TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

渡哲也かわいいムービー7選<日活時代篇>

渡哲也は『西部警察』『仁義の墓場』だけじゃない。日活時代の渡哲也のかわいさを知って欲しい……。そういう思いでございます。

┃ 1. 東京流れ者


ヴィヴィッドな色彩にあふれた歌謡映画。おそらく渡哲也の映画出演作ではこれが一番有名だと思う。もちろん渡哲也要因ではない。なんせ監督が鈴木清順だから……。
当時渡哲也は24歳、デビュー2年目。………………デビュー2年目!?!?と思うほど演技がやばい。観ているこっちが不安になってくるあどけなさ。しかしそれが良いのである。
主人公・不死鳥の哲は凄腕の拳銃使い*1であるが、稼業を畳んだ元ヤクザの親分にいまも義理立てして、そのもとを離れることなく彼を補佐している。資金繰りの苦しい親分のため、自らを担保にして借金の返済の期限を伸ばしてもらおうとするほどだ。このキャラクターを、拙くぎこちない演技で一生懸命やっているいじらしさが良いのである。まるで、役と現実がシンクロしているようで……。
「不死鳥の哲」はひたすら生きづらい人間だ。親分を守るため、彼は東京にいられなくなり、旅に出て庄内の類縁組織へ身を寄せることになる。ところが、実はそこでも地元のやくざの勢力争いが起こっており、その諍いの助っ人にならざるを得なくなる。わらじを脱いだ先でも気まずい思いをさせられた上に、気味の悪い拳銃使い・まむしの辰(川地民夫)につきまとわれ、この後佐世保へ流れたあともひたすら貧乏くじを引きまくり、最終的には……となるが、この不幸引き寄せ感と大人しいモジモジ感は渡哲也にしか表現できない世界だ。鈴木清順監督はそんなかれを「長い身体の上に小さな甘い顔がのっている。脚をうごかせば手が邪魔になり、手をうごかせば脚が邪魔になる……」と表現したが、まさにその通り、歩くことすらまともに出来ない、ギグシャグとした仕草が演技下手という枠を越えて、ひとつの雰囲気を作っていた。
「流れ者に女はいらない」という台詞が、ほかのどのスターともかれは違っていたことを象徴している。
渡哲也24歳。映画スター、のはずなのに、何故か生きづらそうな、不思議な子だった。


┃2. 嵐を呼ぶ男


場末のドラマーが美人マネージャーに見いだされて人気バンドのドラマーに抜擢され、スターへの道を駆け上がってゆく音楽もの。
嵐を呼ぶ男』というと石原裕次郎主演版が広く知られているが、渡哲也主演版もある。両者で何が違うかというと、主人公のキャラクター設定が違う。石原裕次郎が演じる主人公はふてぶてしく自信家であることに対し、渡哲也の演じる主人公は繊細で精神的に華奢な雰囲気のあるキャラクター。その対比が特に顕著なのが有名な「ドラム合戦」のシーン。ライバルの罠によって手に怪我を負ってしまった主人公は、ライバルとのドラム合戦の最中、肝心のところでスティックを取り落としてしまう。観衆が「あっ」と思ったその瞬間、主人公は突然「♪おいらはドラマ〜 ゆかいなドラマ〜」と歌い出し、窮地を乗り切る以上に会場を大盛り上がりさせ、大絶賛を受ける。本作のハイライトであるこのシーン、石原裕次郎は自信満々に歌い出すのだが、渡哲也は微妙に恥じらいと迷いを見せながらおずおずと歌いはじめる。まさに「ドラム合戦って言ってるのに歌い出すとか、正直ありえないよね……」って感じで。
これぞ渡哲也。
自分自身にすら微妙に疑いを持っているのが良い。
そして、本作は渡哲也の外見上の魅力が存分に出ているという点でも傑作だと言っておきたい。いまでも覚えている、平日の19:15の回、席数99に対して12人しか客が入っていないガラッガラの神保町シアターで目玉が落っこちるんじゃないかというほどの渡哲也のかわいさに驚愕した。渡哲也は目の色が淡くて目に光が入るとガラス玉のように透き通って見えるのだが、本作ではそれを活かして、かれの目が透明な茶色にキラキラ輝くように撮られている。海のものとも山のものとも知れなかった主人公がジャズ界で輝きを放ちはじめるのとシンクロするように、かれの目が輝いていく。そりゃもう、ストリップ小屋なのにステージじゃなくてなぜか渡哲也にスポットライトが当たるのも当然というものである(本当)。弟の渡瀬恒彦もよく見ると目が茶色くて可愛いのだが、東映は目に透明感を出す撮り方とかそんなことはしなかった。日活はいまでいうところのアイドル映画センスを持った会社だったのだ。
ちょっと不自然なはにかみ笑いも、若干生意気そうな感じも、自分に自信があるんだかないんだかわからない雰囲気も、悪い子ぶってるけど本当は良い子な感じも、すべて良い。それがぜんぶ嘘っぽくないのがすごい。かれの輝きでこの世までもがキラキラして見える奇跡の1本。


