TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

麻雀漫画と昭和の日本映画と文楽(人形浄瑠璃)について書くブログ

 雀鬼超新星!!!

ユリイカ」10月号の福本伸行特集は、結論から言うとお粗末なものだった。純粋に福本伸行特集目的で購入を検討されている方は、購入の前に中身を確認されることを強く薦める。しかし、この特集は麻雀漫画好きにとっては非常に有益なものとなっている。とつげき東北*1氏による「合理的な不合理主義者としての赤木しげる」での福本麻雀漫画の合理・不合理の反転の指摘は非常に面白かった。




だが、本当にすごいのは凸さんの次に載っている坂上秋成氏の「モル的な闘牌 赤木しげると桜井章一」。
「ここに至り、我々は赤木しげると桜井章一という二人の人物が奇妙な形で符合していることに気付く。」って……。

氏の専門(肩書き)は「文芸批評」になっている。この方、ナウなヤングにも関わらず、流れ論者で雀鬼信者で雀ゴロ気取りでゼロアカ道場というハイブリッド超生命体、雀鬼超新星ユリイカ雀鬼語りて……ここだけ完全に「近代麻雀ゴールド」末期症状を思わせるすごいことになっている。「ユリイカ」で『超絶』の引用にお目にかかれるとは北岡先生でも想像できませんでした。
坂上氏はここでゼロアカらしく(イヤミじゃないです!!)ドゥルーズガタリに倣い、オカルトとデジタルをそれぞれ「モル的麻雀」「分子的麻雀」と呼んでいる。ドゥルーズガタリの用法とはやや異なるとしながらも、これを以下のように説明している。

(略)「モル的」とは「巨視的、全体的でありながら、諸要素が連関してユニットうを作るようなモデル」を、「分子的」とは「微視的、局所的であり、諸要素が独立して存在しているようなモデル」を指す。重要なのは、ある対象を「分子的」に理解したとしても、それを縮小し「モル的」なレベルで分析すれば、そこには全く異なる構造が発見されるという点である。たとえば、ハネ満をアガることは一局ごとの点棒のレベル(=「分子的麻雀」)で考えた場合常にメリットのある行為だが、半荘や一日の合計で勝ちを収められるかというレベル(=「モル的麻雀」)で考えた場合、デメリットとなってしまう場合もあるということだ。*2

これは麻雀界の言論が全くわからない人に対するデジタルとオカルトの説明として非常に有効である。
今回の論考でもっとも優れているのはここで、ご本人がオカルト論者のためオカルトをややロマン化しすぎてはいるが、他の論者による思想言論からの引用や例えが無意味であるのに対し坂上氏の例えはうまくいっている。
もちろんこれは麻雀論として提出されたものではないので麻雀論として重箱の隅つつきをするのは的外れではあるが、論考全体としては専門誌掲載ならいまごろ麻雀板で晒し首になっている内容。批評家が批評誌に発表する文章であるのならば宗教でなく宗教学であるべき。最近の麻雀潮流に対する研究不足、論旨の矛盾、言葉の定義のブレなど議論以前の傷*3もあり、批評としてもこれを書いてしまったことによって坂上氏はいろんな人に馬鹿にされただろうが、あえて言う。「近代麻雀」は坂上氏を早急にひっこ抜くべき!!! 足首掴んではなさないぐらいの勢いで。まあ、キンマに足首掴まれた日にゃあほかの評論仕事干上がるでしょうが、「東大を出たけれど」も終わってポストが丁度空いてるし、連載できるヨ!!




……と、重箱の隅はつつかないと言っておきながらつついて申し訳ないが、やはり赤木しげると桜井章一は符合していない。そもそも『アカギ』あるいは雀鬼流の思想を「流れ」で説明し類似しているとするには無理を感じる。
市川戦での「きたぜぬるりと」や鷲巣麻雀でのアカギの打ち回しは、とつげき東北氏が指摘するように合理から不合理への急転直下であり、坂上氏が書くような「流れ」や「オカルト」の実践ではない。『アカギ』及び福本作品を説明するキーワードとしては、とつげき東北氏が用いている「合理」「不合理」が最も適切である。本当に流れが存在するのなら、神に愛されていると言われるほどのアカギが奇手を打つ必要はないはずだ。もしどうしても「流れ」や「オカルト」であると書くのなら、「流れ」という言葉の厳密な定義、整理が必要になるし*4桜井章一及び雀鬼流の説明も不足している*5
……というか、赤木のような打ち回しは「素直と勇気」を標榜する雀鬼流からは最も批判されるべき打筋じゃないんですかね?? そのあたり、雀鬼流の方はどう思っているか、尋ねたい。だってショーちゃん、前にコラムで「キンマに載ってるマンガつまらん」みたいなこと書いてたじゃん。
もし麻雀戦術として赤木と比較するなら、安藤満が適切だったのではないか。もちろん符合などしていない(それ以前に「ユリイカ」読者の何%が安藤満を知っているか謎)が、安藤氏のほうがどたんばでのありえない行動について比較するには有効なのではないかと思う。安藤氏の「流れ」を言語化・可視化した漫画作品には、安藤満+しもさか保『阿羅漢』がある。流れそのものに対するダイレクトな説明ではないものの、流れの変化を「亜空間」と名付けて定義し、「亜空間」を用いた戦術が麻雀にどのように作用するのかをシミュレーションした作品で、いまなおオカルト麻雀漫画では最高峰にあると思う。
蛇足だが、神田たけ志『ショーイチ』が引き合いに出されなかったのは、『ショーイチ』が完全なるデジタルだからだろう。裏芸(イカサマ)は確実にアガることに対する合理性においてはこの上ないデジタルであり、そこにはいかなる流れもオカルトも介在しない。今日は流れがあるから積み込みが成功するとか、流れが悪いからブッコ抜きできないとか、そんなブレのある裏芸はありえない。裏芸は100%技術に依存する。その点において『ショーイチ』は徹底的に冷徹であり、デジタルごっこに終始する作品より遥かにデジタルである。かと言って、みやわき心太郎『マルヒ牌の音ストーリーズ』はオカルトだが、オカルトの意味が違うというか、あまりにも彼岸に逝きすぎている。雀鬼漫画はたくさんあるけれど、雀鬼の思想を漫画で学ぶのは難しい。




