TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

 新宿の黒雀

志村裕次 [原作] + 鳴島生 [作画] リイド社 1985

  • 初出:掲載誌等不明、1978年度作品
  • 全1巻

┃あらすじ
新宿・要町の小さな店「しゃこたん」は、ママのもてなしが気持ちのいい北海道料理店。不器用そうな板前・龍が作る「しゃけだいこん」がこの店の名物となっている。店がハネたあと皆で打つ麻雀では冴えない龍だったが、実は彼は「黒雀(くろすずめ)の龍」と呼ばれる凄腕の雀士だった。実はママは龍の麻雀の師匠の娘であり、師匠がやむを得ぬ事情で収監されているあいだ、龍は密かにママを見守っていたのだ。「しゃこたん」の暖簾をくぐる客たちは、龍の料理と麻雀で自分を見直し、再確認してゆく……




任侠映画風麻雀漫画。
70年代に入ると、それまで栄華を誇ってた仁侠映画はその人気に陰りが見え始めた。やがて仁侠映画を多く手がけていた東映は、激しい暴力描写を目玉とした「実録」路線のヤクザ映画に梶を切ることとなる。……1973年の「仁義なき戦い」の登場で滅亡したと思われた古典派任侠映画の世界がいまここに!!!!




……と説明しはじめたくなるくらいの様式美任侠映画フレーバー。
完全に主演・鶴田浩二アンド高倉健!! 決して『哭きの竜』のような新古典主義/ポストモダンではない。1978年でこの話って……、70年代末だと実録路線すらもう古くなっていただろうに、ふた時代くらい遅れている。むしろここまできちんとトレースされていることのほうがすごい。「唐獅子牡丹」などの60年代を代表する王道任侠映画*1の世界観がそのまま再現されている。
原作の志村裕次は後に独特のセンスを取り込んだ麻雀漫画を発表することになるが、この時点ではその萌芽は見られない。後の志村の作風からすると、この時代なら、東映でいうところの「新幹線大爆破」などのアクション、「女番長 玉突き遊び」のようなスケバン映画や「女囚さそり」などのギャルもの、「大奥浮き世風呂」などのモンド時代劇のような作品を書いていいてもおかしくないのに……。いや、この時代にあえて60年代の仁侠映画をやってしまうところが志村裕次なのか……。それとも掲載誌のニーズを考慮した結果がこれなのか……。謎。

ただ、「しゃこたん」アルバイトのサッちゃんとサブ、常連のノミ屋・歌さんなど、ディティールを描写することによって物語の雰囲気を出していくという技術はこの時点で存在している。また、70年代の作品にしては女性登場人物の描写がしっかりしており、やはり志村裕次は大人向けマンガとは違う世界から来た人なのではないということを伺わせる。こういうところの描写がうまいあたり、この人はどうもマンガ(not劇画という意味での)やアニメ路線から来た人のように思えるのだが……。




麻雀パートはいかにも古い麻雀漫画で、闘牌と呼ばれるレベルには到達していない。
サブタイトルに入っている「七色の虹返し」というのが龍、そして彼の師匠の必殺技。これはイカサマであるが、その正体は積み込みの七対子(にドラが全部乗って数え役満)。ネーミングセンスはあるものの、イカサマの仕組みは謎で、そこにパズル的なおもしろさはない。わかるのは、このマンガ内では四槓流れはないということだけだ。
ただ、最終話の「永遠の牌譜」は出色。龍と刑期を終え出所してきた師匠・磯部との麻雀勝負。磯部と龍の点差は9300点、トップの磯部は「七色の虹返し」でダブリーをかける。しかし龍はイカサマ返しをせず、唐突にタンヤオのみをアガって2着確定で終了させる。逆転可能な配牌からあえて手を落とすのはなぜなのかと問う磯部に、龍は言う。

「南四局で、それも逆転できる点棒差の時にタンヤオのみの手を上がり切るほうがズッシリと心に重くひびいたんです。麻雀は……タンヤオに始まりタンヤオに終わる……」

麻雀が始まって終わる役にはピンフ説とタンヤオ説の2説があるが、この作品はタンヤオ論者……というのはどうでもよくて、オーラスのこの見せ方は珍しい。大概の麻雀漫画は最後に主人公が華々しい手をアガって終わるが、この作品は地味から数えてトップテンに入る地味さ*2。ここでは、点数や地味と引換にしてでも優先される何かが存在することが示される。
現代においてアガリ点や順位以外の部分に麻雀の意義を見い出す麻雀漫画を代表するのは『天牌』などの来賀友志作品。『天牌』以外にほぼ絶無状態であることが示すように、その「何か」がアガリ点や順位よりも優先されるべきであるという説得力をもたせるのはとても難しい。この作品は、はっきり言ってそれに失敗しているが、主人公がラッキーで大物手をアガりまくるだけの麻雀漫画が多かった*3当時では意義のあるラストシーンだろう。また、龍のこのけじめのつけかたは実利実益より義理人情を重んずる任侠映画にある意味馴染んでおり、結末として巧くまとまっているし、仁侠映画としてはアリのラスト。
「麻雀や麻雀に対峙することにどういう意義があるのか」は80年代の竹書房系麻雀漫画で重要視されたテーマであり、また、今はほとんど滅び去ったテーマでもある。




おまけ 
このマンガ、「旅打ち」と書いて「ビタうち」と読ませるあたり、相当粋です。

*1:町にフラリと現われた流れ者、親切な娘さん(親父が病気)の世話になり、その恩に報いて静かに過ごそうとしているが、その娘さんに迷惑をかける悪者を黙って見ていられず、遂に正体を現して悪者を成敗してしまう。娘さんへのほのかな恋心を隠し、降りしきる雪のなか町を去る仁侠一匹・高倉健。ちなみに仁侠映画の多くは明治・大正時代の侠客を主人公にしているが、内田魯庵『獏の舌』(ウェッジ文庫, 2009)に、「処が今日はドウだ。(中略)既くに滅びた筈の侠客がお上の御威光を笠に着て威張り出したり(中略)古いとさへ云へば何でも因縁を附けて大切がる。」と書かれている。この文が書かれたのは大正9年であり、大正9年の時点で侠客というのは前時代的なものだったということがわかる。もちろん、大正時代でいうところの侠客という言葉の定義は不明だが。

*2:栄えある第一位は『あぶれもん』

*3:もちろんそうじゃないものもありますけど、読み捨て雑誌にはそういうしょうもない麻雀漫画が墓場で運動会してます。