┃3. 紅の流れ星


渡哲也出演作の中で最もスタイリッシュな映画。いやむしろ日活アクションの中でもスタイリッシュさにおいて『拳銃は俺のパスポート』とともに、その頂点ではないだろうか。
敵対組織のボスを殺害し、東京から神戸へと逃れてきた殺し屋・杉浦五郎(渡哲也)は、いつか東京へ呼び戻される日を夢見て、ハットのリボンに首都高の回数券を挟んでいる。類縁組織の客分扱いでやることのない彼は、いつも埠頭の防波堤に置かれた安楽椅子で昼寝をしていて、じゃれついてくる情婦(松尾嘉代)やきゃっきゃする弟分(杉良太郎)、自分を追いかけている刑事(藤竜也)をていよくあしらいながら日々をぼんやり過ごしている。……こう書くとなんかマンガっぽい話だな。日活はやはり新しかった。そんなある日、東京から行方不明の婚約者を探しにきたという女(浅丘ルリ子)が訪ねてくる……。
この五郎のず〜っと上の空で退屈そうな表情、ものごとにあまり深い関心を持っていなくて、別のことを考えている感じが渡哲也本人の雰囲気に合っていて良い。日活時代の石原裕次郎には「おれは本当はこんなことをしている男じゃない」という雰囲気があって、それが『太陽への脱出』でマキシマムプラスに作用したのと同じように、渡哲也の「おれ本当は俳優とかやれるような性格じゃないんで……(はやく帰りたい……)」という引っ込み思案感、帰宅部感が良い方向に作用しているのである。
さて、女優に豪華な衣装を色々と着替えさせる映画は星の数ほど存在するが、男優のお着替え映画もまた同じように存在する。例えば東映が誇るモデル系男優・菅原文太で言えば『山口組外伝 九州進攻作戦』のように。本作は日活・渡哲也版お着替え映画である。渡哲也はハットを被ったジャケット姿を基本として、シーンごとにお着替えする。私が一番好きなのは遺体安置所の前の階段に寝転がっているときの真っ黒なスーツ+ハット姿。イケメン仕草ができないせいか、高身長やスタイルのよさを活かした役があまりない渡哲也であるが、本作ではその恵まれたスタイルを活かしてもらっている。
なお本作、その手の本にはよく「台詞が粋」等書いてあるが、ぶっちゃけて言うと、その粋な台詞、個人的にはサムいと思う。でも、渡哲也が囁くような声……というか口の中てボソボソいうように喋っているのがかわいすぎるので、すべて許す。


┃4. 「無頼」より 大幹部


常時困った顔で、なにかの苦痛に耐えているような表情。やがて彼は望まぬ諍いに巻き込まれ、満身創痍で戦い、傷ついて、ぼろぼろになった身体をひきずって……。
渡哲也は、太陽のようにみずから輝いているというより、何かを反射して輝くタイプなんじゃないだろうか。月のように青白く輝いたときにもっとも映えるタイプの俳優だと思う。そんななかで、この作品がいちばん、役のキャラクターと渡哲也自身のキャラクターが合っているんじゃないか。
詳しい内容は、先日書いたこちらの記事でどうぞ。
http://d.hatena.ne.jp/yomota258/20151107


