TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

 大人のための麻雀劇画入門

 面白い麻雀漫画はたくさんあるが、大人が読むに十分なクオリティと娯楽性を備えた作品となると途端に難しくなる。麻雀の魅力は十分に描かれているか、麻雀を通じた物語はドラマチックであるか。この両方の要素を満たしていなければならない。普段麻雀漫画を読まないような人に薦める作品となればなおさらだ。麻雀漫画初心者には麻雀がカンタンで絵柄がキレイなら喜ばれると思っているのは驕りであり、大間違いである。大人の初心者には最もレベルが高い作品を渡すべきなのだ。
 今夜は、大人が読むにふさわしい麻雀漫画2作品を紹介する。双方とも甲良幹二郎の絵が言葉では表現できないくらいに濃いが、この絵でなければ表現できない重厚な世界を描く作品である。麻雀漫画に初めて手を出す人、おもしろい麻雀漫画とは何かを知りたい人、あるいは軽くて読みやすい暇つぶしな麻雀漫画なんか読みたくないという人、ぜひこの二作品を手に取って欲しい。
 『狼の凌』は知名度こそ低いが、歳を重ねてもなお麻雀に真剣に向き合うことを純粋なまでにまっすぐ描いた名作である。若い時分のいっときの情熱だけでない、麻雀への弛まぬ情熱に胸を打たれる。『麻雀蜃気楼』は麻雀漫画ファンなら必ず読んで欲しい。麻雀漫画として最も完成度が高い作品と言っても過言ではない。どういう意味で私がこう言っているのか、読めば必ずわかる。
 双方とも入手が難しい作品であるが、古本屋で見かけたら脊髄反射で買って欲しい。内容は約束する。*1



┃ 狼の凌

原作●土井泰昭 作画●甲良幹二郎
発行●竹書房、全1巻(単行本未完)
連載●竹書房近代麻雀ゴールド」1996年6・8・10月号、12月号増刊、「別冊近代麻雀」1997年2月号〜1998年6月号連載

