TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

映画の文楽 2 『文楽 冥途の飛脚』マーティ・グロス監督(1979)

東京都写真美術館でのデジタルリマスター版上映。

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記録映像のようで記録映像ではない、不思議な映画。海外向けに製作されたといういきさつのため、日本では一般の劇場公開はされず、特殊な企画上映でのみ観られる作品(ソフトは発売されています)。『冥途の飛脚』を抄録ながら文楽公演の上演ほぼそのままに映像化したような内容で、ニュアンスとしては記録映像とドキュメンタリーの中間だろうか。バックステージ等の映像はなく、純粋に舞台映像に徹しているが、単なる上演のようすを撮った映像、でない何かがこの作品にはある。

 

本作の最大の特徴は、「芸」ではなく、あくまで「芸と人」あるいは「文楽とその人」を撮っているという点。本作では太夫、三味線弾き、そして人形遣いの表情が真正面から精緻に写し出されている。

それぞれの段の冒頭、人形が出てくる前の部分は、床を真正面からとらえた映像。一番最初の淡路町の源大夫さんは目を輝かせ、表情豊かに一心に語っておられる。語りは盛り上がっていても鶴のようにすうっとした表情で、しかし突如見台を叩いてびびらせてくるのは越路さん。新口村の住大夫さんは後半にいくにつれだんだん汗をかいてきたり。三味線弾きさんはみな、カメラ目線のようでいてカメラ目線ではない、顔をあげてまっすぐ正面、どこか遠いところを見ながら静かに演奏している。そして人形の撮り方も特徴的。人形だけでなく、出遣いの人形遣いの姿が常にトリミング内に入るように写されており、かなり人形遣いの顔寄りになるカットもある。みなさん別に表情はさほどないのだが、あんまり表情がないということが写っている。

個人的にはこの撮り方、結構、普段の公演を観ているときの視界に近い。基本的には集中していると人形しか見えないとは言え、一応人形遣いも見ているし、時折床に目をやると太夫さんが人形以上に盛り上がっていたり。それで言うと、逆に自分が普段どこを見て観劇しているかわかる部分もあった。例えば、映像がいきなり太夫さんや三味線さんに切り替わるとはっとして、やっぱり自分は普段はずっと人形を見ているんだなと思ったり、メインで忠兵衛が芝居しているシーンでも、この映画では忠兵衛が映りっぱなしになっているけど、観劇時の自分は無意識にそれを受けて何らかの反応をしている梅川を見ているので一瞬違和感、など。本作には引きの映像がほとんどないので、ある人形の芝居を受けて相手の人形がリアクションする様子はほとんど写っていない。このリアクションで心情が読める部分もあると思うのだが。そこは実際の文楽公演の雰囲気とは違うかな。

また、本作は実際の劇場ステージでの撮影ではなく、撮影所のスタジオで舞台セットを組んで撮影されている。一見ほとんど上演そのままを撮っているようだが、そうではない。本作の映像は、常に舞台を端整に真正面から見たアングルから撮影されている。すなわち実際の客席からの見え方ではない。人形は常に真正面に向かって演技をするが、広いステージの上ですべての演技に対して真正面から見られる客はいない。この映画のアングルは、空想上の文楽鑑賞の理想アングルである。ただし客席から見るよりカメラ位置は高めで、身長高めの人形遣いのみぞおちくらいの高さに設定され、封印切のところなどは小判がこぼれ落ちる蓮台*1の上もよく見えるようになっている。

それと私がこの作品の特徴だと思っているのは、「空間」の捉え方が実際の文楽公演とは違うということ。実際の公演では屋外も居室も次の間も、すべての空間がシームレスにつながっており、人形はそこを自由に行き来する。エセ日本文化論な言い方になるが、これは、日本家屋の仕切りは曖昧であるという特徴を写し取ったような空間設計だ。しかし、この作品では、屋外・居室・その次の間でカットが切り替わり、絵のつながりも断絶されて、明快に別の空間として撮られており、もともとの舞台にあるシームレスさを意図的に排除しているように見える。実際には常に真正面から撮るというアングル設定とセットを組む都合上だとは思うが、強い印象を残す。それと、いまの本公演(文楽劇場国立劇場)とくらべると人形がみんなきゅっと寄っていて、ステージがかなり狭く見えるのだが、これは当時の文楽公演のステージの大きさによるものだろうか。人形側の照明が暗いこともあって、ちいさな小屋の中で人形が動いている魔術的な雰囲気がある。

そういえばこの映画、足拍子の音が入っていない。実際に文楽公演を見ていると、足拍子の音って大きなアクセントになっている気がするが。なんで入ってないんだろう。時代物じゃないからまあいいかということかしらん。

 

 

