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TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

麻雀漫画と昭和の日本映画と文楽(人形浄瑠璃)について書くブログ

映画の文楽 1 『曽根崎心中』栗崎碧監督(1981)

人形浄瑠璃 文楽 昭和の銀幕

大映の女優・栗崎碧(南左斗子)の監督・製作による自主制作映画。普通に考えて、俳優企画の自主制作となれば人間の俳優主演という方向にいくと思うのだが、本作は文楽人形の演技を普通の人間の俳優と同じ撮り方・演出で見せるという驚天動地の映画だった。

  • 曽根崎心中
  • 監督・製作=栗崎碧
  • 撮影=宮川一夫
  • 美術=内藤昭
  • 人形=徳兵衛:吉田玉男(初代)、お初:吉田簑助九平次:吉田玉幸、下女お玉:桐竹一暢、遊女:桐竹勘寿・吉田簑太郎(現・桐竹勘十郎)、吉田玉女(現・吉田玉男)、吉田玉也、吉田玉輝、桐竹亀次、吉田簑二郎、桐竹勘緑、吉田玉志、吉田幸
  • 太夫=竹本織大夫、豊竹呂大夫(五世)
  • 三味線=鶴澤清治、鶴澤清友、鶴澤清介、鶴澤八介
  • 栗崎事務所/1981

 

冒頭、通常の文楽公演のように下手*1の小幕*2がさっと開いて手代忠兵衛と醤油樽を下げた丁稚が入場してくると、カメラが大きく引いていき、そこが劇場のステージではなく生玉神社(生國魂神社)の境内だとわかる。カメラはかなりの引きになって、画面下部は木陰の落ちた地面、そのグランドライン上を人形が歩きまわり、背後には木々ざわめく生玉神社境内の風景と空が広がるという、文楽公演の舞台をそのまま実景に写し取ったような景色を映し出す。人形遣いはすべて黒衣で背景に溶け込んでいる。映像とはまったく別次元でバックに大夫の語る浄瑠璃、三味線の音が流れているが、その姿は映らない。

 

 

人形があたかも本当に地面を、神社の境内を歩いているかのような美術の作りがうまく、実景になじむよう作られた鳥居・灯篭などを入れ込んだ構図もビシッと決まっていて、「文楽を屋外で上演しているように撮ってるのか〜さすが大映出身スタッフで作ってるだけあって映像レベル高いわ〜」と思っていたら、すごいのはここから先。

本作に関してはじめに聞いていた話は「文楽人形を外に出して舞台になった実際の場所で撮ってる」ということで、観る前はてっきり背景書割が屋外実写というだけで、ほかは通常の文楽公演と同じように家屋セットは真横アングルの書割で、人形はノンストップで演技をしているのを記録映像のように撮っているのかと思ったら、人間の俳優・女優を撮るのと同じようにカットを割り、寄り引きを作り、ときには右から左へ、あるいは奥から手前への移動撮影をおこなって撮っていて仰天。人形を俳優に置き換えるのではなく、俳優を人形に置き換えて通常の実写映画と同じ手法で撮っている。なんでこれを撮ろうと思ったのか、それ自体がすごいわ。製作のいきさつは存じ上げないが、とにかくすさまじい執念を感じる。

というのも、おそらく監督は文楽が好きでこの映画を企画したんだと思うけど、文楽が好きな人は普通は絶対これはやらないと思うから。特に寄りの撮影。人形の顔には基本表情がないため、全身で感情表現の演技をするので、人形バストアップ撮影というのは、アップでよく鑑賞できるように見えて、芸の鑑賞としてはその逆、ものすごく見づらい*3。もっと言うと、一般のかたには理解いただけないかもしれないが、人形遣いが出遣い*4でないこと自体に文楽ファンは不満があると思う。なんで折角の玉男様簑助様が黒衣やねん!?!?!?みたいな。文楽をご覧になったことのない方は、出遣いで「結婚式の新婦の父?」みたいな紋付姿のすんごい普通の真顔のおっちゃんが人形の背後に立ってるのに違和感あるとは思うんですけど、文楽見慣れてくると黒衣のほうが逆に違和感あるんですよ!!! しかしこの作品ではそれがうまくいっていて、異様な映像空間を作り出している。

 

 

寄りで撮っているもんだから、黒衣姿の人形遣いが完全に見切れて見えなくなっており、まるで人形が生命を得て勝手に動いているようでおそろしい。異様にレベルの高いパペットアニメーションを見ているような感覚。ユーリ・ノルシュテインヤン・シュヴァンクマイエルの映像を初めて見たときのような……作り手のドン引きするほどのすさまじいド執念によって本来魂がないはずのもの=紙に描いた絵や人形に生命が宿ってしまった、本来この世にあってはならないヤバイもん見ちゃった感がある。