┃5. わが命の唄 艶歌


数年前、輪島祐介という若手のポピュラー音楽研究者が書いた『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』という新書が話題になった。「演歌」と言うとまるで伝統芸能の一種のように思われているが、いまの「演歌」は実は60年代後半に成立したものであり、そんな「演歌」がどうして現在“日本の心”と言われるようになったかを解き明かすという興味深い一冊だった。この『わが命の唄 艶歌』は、まさに「演歌」が「日本の心」となった時代に製作された映画で、つまりリアルタイムで「なぜ演歌が日本の心なのか/日本の心になったのか」を描いている。タイトルはすさまじく泥臭いが、内容は当時の音楽業界のプロデューサー・ディレクターたちの葛藤を描くクリエイティブ業界ものなのである。
渡哲也演じる主人公・津上は引き抜きによって化粧品会社のコピーライターから広告代理店のCM音楽のディレクターへ転身し、さらにはレコード会社へ転職しポピュラーミュージックを担当することになった新進気鋭の音楽ディレクター。だが本作において実は主人公は部外者、あるいは狂言回し的な役回りである。
ストーリーの根幹となるのが、彼のキャリアアップを導いた化粧品会社時代の宣伝部部長でいまは津上の勤めるレコード会社のプロデューサーである黒沢(佐藤慶)という男。人情味のかけらもなく、こと仕事に対してはきわめて冷徹・冷酷な黒沢だが、津上に対してだけは人間味のある態度を取る(取っているように見える)不可解さを持っている。黒沢を演じる佐藤慶の余裕のある雰囲気は、渡哲也の生硬さに大変マッチしている。そしてもうひとり、黒沢と対立する「演歌の竜」と呼ばれるプロデューサー・高円寺(芦田伸介)。こちらも大変に適役であり、芦田伸介の演技力で保っている役と言っても過言ではない。また、映画内映画の形式を取って語られるかれの半生を描くドキュメンタリーの出来には特筆すべきものがある。渡哲也はこの二人に惹かれ、振り回される役回り。名優二人に囲まれて割りを食っているけど、この受け身感、嫌いじゃない。また、ヤクザ映画では敵役に回ることの多い青木義朗が同僚役で出演しているのも嬉しい。
なお、数少ない(?)渡哲也見どころは、ある理由から不貞腐れて出社拒否していたのを佐藤慶が迎えに来てくれるシーンの彼シャツ状態の衣装(裸にワイシャツ一枚羽織って正座)です。


┃6. 昭和やくざ系図 長崎の顔

  • 監督=野村孝/日活/1969
  • DVD未発売、VHSあり


日活製の歌謡任侠映画である。
大正に端を発する長崎の老舗やくざ・高間組の跡取り、高間慶二(渡哲也)が4年ぶりに長崎へ帰ってきた。彼は4年前、長崎大学の学生だった頃、対抗組織のチンピラに絡まれたのを反撃して相手を殺してしまっていた。そのために服役し、しばらく長崎を離れていたのだが、その間に長崎は高間組と同じく興行をなりわいにするヤクザ・松井(青木義朗)の組に侵食されていた。慶二は再び家業を盛り立てるべく、興行の企画を立てるが……。
本作に関しては、まず、長崎ロケがたいへんに美しい。大浦天主堂平和公園などの有名観光スポットや石畳の路地、山がすぐ背後に迫った急斜面上に広がる市街が印象的な湾内の風景など、観光映画としても楽しめる仕上がりになっている。長崎市の協力なくしては不可能なロケだと思うが、昔のこととはいえ、よくヤクザ映画で場所を貸してくれたなと思う。テーマソングの「長崎は今日も雨だった」も作品の雰囲気に合っていて、歌謡映画としても素晴らしい。
さて渡哲也がどう良いかという話だが……、日活の青春映画には突っ走る若い主人公を影から見守ってくれる大人役がよく出てくる。アドバイスをくれるとか、人生の手本になることをするとかではなく、せめて若いうちだけでも世の中の理不尽から守ってあげたい……、そういう気持ちを持った大人がいる。本作でいうとそれは旅のやくざ者役の安藤昇*2である。安藤昇は言うまでもなく本物である。対して渡哲也は、ヤクザ映画によく出てはいるものの、誰がどう見てもヤクザに見えない。しかも、本作では特に「真面目なお坊ちゃん」ぽく撮られている。終盤に、フェリーの待合室で渡哲也と安藤昇の二人が相対するシーンがある。このとき二人のバストアップが交互に写るのだが、健気に目をウルウルキラキラさせている渡哲也に対し、無表情で完全に死んだ目の安藤昇……、この対比の鮮やかさ。ああ安藤先生って演技うまいとか下手とか以前に、本当にこの世ならぬ死の空気を湛えているなという印象で、かつ、安藤先生、別に台詞としては発しないが「こいつは俺が守ってやらなきゃなあ……」と心の中で思っていそうな感じが出ている。いや、実際、安藤昇は渡哲也を守るためにある決断をするのだが……。と、おっとこれでは安藤昇の役得的良いところの話になってしまう。このような安藤昇に対して、お坊ちゃん風の風貌で辛い境遇をひとり一生懸命頑張っている、健気な渡哲也が良いのである。ほら、よくあるでしょ、観光名所舞台で美少女アイドルが主演の青春映画が……。ああいうノリなんですよ……。私はいままでさんざん美少女が本来は荒くれ男がやるような立場を引き受けて細腕で頑張ったり、可憐な顔に似合わない銃をぶっぱなすor日本刀を振り回す娯楽を観ても「はいごくろうさん」と小馬鹿にしてきたのだが、日活時代の渡哲也を観るようになってからはすっかり心を入れ替えました。健気で可憐な若者はすばらしい。この世の宝です。