人形で印象的なのは忠兵衛(初代吉田玉男)。本作は、新口村以外は忠兵衛メインで撮影されている。淡路町の段で自宅周辺をうろついているときは結構瑞々しいというか、ヒヨっとした印象なのだが、羽織落とし〜封印切〜新口村は結構大人びた印象で、2月に観た公演での忠兵衛とは印象が違っていた。越後屋ではわりあいすっとしているけど自宅周辺で気まずそうにしているいたたまれない姿、石井輝男監督の『異常性愛記録 ハレンチ』の若杉英二を思い出した。

と書いたままでは玉男さんファンの方に刺されそうですので、ご説明いたします。『異常性愛記録 ハレンチ』はうら若いバーのママ・橘ますみにつきまとう粘着ストーカー・若杉英二がいかにド変態かということをしつこく描いた、まじで気が狂った異様な映画。若杉英二は橘の前では何を考えているかわからない、社会性という枠を逸した怪物として描かれているが(まず口調が「〇〇だよ〜ん」)、おもしろいのは橘以外の人(自分の妻、橘の母、伯母)が介入してくると途端に真顔になり、小心者の姑息な社会性のある人間に立ち返るという点。彼の正体は老舗染物会社の社長なのだ。ここだけが映画として異常にまともで、そこ以外全編狂っているこの映画のスパイスとして効いている。って、なぜか石井輝男褒め文章になってきたが、演出の区別の方向性は違えど、忠兵衛も自宅(しかも養子先)とそれ以外で雰囲気が少し違うのは面白い。

あとは2月公演の主役ふたり(忠兵衛=吉田玉男 当代、梅川=豊松清十郎)より主役ふたりが抱きつくのが速くて、やはり慣れてる人同士だと間合いを読むのが速いんだなと思った。とんとんとポーズをとっていくテンポが速く、メリハリがついていた。

 

 

本作は、本来なら上演時間3時間程度のところを抜粋編集で1時間半程度におさめられている。大きく切ってあるのは、淡路町の冒頭で忠兵衛が出てくるまで(番頭の接客と妙閑のお小言*2)、封印切の冒頭で禿が弾き語りをする前後。新口村は梅川のクドキの頭、捕物が来るところの途中など詞章を行単位でところどころ切ってある気が。リズム的にいま何か抜けたなとは思うけど、カットの切り替わり目なので普通に見る分にはそこまで気にならない。

ところで今回、会期中に2回観に行ったんですけど、2回とも越路さんが語っている封印切でド爆睡している人がおられて笑いました。本公演でも一番うまい人のとこで爆睡してる人おられますけど、やっぱり心地いい浄瑠璃が耳に入ってきて周囲が薄暗いと、人間、眠くなっちゃうんだなーと思いました。とは申せど私も人が切腹してても寝てることがしばしば(ソフト表現)あるので、人様のことは言えませぬ。

 

 

┃ マーティ・グロス監督トークセッション(2017.3.24)

この日は英字幕版を上映後、来日中のマーティ監督によるトークセッションが行われた。トークセッションはそのほとんどが会場との質疑応答形式で、以下にその内容をまとめる。監督は日本語超ペラペラなのでトークもほぼ日本語だったが、お話一部難しい部分があり、私がうまく意味を掬えていないところがあると思う。ご容赦ください。文中お名前すべて当時です。

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Q. 製作後32年間、日本国内での劇場上映がなされなかった理由は?

本作は海外上映を目的として製作し、日本国内上映は考慮していなかった。なぜかと言うと、当時(1979年)映画はフィルム製作の時代。35mmと16mmで、英語字幕版と日本語字幕版(英字幕がないもの)を両方製作するには予算がかかりすぎるため。日本人のかたが英字幕を見ても「うん?」となるでしょう?

 

Q. 文楽との出会い&製作のいきさつは?

陶芸の研究のため、1970年に来日した。窯元へ弟子入りし、陶工の見習い実習をした。そのとき、ヒッチハイクで日本中を巡った。常滑の窯元で修行していたので、そこから大阪、九州へ。大阪へ行ったとき、文楽を観なければ日本の伝統文化を勉強したとは言えないと思い、朝日座へ行った。朝日座というのはいまの文楽劇場の前身。最初はまったくわからなかった。1976年に記録映画『陶器を作る人たち』を作り、そのあとどうしようかと思っていたら、バーバラさん(?)に「文楽に取り組んでみては」と言われた。大阪に滞在し、朝日座に1ヶ月ほど通い、楽屋にも通い、そして製作のための寄付を集めた。大変だった。

出演者は自分で選んだ。当時は越路さんが一番えらかった。越路さんはすごいgentlemanで、???にも連れて行ってもらった(聞き取れず)。製作にあたっては越路さんに相談した。人形の配役は、簑助さんなら女の役とか、決まっているものがあるでしょう? そういうものに従って決めていった。

文楽は手品。何十回見てもわからない。何をどうしているという仕掛けはすべて知っているはずなのに、どうやっているのかわからないすごさがある。(はじめ手品という言葉にピンとこなかったのですが、前後の話から察するに、magicというニュアンスで言われているようでした)

 

Q. 文楽の映画というのは滅多にないが?

栗崎碧さんが2作撮っている。1作目は完成したが(『曽根崎心中』)、2作目は頓挫した。しかし、自分は栗崎さんの映画はあまり好きではない。理由は、セット撮りで、義太夫の意味がないから(床が写らないから)。文楽は人形の舞台の横に義太夫の床が見えている。それが大事でしょう?

