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TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

麻雀漫画と昭和の日本映画と文楽(人形浄瑠璃)について書くブログ

 ザ・ライブ

神田たけ志 竹書房 1989-1991

┃あらすじ
ある日、「現代麻雀」編集部員が倉庫で見つけたその牌譜には、奇跡が描かれていた。
今から15年前の昭和48年。麻雀雑誌黎明期にあった「現代麻雀」の編集長・牧村は、麻雀維新隊につぐ次世代のスーパースターを求めていた。ある日、牧村は街の雀荘でたくさんの観戦者に取り囲まれた "オザワ" という不思議な青年に出会う。同卓者や観戦者を魅了する不思議な麻雀を打つオザワ。「場は平たくしなくちゃね」と言うオザワの麻雀に惹かれた牧村は、彼を麻雀維新隊との誌上対局に誘った。ところが、彼は牌譜をとられることを頑に拒否する。維新隊隊長の朝倉の申し出で採譜の代わりに朝倉が観戦記を書くこととなり、オザワはその卓につくこととなる。維新隊隊員の大島、古溝、後藤という凄腕との対局でも、オザワはあの不思議な麻雀を見せ……



プロとは何か、魅せる麻雀とは何かを描く麻雀漫画。
15年前のとある対局を記録した幻の牌譜が竹書房の資料室で見つかったところから、長い回想の物語が始まる。
単行本ジャケットに明記はないが、目次ページには「原案/来賀友志」のクレジットがある。



舞台は麻雀業界黎明期。麻雀維新隊(新撰組)が登場し、麻雀専門誌が創刊されたばかりの時期で、「現代麻雀」編集長の牧村は麻雀への情熱に突き動かされ、業界を盛り立てようと奔走する。前途超多難ながら、輝きを放ちはじめたばかりの世界とそれに賭ける人々の情熱にワクワクさせられた。眩しい、眩しすぎるよ。

競技(プロ)麻雀を盛り立てるスーパースターが彗星の如く登場すというストーリーの麻雀漫画は何作かある。だが、そのスーパースターがいかなる麻雀でもってプロ業界を盛り立てるかを描いた作品は少ない。*2そのスーパースターは、ただ強いというだけではスーパースターたりえない。では何がスーパースターをスーパースターたらしめるのか? この作品は、それを最も具体的に、リアルに描いている。




主人公・オザワは「場を平たくする麻雀」を打つ。
「場を平たくする」とは、読みをもとに意図的な振り込みや見逃しで他家の点差を調整し、南三局終了の時点で対局者4人全員の点差が僅差(あるいはプラマイゼロ)である状態にもっていくこと。突き抜けたトップ/ラスがいないと対局者全員が前に出てくる展開となり、また、最後まで誰がトップになるかわからない展開に観戦者も惹き込まれる。この演出がオザワの「魅せる麻雀」。華麗な手作りで大物手を炸裂させることを「魅せる麻雀」だと思っていた牧村(と読者)はオザワの打ち方に衝撃を受ける。
そこまで相手の手が読めるなら普通は勝ちにくわけだが、オザワは勝つために麻雀を打っているわけではない。対局者・観戦者全員が楽しめるよう、場の雰囲気を盛り上げるために打っている。それはもはや狂気の領域にしか見えない(主に神田たけ志の絵のおかげで)。
普段は「正気にては大業ならず」でいらっしゃるがゆえその闘牌に誰もついていけない来賀先生だが、この作品では上記のように闘牌は明確なビジョンをもって描かれる。その意味では、そこで何が起こっているのか最もわかりやすい作品だと言える。
明確なビジョンとは言っても、それをいわゆる雀風や設定に帰結させていないところが巧い。雀風とは時に罪深いもので、これがなくてはならない、あるいはキャラクターと直結せねばならないという固定観念を抱いてしまう。私もそうだった。しかし、そうではないのだ。先にも書いた通り、「魅せる麻雀」は雀風とは関係ない次元で成立し得る。オザワ以外の登場人物で特におもしろいのが古溝(古川凱章)の描き方。作中で語られるように古溝の打ち方はオザワに近いというのもさもありなん。彼もまた勝つことより信念を遵守することのほうが上にある。麻雀新撰組をモチーフにしている麻雀漫画としても、古溝の強い信念を描いているためか古溝が大島(小島武夫)より目立っている点が珍しい。