現代において最も流れ論が先鋭化している麻雀漫画は、来賀友志+嶺岸信明『天牌』をおいて他にない。
私は来賀作品無条件で大好きなのでいいが、普通にゴラクを読んでいる人はどう思っているのか、それがものすごく謎。何か微笑ましいモノを見るような目で見られているのではないかと……。



  • 参考
    • ハンバート「ある奇人の疑心」
      • 麻雀サークルS&Cの同人誌「麻雀の未来」(2006年5月発行)に掲載。かつて雀鬼信者だったハンバート氏による雀鬼流語り。理知的であるはずのハンバート氏がなぜ雀鬼流のような「真実的」なオカルトに傾倒してしまったのか。オカルトをただバッシングすることには意味がない。現代人がなぜオカルトに傾倒するのかに興味がある方には参考になる。
    • 神山典士『人生の大切なことはすべて雀鬼に学んだ』(2009年,竹書房
      • タイトルがあまりに突き抜けすぎていて、新宿ジュンク堂のベンチでガッツリ座り読みしてしまった。雀鬼マンセー本ではあるが、ところどころ天然なのか悪意なのか、すごい文章が出てくる。たとえば「雀鬼会では合宿に自主的に参加しなくてはならない」とか。「自主的に」と「しなければならない」が日本語としておもっきり矛盾しているが、しかし、この表現がまさに雀鬼流にとって適切なのだろう。ちなみに著者は麻雀全然わからないらしいので、麻雀の話はなし。
    • ほか、田中太陽氏(競技プロ/協会)にはまた機会があれば雀鬼について書いたり、語ったりしていただきたいです!!

*1:てか、凸さん、麻雀を打つ人を指して「麻雀師」と書いていらっしゃるが、前からこんな変な言葉の遣い方をされてましたでしょうか???

*2:ユリイカ」2009年10月号(青土社) p.106より

*3:もちろんこの論考はそのままでは専門誌では通用しない。「近代麻雀」はすでに『牌賊!オカルティ』を通過している。デジタル・オカルトのおおまかな概念、自らの正しさを証明するためにデジタルとオカルトが対立しているわけではないことも知っている。モル的/分子的の例えについては、上記の引用文中の "それ(デジタル)を縮小し「モル的」なレベルで分析すれば" っていうのはデジタルとオカルトに置き換えられたときにニュアンスが変に感じるし、後半のハネマンがどうたらというアガりの例えも含め、もっと厳密な説明が望まれる。

*4:とつげき東北+福地誠『超・科学する麻雀』(洋泉社, 2007)はオカルト言論の言葉の定義の曖昧さについて「(…略…)そんなものまで「流れ」と言い出したら、もう無茶苦茶ですね。/それは「流れ」ではなく、別の用語をあてがって説明すべき何かです。そうしなければ、異なる定義の「流れ」と混同されて、現象を適切に把握することが困難になるからです。合理的に説明・検証可能な現象は「流れ」という大きなゴミバコ概念から救い出して、ちゃんとした別の用語を当てはめて再定義することが必要なのです。「流れはあるかないか」という大くくりの対立は、きわめて前世紀的な話題です。(P.28〜29)」とまさにこれを批判している。

*5:解説として「「第一打のドラ、字牌切り禁止」「打牌は二秒以内」「指が十三本(=役満でも)折れてもリーチに行け」「麻雀は振り込みのゲームである」といった教えは明らかに巷の麻雀と一線を画している。しかし、これらは単にマナーや心構えに関する教えというだけではなく、麻雀に勝利するための重要な戦術として雀鬼流に組み込まれており、そこには運の計りや調整といったことが関与してくる。」とあるが、明らかに巷の麻雀と一線を画している……とは言っても実際のところ、類似した内容は他の麻雀論や漫画にも書かれているので、これ自体が奇異だとは思わない。わからないのは、これらの教えがマナーや心構えや戦術以上に、なぜ「運の計りや調整」に関係するのか、具体的にはどう関係するのかということ。原文ではこのあとに『超絶』の引用が続くのみで、具体的説明はない。