 

Q. 撮影の方法は?

3日間で、初日の午前中に義太夫の録音、午後に床の映像の撮影。次に人形。カットごとに撮るのだが、いきなり途中からはじめても人形遣いはすぐにswitchできる(スタートがかかると即座にテンションをあげ、そのシーンの人形の演技を始められるというニュアンス)。玉男さん、簑助さん、勘十郎さん、すごいと思った。

床のみをずっと撮影した映像はあるのかというと、音はすべて撮っているが、映像はすべて撮っているわけではない。なぜなら、当時はフィルム撮影で、35mmは最長9分しか撮れなかった。そして、フィルムは大変高価だった。未編集フィルムは残っているが、completeではない(一段まるごと撮ってあるわけではない)。いまはNHKがすべて撮っていると思う。

 

Q. なぜ『冥途の飛脚』なのか?

自殺する話は嫌だった。自殺ものというのは、最後にばたっと倒れるというような……(心中ものを指しているようだった)。海外では日本ものと言ったら、自殺ものを連想するだろうけど。文楽を題材にした映画を海外ではじめて公開するにあたって、親子ものにしたらみんなによくわかると思った。『冥途の飛脚』には親子の愛が描かれているでしょう?(新口村の段のこと)

 

Q. 武満徹氏が音楽監修にクレジットされているが、曲を提供しているわけではないのは?

武満さんは環境音を撮った作品を通して知り合った(このあたりよく聞き取れませんでしたが、職人たちのたてる音を題材にした映像をマーティ監督が製作していた→それを武満さんが観て知り合いになったということっぽかったです)。武満さんは現代音楽の大家。武満さんは天才で、邦楽にもとても詳しかった。越路さんについての文章も書いていた。この映画を製作するにあたり、出資者を募るため有名な人を起用せねばならず、友達だった武満さんに頼んだ。武満さんはカナダまで来て、編集作業に立ち会ってくれた。

 

Q. 本作は『冥途の飛脚』すべて(上演時間3時間程度)ではなく、抜粋となっているが(87分)、収録する場面はどのようにして選んだのか?

まず先にカナダで台本を作った。台本は、床本と現代日本語訳を左右に併記したもの。それを見て撮る場面を選んだ。また、最初、JVCに提供してもらったビデオカメラで映像を撮っておいて(実際の公演かリハーサルかは意味が取れなかった)、その中から収録する場面を「ここからここを撮りましょう」と検討した。当時、videoはとても高価だったため、太秦の撮影所(大映京都撮影所)にはvideoが入ったことがなくて、ビデオを初めて見たスタッフの方々が驚いて集まってきた。videoはこういう使い方にはとても便利。

 

Q. 文楽を撮るときに大事にしたことは?

記録映画ではなく、storyにしなくてはならないと思った。文楽義太夫)はstorytellingで、storyが大事だから。angleはいつもの舞台のangle(真正面)。技術的には斜めからの映像も撮れるけど、それでは文楽の舞台らしさが失われてしまうので、まっすぐ見たときだけの映像にした。画面下部にマスクをして、映像の中ではなく黒帯部分に字幕をつけた*3(理由として、文楽を撮るにあたり映像にかぶってしまってはいけないから、という意味のことをおっしゃっていたが、うまく意味掬えず。すみません)。

 

Q. 字幕翻訳者について

英字幕作成者は黒澤さん、溝口さんの作品の英字幕も担当した方(外国の方にのみ渡された英語版解説リーフにその方の説明が載っていたらしいが、私は日本語リーフを受け取っていたのでお名前確認できず)。戦前から活動されていた方で(?)、当時日本映画の英字幕といったらその人だった。全訳せず、字幕で追いきれる分量に要約して短くしてくれた。この英訳にあたり、カナダで日本人留学生らの協力を得て、床本の文章をローマ字に直してtypeして毎日翻訳者に送っていた。最後にドナルド・キーン先生に確認してもらったが、間違っていたのは1箇所だけだった。(司会の配給会社の人よりコメント:英字幕には監督も参加しているとのこと)

 