オザワは生(ライブ)にこわだるが故、採譜を拒否する。この作品の冒頭、唯一残っていたオザワの牌譜を見た編集部員が大興奮で牧村編集長のところに飛び込んでくるが、彼の感じた感動はオザワの伝えたかったものとは違うのだろうか? ……違うんだろうね。編集部員の感じた感動はオザワの行った完璧な点数調整技術に対するものであり、「時には安らぎが 時には激しさが 私の心の中に甦ってくるんだ…… それは牌譜が語る凄さの比ではない!」と言う牧村が感じた感動とは異なる。もう少し言えば、私が感じた感動も牧村の感じた感動と異なる。私がこの作品から感じる感動は、牧村ほかの登場人物全員の熱意や感動を含めた場の情熱すべてによるものだ。本作は主人公であるオザワがプッツンいった天才で、なにを考えているかサッパリわからない。その分、感情を素直に表わす牧村、永ちゃん、あるいは後藤という登場人物たちの感情の揺れ動きや成長、人間味がとても瑞々しく感じられる。彼らの損得銭勘定抜きの純粋な情熱は、時間が経過し麻雀を取り巻く状況が変わった現在でも、くすむことなく眩しく輝いている。




オザワが現われ、麻雀界がどう変わったのか? それは描かれていない。しかし、オザワのライバルである永ちゃん、語り部である牧村はそれぞれのフィールドで結果を出した。麻雀界がどう変わったかを具体的に描いてしまうより、オザワを理解しようと奮闘し、最後の一線ぎりぎりまでは理解し得た二人が結果を出したことを描いているくらいが一番地に足がついているかな。




ところでオザワの幼馴染み・永ちゃん。このコがめっちゃカワイイ!!!!!!!
彼はオザワの幼馴染みであったものの、あるとき家庭の事情で大阪へ引っ越すことになり、そこで彼は荒れた人生を送ってしまう。バイオリンもやめ、ヤクザの手下まがいのことをして暮らしている。ところがあるとき麻雀雑誌でオザワの観戦記を見て、全くの素人だったにも関わらず麻雀をはじめ、地方予選を勝ち抜いて全国大会、そして決勝へと進出してくるのだが……。なんなん!? このコ、カワイすぎやで!!!!!!! 最後になぜかオザワとデートしてたのが意味不明でした。あと、最後に突拍子もなくわいて出た三雲が不思議さんすぎましたね。




最後になってしまったが、オザワ*3は、当時話題(多分)の指揮者・小澤征爾がモデルになっている。
オザワは元バイオリニストという設定なのだが、読んでいくとその役割はバイオリン奏者というより、場をコントロールする指揮者をイメージさせる。なぜ元指揮者という設定にしなかったのか? いまは『のだめカンタービレ』があるから若い指揮者(見習い)というキャラクターが認知されているけど、当時はわかりにくいと判断してバイオリニストにしたのか? でも、なぜバイオリン? コンサートマスターってこと??? 確かにオザワはゲームを俯瞰しているのではなくあくまでプレイヤーのひとりなので、コンサートマスターであるバイオリン奏者というのは納得いくな。

あと、麻雀維新隊の後藤さんが誰のことなのかわかりません。プリーズテルミー!!!!!!

*1:単行本ジャケットには表記なし/掲載時のクレジット表記不明。どこまでの原作を提供していたかのウェイトもわかりません。この話、あんまり狂ってないし。狂ってるけど。

*2:麻雀界をどう盛り立てるかをテーマにした麻雀漫画は南波捲+伊賀和洋『メジャー』、北鏡太+神田たけ志『麻雀鴻鵠記 ぎりぎり』などがある。前者は来賀以外で狂気の領域に到達した麻雀漫画として誉れ高い名作だが、後者はやや厳しい。どう商売するかの話になとどまってしまい、麻雀で何をどうしたいのかサッパリわからない。

*3:漢字で表記すると尾沢征爾