TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

 県警対組織暴力

┃ あらすじ
 昭和38年倉島市。この街では市警が地元暴力団と癒着しており、なかでもマル暴刑事・久能徳松(菅原文太)と大原組若い者頭・広谷賢次(松方弘樹)は完全にデキていた。6年前、敵対組織・三宅組組長を殺害し久能の居宅へ自首しに来た広谷を彼はかばった。久能が署に行く迄に振る舞った茶漬けの茶碗を、広谷が流しで洗っている姿を見たからだ。これによって三宅組組長射殺事件は迷宮入りし、二人の間には不思議な友情、またの名を癒着が生まれる。このようなヤクザとサツの癒着によってある意味平和だった倉島市に異分子が侵犯してくる。川手勝美(成田三樹夫)という新興やくざである。川手は市会議員で元ヤクザの友安(金子信雄)と結託しており、競売にかけられている湾岸の土地を転売目的で狙っているのだった。彼等にとってそれを妨害しようとする地元ヤクザの広谷は目の上のたんこぶ、些細な抗争事件を切っ掛けに県警を介入させ、大原を叩き潰そうとする。倉島市警にやってきた県警の若手ホープ・海田昭一(梅宮辰夫)は赴任早々、市警と暴力団の癒着関係を断ち切るように指示。久能の不在時を狙って大原組に手入れを行ったため、久能から事前連絡を貰えなかった広谷は激怒。海田から「お前の味方はもう一人もいない」と挑発されたことも重なり、広谷は次第に久能を信じられなくなってゆく。

 こう書くと真面目なファンの方に刺されそうだが、『県警対組織暴力』は悲恋ものである。二人のお互いへの友愛そのものは変わっていないはずなのに、周囲のあまりに激的な変化によって実はお互いへの友愛は決して同質のものではなかったことが浮き彫りになっていき、最終的には誤解が重なってお互いが信じられなくなり、決定的な破滅へと至る。その友愛はあまりに純粋であったがゆえに、結末は救いようもなく残酷だった。




 久能がビックリするくらい乙女チックなんですな。見た目は刑事だかヤクザだかわからず、取調室で拓ボンに凄まじい暴行を加えたり、アヴァンタイトルでは馬鹿ガキを整列させてどやしつけた挙げ句カツアゲまでしてはいるが、根は受け身体質のピュアな乙女。主人公にも関わらず明確なアイデンティティはなく、広谷の男を立てるのが数少ない行動原理になっている。彼はこれを「わしゃあ広谷賢次いう旗を掲げ持ったんで」という言葉で表わす。わしゃこの旗は一生下ろさんど、の言葉通り、久能は自分の立ち場よりも広谷を優先し、最後まで広谷を立てようとする。
 一方の広谷は完全なアニマルヤクザ。厚顔無恥で何者にも怯まず怯えず、粗暴そうでいながら市警を利用して川手を "正当な手段で" 潰そうとする頭脳派でもある。久能より10歳くらい年下の設定だと思うが、酔ってベロンベロンになった久能をアパートへ送って行って寝付かせるなど、逆に久能より大人なところもある。この、そのままコテンと寝てしまった久能の服を脱がせようとボタンに手をかけたとき、枕元に妻子の写真が入った写真立てがあるのが目に入り、はっとして手を止める場面、広谷が久能をどう思っているかがよくわかる。

 この二人の関係が、県警・海田の介入によってだんだん齟齬をきたしてくる。齟齬をきたしてくるというのは正確な言葉ではない。もともとあった齟齬(しかしお互いにそれには気付いていない)が、海田の登場により明確に浮かび上がってくるのだ。お互いのお互いへの友愛が純粋で濁りないものであった分、悲劇はより悲劇となる。
 もうね〜、久能がかわいそうでかわいそうで。久能は「広谷賢次いう旗を掲げ持っ」ていて、見返りがなくとも広谷にすべてを捧げられる。しかし広谷は、久能がギブアンドテイクを求めていると思ってしまう。それは彼が最後に言う「わしゃあオドレの旗じゃあるかいっ! わしゃあわしの旗振っとるんじゃ!!」という言葉に端的に現われている。本当は久能は広谷に自分の旗を振って欲しいなどとはまったく思っておらず、はじめから広谷には広谷の旗を振っていて欲しいと思っているのにね。なぜ久能が広谷を好きだったかというと、初めて出会ったときから広谷は広谷の旗を振っていたから。アイデンティティのない自分には振る旗がない。自分自身の旗を振れる広谷に憧れて、彼を支え守りたかった。しかしその気持ちを完全に裏切られてしまったことで、二人の友情は永遠に幕を閉じる。

 ……っていうのは私の推測ですが(ここまで書いておいて何だ)、いやでも、久能が「自分の旗を振れない人物」に設定されているということは、脚本家・笠原和夫のインタビュー本『昭和の劇』にも説明されている。久能は自分の旗を振れなかったぶん、弱かった。旗を振れないなら振れないで、うまく立ち回る方法もあったはずだし(そういう行動を取った登場人物が後半展開の鍵になる)、広谷に言葉を尽くして説明する方法もあったはずだけど、しなかった。久能のさらされる境遇には、「能動的に動かなかったせいで/説明しなかったせいで最悪の展開」というパターンが多い。破滅の予兆を感じながらも、動くことができない。しかし、こういう曖昧で受け身な人物が主人公というところに、個人的に共感。誰もが自分の旗を持って自分の旗を振れるわけではないんだから。




 物語はこの二人の友情が幕を閉じた後も続く。あまりに救いようのないラストシーンには瞠目。深作欣二笠原和夫の、この世に対するただならぬ怨嗟と情念を感じる。純粋ゆえの破滅、それをヒロイックにだとか、美談だとか、正義として語らないところが好きです。




 最後に。この作品をスクリーンで観て衝撃を受けたのは、菅原文太のあまりのカッコよさであった。スクリーンで観る前にDVDで観たことがあったのだが、スクリーンで観ると全っ然違う! 菅原文太、超カッコイイ! いや、別にDVDで観てもカッコイイのであるが、スクリーンで観るとなおさらカッコよい。40年の時を越えて当時の観客男子の「キャーーーーーーーーーーーーーーー!!!」という歓声が聞こえるようであった。やはり銀幕のスターというのはすごいな、と思わされた。
 松方弘樹の熱演も素晴らしい。この作品もそうだけど、ギラギラした頭脳派アニマルをやらせて松方弘樹の右に出る者はいないと思う。
 さて、この映画、以前人に紹介したとき、「どっちがヤクザでどっちが警察かわからなかった」と言われた。私も初見時、観ながら「……あれ、山城新伍室田日出男、どっちがヤクザなんだっけ?」と混乱した。しかし「どっちがヤクザでどっちが警察かわからない」というのは意図的な演出で、本作のテーマでもある。




参考