Q. 歌舞伎や能・狂言には最近、新しい風が吹いていると感じる。文楽にはそのようなものはあるのか?(日本在住の英語圏出身者の方からの鋭すぎる質問)

文楽は人数が大変少ないので、他の伝統芸能のように毎日稽古して他のstageを勤められるという環境ではない。文楽は能のように大きい世界(業界)ではないので。60〜70人程度しかいないのではないか。しかし素浄瑠璃公演にも取り組んでいるし、小さいstageにもたまに出演しており、新作も時々はやっている。(客席内の「先生」と呼ばれている方から、シェークスピアなどにも取り組んでいますとの説明)

※ここは話に割って入りたくなった文楽ファンのお客さん、いらっしゃるのではないだろうか。あとで説明に入った方も最近は文楽がどうなっているかよくわからないとおっしゃっていたので……。技芸員さんはいまはゆっくり増えて、80人くらいいらっしゃるはずというのと、歌舞伎や能より興行規模は小さいが、最近は本公演以外の小さい公演もよくあり、新作についても出来る範囲で取り組んでいるという話をどなたかしてあげて欲しかった。

 

Q. 人形が出遣いで、人形遣いの表情をクローズアップで撮っている理由は?

人形と人間の関係を見せなくてはならないと思ったから。(それが文楽でしょう?というニュアンス)

 

 

 ■

監督は、文楽はstoryが大切であるということを繰り返しておられた。このstoryは、日本語でいう「ストーリー」ではなく、「義太夫節として語られること」という意味、あるいは英語ニュアンスでおっしゃっているように思った。私が監督のお話でとても共感したのは、「文楽は何十回観ても“わからない”、仕掛けはすべて知っているのに、どうなっているのかわからない」という点。文楽はシンプルな要素で構成されている。人間の声、簡易な構造の楽器、同じく簡易な構造の人形、どれもタネはものすごく簡単で、なーんだと思うのだが、そこに芸が加わると、まったく違った世界が出現する。

英語圏のお客様で、“義太夫”の意味がわからない、英語でいうと何?という質問をされた方がいらっしゃって、監督は“chant”だと答えておられたのも印象的だった。周囲に文楽を観るというと、“義太夫”って何ですかということをよく聞かれる。しかし私はいつもこれにうまく答えられない。要するに自分でも“義太夫”が何かをわかっていない。ストーリー(浄瑠璃)に節回しをつけて語る音曲で……と、余計わからなくなるようなことを答えてしまっている。日本語だとどう答えたらいいんだろう? 

最後の質問に関して。質問者の方は「あらゆる人形劇は人形を人間の動きに近づけようとするが、文楽はつねに横に顔出しの人形遣いがいて、人形は人形であることを主張してくる」とおっしゃっていたが、そう感じる人もいるんだーと思った。実は私は文楽に対して真逆の印象を持っていて、初めて文楽を見たとき「人形遣いって、顔出しで真横に立っていてもほとんど存在感ないんだな」と感じた。そして、「文楽の人形の動きって、人間のそれをトレースしているわけじゃないんだな」と。このように、トークセッションは監督と会場が対話する形式だったため、会場に来ているいろいろなお客さんの感想を聞けたのは面白かった。ただ、反応から推察するに、実際にはお客さんの半数以上は文楽ファンだろう。あとは、伝統芸能に興味がある系のかた、記録映像に興味があって来たらしい監督目的の方のようだった。

しかしこれ、せっかくトークイベントをやるなら技芸員さんをゲストに迎えて欲しかったな。メインキャストは亡くなっている方が多く、ご健在の方も本公演や特別なイベント以外にはお出ましにならない方ばかりなので難しいかもしれないが、人形の左や足で出演されていた方は現在のベテランの方のはず。東京での上映だから難しいだろうなとは思うけど、出演者側からのお話も伺いたかった。

 

 

おまけ

トークセッション終了後、ロビーで監督との自由歓談の時間があったので、前々から気になっていた床側と人形(手摺)側の照明の違いについて質問した。

 

Q. 照明について、床側(特に淡路町・源太夫さんの部分)が明るく、人形側が妙に暗いのは何故?

いま見ると、床側は照明当てすぎたなーと思う。人形と別の日に撮ったからねー。色味も場面によって違っちゃってるでしょ。いま撮るならあんなふうにはしないw まあ当時30歳の監督が撮ったものだからw 人形側の照明は、店の中、外(夜)など、場面によって変えている。

 

とのことでした。なるほどw 監督、ご回答ありがとうございました。たくさん人がいたので少ししかお話できなかったけど、足拍子のことも聞けばよかったな。

 

 

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Blu-ray版ソフト

 

  

*1:っていうの? 手すりぎりぎりの高さに設置されている、小道具などを置く黒い台

*2:これをカットしたせいで妙閑役の文雀さんの出番がメッチャ少なくてやばい

*3:本作はレターボックス状態での上映になっており、映像内ではなく、レターボックス下部の黒み部分に字幕が出るようになっている