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TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

麻雀漫画と昭和の日本映画と文楽(人形浄瑠璃)について書くブログ

 男の顔は履歴書

この映画は敗戦後の日本の混乱した時代に想定したフィクションである。そして、世界中の人間が互いに愛し合い、信じ合える日を信じて作られたドラマである。

 観たのは、渋谷にあるシネマヴェーラという名画座の特集だった。6月の頭、満席に近い大入りの館内は節電で空調が入っておらず、蒸し暑かった。はっきり言って環境最悪、あまりにムシムシして幻覚が見えそうになったが、作品の季節もまた蒸し暑い夏。今思えば、この作品を観るにはいい環境だったと思う。



 舞台は終戦直後のとあるバラック街。そこではマーケットの利権を巡り、地元日本人住民と「三国人」やくざ・九天同盟の対立が激化していた。九天同盟はこれまですさまじい民族差別を受けてきた復讐として、戦勝国であることをかさに着て暴力にものを言わせ、一方日本人住民は地元やくざを利用して彼等を戦前のように押さえつけようとする。果てしなく連鎖する憎悪は、永遠に続く報復の応酬を生んでいる。対立の鍵を握るマーケットの地主、医師・雨宮(安藤昇)は我関せずを貫いていた。
 あまりの最暗黒ぶりに驚く。世界は暴力と怨嗟と復讐と差別に埋め尽くされている。無法地帯という言葉はもはやヌルい、心が底冷えするような最暗黒の世界。終戦直後の混乱期を舞台にした映画というと『仁義なき戦い』が有名だが、本作は『仁義なき戦い』のように、暗黒の中にも再生への鼓動だとか生命の輝きだとかを感じさせる“暴力”ではなく、「あ、本物の暴力って、こうですよね〜……」とドン引きしてしまうような殺伐とした“暴力”である。なぜ抗争が起こっているのかを考えると、あまりに色々なことがこんがらがりすぎていて、とてもじゃないけど一朝一夕や鶴のひと声的に解決できるものではない。というか、解決は絶対無理という絶望的状況。誇張や脚色はあれど、終戦直後には実際にこういう状況が有り得たのだろう。マーケット利権を巡る日本人住民vs三国人の戦いというモチーフは他の映画でもしばしば散見される。いずれの作品も一応オチはつけてあるけれど、脚本上ですら根本的には解決されていない。



 抗争の中、雨宮は、かつて沖縄戦において部下だった崔文喜(中谷一郎)と再会する。崔は現在は九天同盟のヒットマンであり、日本人住民と対立する立ち場にありながらも、かつて雨宮が命を賭けて自分達を救おうとしてくれたことを忘れていなかった。雨宮はかつては自分の良心を信じ、それに殉じてまっすぐに行動していた。だが戦争は彼の心を挫き、今ではこの世の全てを無為だと感じている。そのためマーケット抗争にも関わろうとしない。
 実は、九天同盟側にはかつての雨宮のような人物がいた。李恵春、コリアンキャバレーで働く若い娘。彼女は日本人と朝鮮人の対立に心を痛め、身を投げうってでもこの憎悪と暴力の連鎖を断ち切りたいと願っていた。そしてこの街へ雨宮の弟、大学生の俊次(伊丹一三)がやってくる。俊次は若者らしいまっすぐな正義感から何もしない雨宮を罵倒し、先走った行動に出てしまう。この二人を見る雨宮の目が恐い。「そんなことやってもどうせムダ」という暗い目。しかし、九天同盟によってこの二人が殺され、二人を助けようとした崔が重傷を負ったことで、雨宮は決意する。



 観ているとき、かつての雨宮や今の李恵春の行動のもととなるものは何だろうとずっと思っていた。正義感? 博愛? いずれもしっくり来ない。この世界には正義は存在しない。また博愛も存在する余地がない。正義も博愛も必ず他人や環境が介在する感情であり、この殺伐とした世界ではあまりに弱い行動原理だ。観終わってからもうーんうーんと唸っていて、何日か後になってやっとわかった。これは「良心」ではないかと。いや、「良心」も何だかまだ語弊がある気がするのだけれど、他人や環境に左右されない、自分の中に存在する何にも勝るものとしては、やはり「良心」かなと。
 このレビューの冒頭に挙げた「この映画は敗戦後の日本の混乱した時代に想定したフィクションである。そして、世界中の人間が互いに愛し合い、信じ合える日を信じて作られたドラマである。」とは、映画が始まる前、松竹のロゴマークが出るより前にスクリーンに写し出される前口上だ。内容に問題が含まれる作品の頭にはこういったエクスキューズとしての前口上がつきものなので、初めて観たときはサラッと流してしまったが、本当にこの前口上通りの映画だった。一度すべてを失い、諦めてしまった中年男が、例え結果が無為に終わることがわかっていたとしても、信じるもののために行動する心を回復する物語。



 憎悪と報復の連鎖をいかに断ち切るか。本作のテーマは極めて今日的でもある。重ねて言うが、例え映画であっても、良心で行動して世界が平和になるほどこの世は単純ではない。それでも良心に則って行動することは無意味ではない。例えそれが「祈り」のようなちいさなものであっても。「祈り」は社会を変えることはできなくとも人の心には響く。それを青い行動だとか綺麗事だとおそれてはいけない。そして、人を愛し信じることがドウタラコウタラというこの文章を読んで「世の中そんなに甘かねえだろ」と思われている方も多いだろうけど、はい、私もそう思っていたのですが、この映画を観て心を入れ替えました。それだけの力がある映画なのです。



 さらに、実は本作は3重の構造になっている。以上に書いたのは、「過去」の物語。現在の雨宮が過去を回想しているのだ。現在(昭和31年)、過去(終戦当時・8年前・昭和23年)、さらに過去(戦時中)の三度に渡り、雨宮と崔が極限状態で運命的に出会う。
 加藤泰の映画には、人々から蔑まれ、社会に絶望していた人物が、主人公が何気なく手を差し伸べてくれたことによって人間と社会への信頼を取り戻し、長い時を経てその恩を返すというモチーフがよく現れる。出会いは決して一期一会ではなく、運命の糸に手繰り寄せられ、人と人はまた再会するのだ。運命の美しさを感じさせてくれる。



 主演の安藤先生はもともとが本職俳優ではないので(ヤのつく自営業)、正直言わなくても演技がやばい。ただでさえ演技がやばい安藤先生に説明台詞や長台詞を喋らせるのは極めて危険。目が完全に座っていてとてもじゃないけどカタギの医者には見えない。また、中原早苗・伊丹一三の演技は逆に芝居がかりすぎに感じる。音楽もやりすぎだし、それに脚本もあそこは無理が……と、映画としては破綻も多い作品なのだけれど、そんなものは作品自体の持つエネルギーからしたら、たいした問題ではい。本作が私の2011年のベストムービーだった。
 私は本作で初めて加藤泰作品を観たので、あまりのストレートさにものすごくびっくりした。ちなみに併映は『みな殺しの霊歌』だった。こちらのストレートさにもびっくり。こちらでも、暗黒の世界の中、人が人を信じ愛し敬う心の美しさ、そしてそれが引き起こした悲劇が瑞々しく清冽に描かれている。