特に怖いのがお初(吉田簑助)の寄り。前述の通り、文楽人形には基本的に表情はない。お初の人形の場合は目を閉じる仕掛けがついている程度。よって、首のかしげ方やうつむき加減、肩の表情で感情を表現しているんだけど、よくもまあこんなバストアップで表情が出てるなーと思う。人形がここまでの寄りに耐えられる演技をしていることに驚いた。目を閉じる仕草、首のかしげ方、震える面差し、徳兵衛にそえる手の表情、なにをとっても動きがきわめて繊細で驚く。実際の公演ではたとえ最前列に座っても観客はここまで近づいて見ることはできないし、記録映像でもここまで寄りでは撮らない。こんな微細な表現をしていても、それは人形遣い本人しかわからないだろう。しかも本人は人形を覗き込めるわけではないので、この演技を見ることのできる人は誰もいない。誰にも見えないのにやっているというのがすごいのだが、これはそれをとらえている映像。

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↑ 渡邉肇『簑助伝』より、吉田簑助氏とお初の人形(2010年撮影)

 

しかしこれは人形遣いのうまさのほかに撮り方にも要因があって、バストアップになるときは若干高めのアングルから撮っているため肩〜胴体にかけてのひねりの表情も写っており、人形の感情表現がよくわかるようになっている。単に真横バストアップで撮っているわけではなく、人形を撮る工夫がなされている。さすが名匠、宮川一夫と思わされた。

このように人形の技術、撮影の技術ともにきわめて高いためか、芝居をしているのはたしかに人形のはずなのに、これはいわゆる「人形振り」の演出で、俳優に対し人形遣い役の黒衣がついているかのように見える不思議な映像に仕上がっている。通常の公演でも、人形がひとりでに動いていて、うしろについている人形遣いの3人が人形に引きずられているように見えることがあるが、その感覚を映像で再現している感じ。

 

 

徳兵衛(初代吉田玉男)とお初は、ともに透明感のある可憐で儚い印象。すっとしたしなやかな美男美女で、息をしてゆっくり上下する肩や胸元にふっくらとした色気が漂い、人形ならではの濁りの一切ない、限りない透明度を感じる。そしてふたりとも人形のはずなのに大俳優、大女優の風格。日本映画黄金期の大俳優・大女優起用の巨匠映画を観ている気分になる。って、演じている人形遣いは俳優・女優ならそれぞれの最高ランクにあたる人なので当たり前だが。

以前、にっぽん文楽の休憩時間のサービスで八重垣姫の人形が一緒に写真を撮ってくれるというのがあったのだが*5、そのとき写真を撮ってもらったお客さんがスマホに保存した人形との写真を見て、「大女優に一緒に写真撮ってもらったみたい!」と大喜びされていた。その言葉と同じことを、この映画を観て感じた。ものすごくうまい人形遣い(頭の悪い言い方ですいません)は通常の公演でも出てきた瞬間に舞台の雰囲気、そして客席の雰囲気までもさっと変えるようなオーラを放っていて、それは人間でいうと大俳優、大女優の持つそれなんだろうなと。

 

 

■ 

物語構成は近松原作とも文楽現行曲*6とも異なるオリジナルで、生玉社前→観音巡り(浄瑠璃なし)→天満屋→天神森という流れになっている。また、実際の公演ではすべて同じセットのまま進行するシーンでも場所を細かく変えていたり、通常の上演では不可能な回想シーンや風景イメージシーンがちょこちょこ挟まれてきて面白い。

たとえば冒頭部分。普通の文楽公演(生玉社前の段)では「別客に連れられて社前の茶屋に来ていたお初が自分を呼んでいる徳兵衛の姿に気づき、茶屋から出て来て話しかけ、外でしばらく話をしていたら、九平次が通りかかる」という流れになっているところ、本作では「別客に連れられて社前の茶屋に来ていたお初が自分を呼んでいる徳兵衛の姿に気づき、茶屋から出て来て話しかけ、茶屋の屋内に二人で入ってしばらく話をしていたら、外を九平次が通りかかって、徳兵衛が話しかけに行く」という空間を感じる流れに変更されている。徳兵衛が九平次に金を貸したと語る場面は回想シーンとして入っており、通常の上演では観られないオリジナル演技が入っている。

天満屋の段の冒頭では花街を客や幇間、女郎、下女のツメ人形*7が賑わしく歩き回るシーンが入り、当時の色里の様子をありありと伝える。天満屋内も通常の文楽公演のセットにある店の上り口の部屋のほか、女郎が化粧をなおしている部屋(店先の格子の中?)、店の二階など数カ所のセットが組まれていて豪華。天満屋屋内は深いつやのある木のしつらえが印象的。

