TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

 裏プロ雀鬼

明崎和人 [原作] + 一の瀬正 [作画] グリーンアロー出版社 1985

  • 全2巻(1巻:無頼覇道編のみ読了)

┃あらすじ
霧の横浜港沖で、海に血のように赤い薔薇の花束を投げ込む男がいた。彼の名は三日月次郎。凄腕の雀ゴロである。この冷たい海の下にいるのは、雀ゴロであった彼の父と兄。20年前のあの日、彼の浅はかな行動によって父と兄は惨敗し、横浜の海に沈んだ。彼はその復讐と償いのため、あえて厳しい「北」の道を生き、そして今日、ここにいる。彼の流れつく街の雀荘には、どこにでも彼のように複雑な内面を抱いた雀ゴロがいる。彼等は麻雀でしか生きる道を見い出すことができない。今日、三日月次郎が出会った雀ゴロは……




70年代ハードボイルド麻雀漫画の完成形。
馬鹿としか思えない(失礼)ラインナップを揃えるグリーンアローのなかでは珍しい正統派ハードボイルド。それでいながら劇画系でない優しいタッチを持つ一の瀬正を作画にアテているのは、さすがグリーンアロー作品と言える*1




話自体は70年代に多数存在した「凄腕の雀ゴロがスカしつつ麻雀の無常を語る」パターンのもの*2
その多くは主人公をいかにカッコよく描くかに尽力しており、ゲストキャラの造形に気が配られることは少なかった。ナルシズムを主軸とし、主人公のカッコよさを小道具をふんだんに配して徹底的に描くという古典的なハードボイルド。しかし、この作品はゲストキャラの描写にたいへん力が入っており、陳腐ながらもそれぞれの人生を感じさせる味わい深い出来になっている。主人公のハードボイルドさはそのなかで無個性となり、彼は傍観者となる。三日月はゲストキャラの人生の分岐点に関わっていくが、彼はゲストキャラを助けも蹴落としもしない。ゲストキャラたちはあくまで自分の選んだ道を選び取り、自分がなぜそれを選んだのかを三日月によって自覚・認識させられる。こういった麻雀漫画は80年代中盤以降に散見されるようになるが、それが初期型のハードボイルド麻雀漫画のプロットに不思議な形でドッキングされており、なんだか不思議な印象。ダメだとわかっていてもそうとしか生きられない人々を描くものであり、決して「ちょっといい話」風に持っていっていないあたりはうまい。麻雀とはすなわち破滅への傾斜であるという世界観が貫かれている。
以上の点をもって、この作品は70年代ハードボイルド麻雀漫画のひとつの頂点、そして80年代への時代の変化を現している作品ということができる。




作画が劇画系ではない(当時としては新しめの)若者風の絵なのも不思議な印象を与える。当時はかわぐちかいじ作画のハードボイルドものもあったので、こういう取り合わせも普通だったのだろうか……。血のように赤い薔薇がどうだとか、クサいネームがちょっと浮いてしまっているシーンもあるが、それはそれで味。昔はめっちゃイキってたおじさんの昔話を聞いている感覚。この内容で北野英明が作画だったら、読めたもんじゃなかっただろう(失礼)。絵のおかげで得られているものが非常に大きい。

また、ゲストで登場する女性登場人物が本当に美しく可憐に描かれており、それがこの作品の大きな魅力となっている。カワイイ女の子を描ける作家はたくさんいるが、美しく可憐な女性が描ける作家となると希少。登場する女性はクラシックな青春小説の挿し絵風(端的に言うと芳谷圭児系)〜かわぐちかいじ系コケティッシュ美女までさまざま、次郎の甥などの若い男の子キャラも可愛くて、気に入った。




おまけ
この作品でもっとも印象的だった台詞は第2話「漂流牌の罠」のラスト「地獄を覗きたいって奴はいても地獄に入りたいって奴はいないよ」であるが、このエピソードの冒頭にある意味もっと印象的な台詞が出てくる。三日月に憧れたヤンキー大学生がガールフレンドに向かって言う
「女にゃわかんないよな男の気持ち 生命をバビッと燃焼させたいんだよ」
という台詞。

……
……「バビッ」……?

*1:とは言ってもグリーンアロー系の麻雀漫画はその多くが徳間書店系の雑誌(「ガッツ麻雀劇画」など)を初出としているらしいので、徳間センスということになるのだが。

*2:ほんとにいっぱいあります。1ぴき見たら30ぴきいると思えって奴です。