 私は、この作品こそがレクチャー麻雀漫画の最高傑作だと思っている。
 麻雀漫画の中には、麻雀のレクチャーを扱う作品が存在する。内容は「麻雀を自己流&フィーリングで打ってきた若者が師匠から言語化された戦術をレクチャーされ、麻雀を打つことに自覚的になってゆく」というものが多い。代表的なところでは片山まさゆき打姫オバカミーコ』、来賀友志+本そういち『平成ヘタ殺し』がある。『狼の凌』は、一般のレクチャーものとは一線を画するプロットだ。というのも、本作は「すでに十分に麻雀玄人であるおっさんが麻雀と人生を再勉強する」という人生再スタートな内容を扱っているからだ。
 主人公・芝元凌は弱小ヤクザの代打ちであったが、本部長昇格を条件に組同士の抗争での殺人の身代わり犯として収監され、7年の刑期を終えて今日が出所であった。しかし彼が塀の中で7年を過ごすうちに麻雀の戦術は進化し、彼の打ち筋は古臭くてとうてい実用のきかないものとなっていた。そして彼が組を解雇されるところからストーリーははじまる。
 凌は、若者雀荘や若い打ち手が混じる代打ちの場で、速攻を重視した現代の麻雀に衝撃を受ける。彼は自分が打ってきた麻雀とのあまりの違いに、若者たちの打ち方を美学がないと否定しようとする。時代についていけなくなったと感じたときは、同じ年代の同じ価値観の人間と固まって「最近の若いモンは」と言っていれば楽だ。実際、凌もオヤジばかりが集まるリャンピンの雀荘に行って若者の愚痴を言い、オヤジの雀風のほうが「これぞ麻雀」と感じてしまう。しかし、彼は麻雀で生きていくためにそれを振り捨て、積極的に現代の戦術を自分の中に取り入れていくことを決意して、低レートの若者雀荘へ出かけてゆく。凌はおそらく30代後半〜40代前半くらいの歳だろう。その歳になってから、自分がプロフェッショナルであると思っていたジャンルを学びなおすことがどれだけ難しいことであるか、想像にかたくない。
 麻雀を再勉強するというテーマは、読者のほとんどが麻雀初心者 "ではない" 麻雀専門誌『近代麻雀』には重要である。近年連載されていた初心者向けレクチャー漫画『打姫オバカミーコ』は連載当初厳しい批判にさらされたが、それは再勉強にあたる読者を納得させられなかったからだろう。再勉強を前提として書かれている本作『狼の凌』で繰り返し説かれるのは「自分で考える」という至極まっとうで当たり前のことだ。凌は様々な人から麻雀を教えてもらい、戦術本を読む中で、世の中の最新のセオリーを勉強する。彼はひとまずそれに則って打ってみる。しかしながらそのセオリーが通用する局面というのは限られているし、使える局面であっても成功することもあるし失敗することもある。まず試してみて、いつどのように使うか/使わないかを自分で判断する。至極当たり前のことだが、この作品をそれをありのままに描いていることに本作の価値はある。
 通例、麻雀漫画において雀風を途中で変えるというのは博徒の矜持を折る行為であり、弱さの象徴として描かれる。しかし、この作品はそれを積極的に肯定する。凌は初めて自分の打ち方を曲げる瞬間、その一打が自分のいままでの人生を否定する一打になるのではないかと恐れる。が、それでも麻雀に向き合って生きていくために、新たな一打を選択する。自分の打ち筋に依怙地になることが必ずしも麻雀に誠実に向き合うことにはならないということがはっきりと描かれている。筋を通すとはどういうことか。これもまた再勉強ものとしてはとても重要なことだ。
 単行本1巻に収録されている原作者・土井泰昭のあとがきを読めば、彼がなぜこんな作品を書いたかがわかる。かつて土井が若かったとき、彼はオヤジの打つ棒テン即リー麻雀を見てダサイと思っていたが、歳月は流れ、いまや土井もオヤジになって若者の麻雀と自らの麻雀の乖離を感じたという。彼が若かりし頃は三色を追うなど手役重視の打ち筋が流行したが、いま(連載当時)のハヤリは棒テン即リー、すなわち彼が若い頃へたくそだと唾棄していたオヤジ麻雀の有効性が認められ、復興しつつあるのだ。ちなみに土井は競技麻雀プロであり、戦術書の著作も多い。人に教える機会が多いからこそ戦術の取り入れ方や教え方のありように非常に自覚的なのだろう。それは『幻に賭けろ』などでも顕著に出ている。
 本作はレクチャー漫画において非常に重要な意義を持つ作品である。プロフェッショナルであるはずのことを再勉強する時は、どんな人にでも必ず訪れる。その経過を描く上での朴訥なまでの誠実さと丁寧さを私は評価したい。そのような麻雀にまつわる事項もさることながら、凌を影から見守り支える親友・健五の存在、凌のパトロン・マルイチローンズの社長の温かさ、彼を捨てた山内組組長との和解など、物語としても十分面白い。最大の難点として単行本が最後まで出ていない(というか、単行本が1巻しか出ず大半が単行本未収録)ため通読は非常に難しいが、1巻だけでも是非読んで頂きたい作品である。