天満屋では、上がり口に腰掛けたお初の、その打掛の中に隠れた徳兵衛が心中の意思を彼女に伝えるため、お初の足を手にとって喉に当てるという有名なシーンがある。ここはみんなが期待するシーンのためか、結構文楽公演の見え方に近い、真横アングルの様式美的な撮り方を基調としていた。『仮名手本忠臣蔵』を映画化した『大忠臣蔵』(松竹/1957)*8という映画があるのだが、この作品、途中までは脚本が『仮名手本忠臣蔵』なだけで普通に実写映画の映像文法で進んでいくものの、一力茶屋の場面にくるといきなり演出が歌舞伎になり、同じくカメラが真横アングルFIXになるのだが、妙な引き絵になりすぎていて、他のシーンとのつながりにおおいに違和感があった。が、本作では天満屋のこの真横アングルの場面に違和感はなく、寄り引きのカットを織り交ぜて一連の流れの中に溶け込んでおり、うまいなと感じた。このシーン、よく見ていると、お初のバストアップのカットでも徳兵衛がちゃんと打掛の中にいる。映画ならお初役の女優さん単独で撮影すると思うが、あの人ら的にはたとえカメラの画角に入っていなくてもいつもと同じようにやるということなのか、こだわりを感じる。

最後に心中する場所、天神森はふたたび屋外ロケ。霧が立ち込め、草木生い茂る暗い池のほとりをとぼとぼと歩く二人を斜俯瞰から引きでとらえたカットでは、背景が暗いこともあって人形遣いの姿が完全に闇に溶けて消えており、人形が本当にひとりでに動いているように見える。人形だけを自然に目立たせる照明がうまい。

 

ちなみにこの映画独特の演出での私のお気に入り所は、天満屋の夜の場面。吊行灯の下で寝ている下女(桐竹一暢)を二階にいるお初の目線の俯瞰アングルで撮っているシーン。お玉がふとんからはみ出すようなものすごいガサツな寝方をしていてかわいい。通常の文楽公演ではお玉は客席側に小さい屏風を立てて寝るため、客席からお玉の寝姿は見えないのだが、こういう気持ちで遣ってらっしゃるのだな。

あとは人形にあわせた移動撮影が斬新すぎてびびる。移動撮影って映画ではごく普通の手法だが、公演を普通に見る分には絶対ない見え方だし記録映像でも絶対ありえない、またパペットアニメーションでもほぼ不可能の技法なので、人形でそれをやるとこう見えるんだというヴィジュアルショック……。

また、前述の通り本作は普通の実写映画のような撮り方になっているので、人形の振りは必ずしも通常公演と同じわけではなく、映画的空間でカメラに向かって演じるためのオリジナル演技がつけてある。人形遣いさんたちもよくやってくれたなあと思う。カメラに目線を向けて演技をするのもすごいけど、カメラに左遣いが映らないようにしていると見受けられるカットも多いので、カットを割ること前提で演技プランを工夫しているんじゃないかしら。

シーンにあわせた光を作る照明の焚き方も特異。文楽は通常は常灯のまま上演するので、だいぶ雰囲気が変わって見えた。とくに天満屋の内部はロウソクの明かりを模したオレンジ色の薄暗い照明で、人間主演の時代劇よりも凝っているくらいだった。

 

 

本作は、存在は聞いていたが観る方法がなかったものの、機会を得て鑑賞することができた。機会を与えてくださった方々に深く感謝申し上げます。

一度はスクリーンで観たい映画だが、昨年のラピュタ阿佐ヶ谷の芸事映画特集ではこれはかからなかった*9。上映用フィルムが存在しているのであれば、シネマヴェーラ渋谷の「妄執・異形の人々」特集あたりでやってほしい。間違いなくあのカテゴリの映画。

 

 

*1:向かって左側のこと

*2:舞台左右の人形の出入り口にかけられた、のれん状の小さな幕のこと

*3:文楽の記録映像は基本引き目。寄っても人形はひざ以上は写っている+人形遣いも同時に写す撮り方

*4:1体の人形に対し3人ついている人形遣いのうち主遣い(人形のかしらと右手をあやつる人。この人のみ配役表に名前が載る)が顔出し&紋付袴姿で出演すること。文楽公演は基本的には出遣い

*5:八重垣姫は上杉謙信の娘=大名の娘で品格の高い役なんですけど、このとき姫を遣っていたのは実際の公演で八重垣姫をやるような格の方ではなく若手の方だったせいか、姫が若干キャピっていて、「町に遊びに出た姫と入れ替わって姫の姿に化けた町娘」みたいになっていて可愛かったです。

*6:昭和30年の復活公演以降のアレンジ版

*7:モブキャラ。小ぶりな一人遣いの人形

*8:http://www.kusuya.net/大忠臣蔵

*9:文楽からはマーティ・グロス監督『文楽 冥途の飛脚』が上映された