TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

 実録外伝 大阪電撃作戦


この作品の魅力を端的に言えば、巨大な力の下で足掻くチンピラたちの一瞬の光輝、そのロマンチシズムだ。
“大阪電撃作戦”とはチンピラである主人公サイドが仕掛けるものではない。彼らは不意にその事件の引き金を引いてしまい、わずか十数日で巨大組織に掃討される側である。

大阪は西日本の流通経済の中心地であり、ヤクザ者の数も多かったが、これまでに大規模な抗争が起こることはなかった。しかし昭和35年秋、神戸の巨大組織・川田組の大阪侵攻の動きが強まり、南原組と石村組が勢力を二分するミナミにもまた川田組の先兵が現れていた。
石村組はすぐ川田組に陥落し、十三、桜川、天王寺といった周囲の地域も川田組の手に落ちた今、縄張を侵犯された南原組の代貸・宮武(梅宮辰夫)とその弟分・高山(渡瀬恒彦)は大阪侵攻を仕掛ける川田組の切り込み隊長・山路(小林旭)の暗殺を計画。暴れ者の集団と悪名高い愚連隊・双竜会の安田(松方弘樹)に目を付けた高山は彼の経営するボクシングジムへと赴く。安田は双竜会の中でも最も凶暴で鳴らしており、その会長(室田日出男)ですら扱いかねる狂犬であった。安田を使い、自分たちの名を出さずに山路を消そうというのが南原組の思惑だったが、実はこの高山というのが安田に輪をかけたすさまじい野獣だったため、山路の目の前におどり出てしまって面が割れ、山路に南原組の計画が露呈してしまう……。


本作には「理知で動く者」と「感情で動く者」がいる。
登場人物のうち、川田組若頭・山路と南原組代貸・宮武はともに組織を支える立場にあり、組織の維持に極めて忠実で、徹頭徹尾「理知」で動く。ただ、宮武が感情の揺れ動きを理知で抑制し、自我を抑えているのに対し、巨大組織を率いる山路は一切の揺れ、感情を見せない。常に一手先を読み、理知のみで動く。
安田は幹部会に無断で山路暗殺を受諾するなど、一見行動がメチャクチャに思えるが、すべて冷静な判断と計算をもとに動いている「理知で動く者」である。安田がその他多くの「感情を押し殺して理知で動かざるを得ない」登場人物と違っているのは、そのずば抜けた頭脳で理知で自分の欲望を押し通す実行力を持っている点である。現実世界にもいる、他の人よりいつも1歩踏み込んだ行動をする度胸と計算力を持った、仕事のできる人、というイメージ。
ところが、彼が出会った高山は「感情で動く者」。まったく飾り気がなく、感情、直感、本能の赴くままに動く“生命”という概念のカタマリ、野獣みたいな奴。安田は単身ジムに現れて拳を交えた高山を気に入り、暗殺計画が山路にバレたため「理知」で動かざるを得なくなった南原組長(織本順吉)から破門された彼を自分の女のもとへ匿う。ここまでは男同士の友情モノとして結構普通だと思うのだが、本作のすごいところは、あの計算高い安田の「理知」が激情によって崩れるさまをドラマとして描いている点だ。

安田が山路暗殺計画に乗ったのは勝算や見返りがあるから……、「川田組はいくら巨大組織と言っても四国九州に子分が散らばっており、大阪に1000人の子分がいる双竜会にも局地的には勝ち目がある」「川田組もサツの目があるので無茶はしない、ここで川田組の大阪侵攻の動きを止めれば大阪では押しも押されぬ顔になることができる」という計算に基づいてのことだ。
だから、サパークラブで舎弟が川田組三代目組長(丹波哲郎)にちょっかいをかけて乱闘となり、同席していた自身も警察に逮捕され、川田組から狙われるようになって以降は「しばらくはモグラや」と言ってほとぼりが冷めるまでは大人しくしていようと考えるのである。顔を売るのはまた別の機会をみればいいと。ところがここで高山は安田に向かって「おまえもう山路やらんのか」と言う。
高山は計算ではなく、得体の知れない目的意識だけで山路を殺そうとしていたのだ。山路暗殺があくまで手段のひとつだった安田は衝撃を受ける。