┃ 麻雀蜃気楼

原作●来賀友志 作画●甲良幹二郎
発行●竹書房、全3巻
連載●竹書房「別冊近代麻雀」1991年8月号〜1994年2月号

 人生は思いどおりにいかない。ドラマチックでもない。裏目引きの連続だ。そんな人生をどう生きていくのか? 自分は何を選ぶのか? 『麻雀蜃気楼』はそれを真正面から描いた作品である。
 選ばれた人間の選ばれた人生を描く漫画は多いが、その影に必ずつきまとうのが「選ばれなかった人間はどうなるのか?」だ。実際の人生では選ばれなかった人生を生きる人が多い。選ばれた人間がまわりにいて嫉妬と羨望を抱くのはまだ恵まれているほうで、大概がドングリの背くらべの中でお互いを馬鹿にしあいながら誰も生き残らない蟲毒に陥っていく。だが、例え選ばれなかった人間であっても、人生ではいろいろな小さなことがたくさん起こる。いろいろな人と、少しずつ接する。『麻雀蜃気楼』は、そういった普通の人生の中で成長していく主人公の姿を、きわめて誠実に、静かな情熱を持って描いていく。
 この作品に現れるドングリ同士の恨み妬み嫉み僻み、そして惨めさの感情描写のリアリティには鬼気迫るものがある。屈託ない性格で将来設計もある若きサラリーマン・雄二は、麻雀に触れることによって自らの内側にそういったドス黒い感情があることを知る。麻雀に出会わなければそんな感情は生まれなかったのか? そうではない。気付いた切っ掛けが麻雀であっただけで、彼は自分を棚に上げて内心で周囲の人間を見下していた。会社でも部長にこびへつらう上司を軽んじていたし、雄二よりいい大学を出て幹部候補とされている阿井という後輩を妬んでいた。そんな彼を変えたのは雀荘「ともえ」のマスター・柴田だった。雄二のやった点棒チョロマカシは、その場で指摘して出禁にするのが普通のマスターの仕事だろう。しかし柴田はそうぜず、雄二とふたりきりになったときにやんわりとそれを注意し、雄二の悩み事を聞いてやる。これをきっかけに雄二は大きく変わり、真剣に自身の人生と向き合う覚悟ができてゆく。周囲のせいでうまくいかないと感じていた仕事に真剣に取り組み、グダグダになっていた恋人との関係を仕切り直すことで人生は軌道に乗りはじめる。しかしそんなとき、彼は「ともえ」の地上げを会社から命じられる。……人生は不運の連続だ。しかし、それを外の世界のせいにして逃げることなく、自分の力で立ち向かっていかなくてはならない。男の人生には二通りしかないと柴田は言った。強く生きるか、楽しく生きるか、どちらも苦しいぞ、と。強く生きることを選んだ雄二は、絶対に店は譲らないという柴田と正面から向き合わねばならない。
 彼を変えたのは柴田だけではない。私がこの作品でいちばん評価したい点は、どんな人間にもそれぞれの人生があるというただ当たり前のことを、実際にすべての脇役に対してゆっくりと丁寧に描いていることだ。「ともえ」の常連で皆にはチンピラだと思われているが、ある日一緒に母を弔って欲しいと突然みんなに寿司を振舞うやくざ、雀荘では鼻持ちならねぇ奴だが恋人に対してはとても紳士的な実業家・須藤、4ラウンドボーイと揶揄されるボクサーの青年との時を経た再会、雄二に目を付ける人気テレビプロデューサー・秋葉の秘められた恋心、そして壮絶な過去を持つ高級麻雀倶楽部「鈴蘭」のママ。あくまでそれは他人の人生であり、雄二がそれに気付くこともあるし、気付かないこともある。それでいながらそれぞれの人生の確かさと重みを感じさせるさりげない描写と雰囲気づくりは非常にうまい。これは甲良幹二郎の力によるものが大きいだろう。
 本作は、原作者の来賀の経験をもとに書かれているらしい。「ともえ」は東中野に実在する雀荘、高級麻雀クラブ「鈴蘭」も実在の店をモデルにしており、また、彼にはいわゆる代打ちの経験もあるという。しかし彼の青春時代を最も反映しているのは、おそらく雄二の心の動きだろう。早大卒で出版社勤務、現在はフリーの漫画原作者という経歴はとても華やかだし、誰にも追随されることのないほどの圧倒的な才能があるし、平生の作風からは全くそんな気配はない。だが、将棋漫画『投了すっか!』(作画・神田たけ志)で見られる奨励会からプロへ昇段できず去っていく若者たちの描写、現行の連載である『天牌』では第一線から脱落した青年・よっちんの描写など、「選ばれなかった人間」の描写は非常に巧い。いちファンが勝手に詮索することではないが、やはりこれを裏打ちする何かが彼の人生に秘められているのか。
 主人公が麻雀を選んだのはただの偶然であり、当初は主人公が麻雀にさほどの関心を示していないという設定は来賀作品にしては珍しい。しかしその分、主人公が麻雀を選んでいく過程の必然性と説得力には凄まじいものがある。それは決して言葉や設定で説明されてはいないし、私にはそれを言語化することもできないが、そこにこそ麻雀漫画最大のテーマ「なぜ麻雀なのか」の答えが最も高い純度で結晶化しているように思われる。偶然が必然に変わっていく、そのドラマに強く惹かれる。
 大人のための、と書いたが、本作は20代以下の若い人にも読んでもらいたい。むしろ、この作品に最も共感し心を打たれるのは25歳前後の人だろう。上記の通り、描かれているテーマは至極普遍的で、誰もが経験し、感じることを扱っている。仕事や夢や恋愛や友情やその他もろもろがすべてうまくいかなくて、それでも強く、あるいは楽しく生きたいとき、この作品を開いてほしい。例えいますぐこの作品の面白さがわからなくとも、5年後、10年後にこの作品を再び開く日が必ず訪れるだろう。

*1:このエントリは、2010年11月23日に行われた「資料性博覧会03」で配布した同タイトルのフリーペーパーから抜粋の上、加筆修正したものである。