┃7. 新宿アウトロー ぶっ飛ばせ


原田芳雄との共演作である。渡哲也と原田芳雄って、図体のでかさ以外、なにひとつ釣り合いの取れていない謎すぎるコンビである。特にツラのバランス取れてなさすぎである。少女漫画と青年漫画のキャラクターが同じコマ内で同居しているような違和感。しかも少女漫画風の風貌の渡哲也が「死神<シニガミ>と渾名される凶暴な殺し屋」、青年漫画風の顔立ちの原田芳雄が「家に嫌気が差して飛び出したお坊ちゃま」というのが「逆、逆!!!」としか言えなくて最高だ。しかしそれがいい。
冒頭、刑務所から出てくる西神<ニシガミ>勇次(渡哲也)が手ブラというのがもう最高である。これ、初めて見たときは「ふつう風呂敷包みのひとつも持ってるだろ……下手すぎ……さすが日活末期……」と小馬鹿にしていたのだが、実は刑務所の前で松方直(原田芳雄)が出待ちしており、速攻一緒に住もうと言ってくるので、全く間違ってなかった。そして見事渡哲也は原田芳雄のヒモにおさまるのである。ヒモで家にいろと言われているのでド暇で、日がな一日半裸でゴロゴロしたり、窓の外に向かってガオーッとしたりしながら……。あれは「あれだけ可愛けりゃ手ブラでも生きていける」というこの世の真理を表現したシーンだったのだ。
とふざけるのはともかく、渡哲也は単に銃の扱いがうまいだけで、みんなに“死神” “死神”言われるのは本当は不本意なのに、しかたないとずるずるとそれを受け入れてきた……のに、原田芳雄が「おまえは死神<シニガミ>なんかじゃないっ!!! 西神<ニシガミ>だっ!!!!!」と言ってくれたことで呪縛から解放されるとか、もう、最高じゃないですか? 神じゃないですか? 渡哲也が日活でさんざん出演してきた「いやな目にあっているのにそれが言えなくてひたすら無言で我慢してしまう系の役」のすべてから解放されたようで……。
この頃にはあれほど拙かった演技もだいぶ板について、外見も大人っぽくなってきており、哲ちゃんの成長に目を潤ませる親戚のオバちゃん気分になれる。
(※注 こないだ久々に観たら、最後のパラグラフは私の妄想だった。でもそういう話。)




この後渡哲也は『関東破門状』(1970)を最後に日活を退社し松竹・東映作品へ出演、もうちょっと大人っぽい役を演じるようになるのであった。
ということで、最後にまとめます。

日活時代の渡哲也 まとめ
1.渡哲也はかわいい
2.不自然な感じがかわいい
3.生きづらそうなほどかわいい

そういうわけで、渡哲也の日活時代再評価を望みます。
(そのためにも日活には出演作すべてDVDを出して欲しいです)

*1:「凄腕の銃使い」って何?と思われる方も多いと思われますが、日活アクションの世界にはよくある設定なのでこれ自体に特に意味があるわけではありません。殺し屋や職業スナイパー等ではないが、卓越した狙撃等の技術を持っているというキャラクター設定です。西部劇でいうところの凄腕ガンマンだと思って頂ければ。

*2:安藤先生的には日活はリアルじゃない(東映のように現実のヤクザの作法の考証に基づいた演出をしていない)のがご不満のようだが、結果的には安藤先生の良さも出ている作品だと思う。(安藤先生の良さ=一生懸命お願いすればなんでもやってくれそうな感じ)