安田は高山と出会い、変わる。
高山と出会い、「理知」と「感情」のあいまに立つ。
次に高山の「おまえもう山路やらんのか」という言葉で、さらに「感情」の世界へ1歩踏み込む。
そして高山を失い、「感情」の側へと飛躍する。

それはもう、青く深く澄み渡る空には綿菓子のような白い雲が淡い尾を引き、七色のアーチを描く虹を駈けるペガサスはヒヒ〜ンといななき、清らかな冷たい水の湧き出る泉のそばには白と黄色と薄紫の小さなお花が清らかな朝露に濡れてきらきらと輝く、くらいロマンチックな世界。(余計によくわからない)
なんか、羨ましいんだよな。理知で行動していたはずの人間が、不意に、考えるより先に感情で動いてしまうっていうのが。理知を越えるものを見つけたということが。自分は一生そんなもの見つけられないだろう。たとえ見つけたとしても飛躍できないだろう。
実は安田と高山が一緒にいるシーンというのは少ない。そもそもが二人が時間をともにするのが昭和35年10月8日にボクシング興行の乱闘で初めて出会い(ここではお互いの存在は意識してもまだ直接言葉を交わさない)、12月19日*1に高山が殺されるまでのわずかの間で、そのうち一緒に行動しているのは実質ごく数日、というか、数十時間ではと思われる。交わす言葉も少ない。しかし、強烈な“繋がり”が感じられる。そんな一瞬のものに、すべてを投げ打って飛躍できるか?


安田の三度の転機のうち、出会いまでは普通だ。言ってみればよくある話。たとえばこれが男女のストーリーなら、掃いて捨てるほどあるだろう。それをすごくちゃんと作っている、という感じ。
そして、二つ目、高山の言葉ではっとするシーンは、映画として優れていると思ったよ。同じ中島貞夫監督の『893愚連隊』という作品でも、計算ずくで動いてきたチンピラ・松方弘樹がある言葉をきっかけに内面を表に出して行動するくだりがあるけど、その映画としての爽快さ。曇っていた目が晴れるような。
でも、ほんとうに、最後の行動には唸らされた。ここまでぱっと飛躍するんだ、と。もう理論を越えている。それまでは多少メチャクチャでも、一応目的のために行動しているから理解できる。でも最後だけではそうではない。純粋に自分の感情だけ。義理とか人情とかの相対的なものではない、純粋に自分の感情ためだけの行動。正直言って破綻してる。でも、それがいいんだよ。失うものを全て失ったからのヤケ、じゃなくて、もっとミニマムな、ごく私的なもののための行動。それが長々とした派手な殴り込みシーンとかじゃなく、ぎゅっと凝縮した「瞬間」として描かれるのが演出としてほんとうに上手い。それまで「理」で埋め尽くしてきたぶん、あまりに上手い破調だと思う。「光輝」というのは一瞬だからこそ、その光はまばゆい。
そしてそのシーンに拍手の音がオーバーラップする。まるでお芝居のラストシーンのように、熱演した俳優に惜しみない拍手が贈られるように。その拍手の音で映画の観客は現実に返る。そして、川田組のもとに下った者たち、つまり「感情を押し殺して理知を取った」ゆえに生き残ることのできた者たちの拍手に迎えられ、手打ち式の会場へ山路が入ってくる。有馬温泉のホテルのロビーの、安っぽい蛍光灯のライティングに照らされて。生々しい「現実の世界」である。安田の最後の行動はまるで夢の中の出来事のよう。手打ち式は粛々と進行し、川田組がこの事件で大量の逮捕者を出し、巨額の裁判費用を負ったことがナレーションで流れるも、安田と高山が残したものは何もなく、エンドマークは打たれる。
巨大な力に有無を言わせず淘汰されたドチンピラたちの光輝。ロマン以外のなにものでもなし!!!

*1:多分