていたとき、冒頭の「康頼が岸壁にしがみついている姿を見て俊寛ドン引き」の場面の岸壁へのしがみつき具合は本当俊寛もドン引きとしか言えない地獄の餓鬼のごときすさまじさであった。そういうとき、玉志さんは普通に観ているのでは流し見してしまうような脇役でもよく考えて遣われているのだなと感じる。そのためか、『仮名手本忠臣蔵』の塩谷判官切腹に登場する石堂右馬丞のようなほんのすこしの出番しかない役でも、彼がたんなるパシリではなく、慈悲と真心をもった勅使であることをその一瞬の出番のうちに感じられるのだ。

しかし、たぶんだけど余計な芝居がお嫌いみたいであんまり気を持たせる演技をされないため、いきなり人の首すっとばしてきたりするので注意。めっっちゃびびる。突然客の目の前に子供の生首着地。やばい。そして、玉志さんはいつも袴が渋いブルーグレーでいらっしゃるんですけど、もっと派手な役が来るようになったらもうちょっとドレスアップされるのかが目下の疑問である。

 

 

 

今回、なぜ人形遣いについて書いたかについて。

人形ってすごく不思議だと思う。文楽を観て一番最初に目に入るのは人形だけれど、逆にある意味「見ればわかるから」として注目されることの少ないパートだと思う。ぱっと見だけでは、そのビジュアルのキャッチーさに引きずられて理解がぼやけることやわからないことがたくさんあると思ったのだ。

はじめは人形遣いによる個性の違いってわからなかった。誰であっても一律に同じ演技をしていると思っていたのだ。文楽の人形はこの役にはこのかしら(頭)、というのがだいたい決まっていて、そのかしら自体が役の性根を直接的に表す強固な個性を持っている。たとえば「お園」という役なら「お園」は人形遣いが誰であれ「娘」のかしら。文楽では役者(人形)は好き勝手に演技をすることはできず、義太夫にあわせて演技をしなくてはならないし、こなすべき演技も大筋は決まっている。しかし、よく見ていると、「お園」を遣う人形遣いによって、それぞれの「お園」からは微妙に違う印象を受けることに気づく。人間の役者が演じるなら容姿や声から違う印象を受けるのは当然だけど、人形は同じだし、声を出しているのは太夫さんなので、人形遣いは人形の演技そのものでしか勝負ができない。同じ人形を使ってもここまで個性に違いがある=人形遣いに個性があるというのがすごく不思議に思った。その個性というのは、どこから出てくるものなのだろう? いまはそれを考えて舞台を観ている。

今後、違う演目を観て自分の見方が変わったり、また、それぞれの方の配役も変わっていくだろうけど、ひとまず、この2年間に感じたことの一区切りとして書いてみました。

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