TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

 附記 麻雀漫画における「対比」

今回ご紹介した南場捲+畠山耕太郎『ナグネリアン』は過去から来た人物が現代で麻雀を打つ話だったが、麻雀としての過去と現代の対比が描かれるわけではなかった。
だが、麻雀漫画には異なる麻雀の対比を描くことをコンセプトとした作品が何作か存在する。
その中で、私がこれはすばらしいと思った作品を紹介したい。以下にご紹介する作品は対立ではなく対比を描き、対比によって浮かび上がる何かと対比の向こうにある何かを模索する物語である。




異なる麻雀思想
片山まさゆき『牌族!オカルティ』(2000〜2004、竹書房
オカルト(経験則やジンクスを根拠とした麻雀の打ち方)とデジタル(確率・統計学を根拠とした麻雀の打ち方)の対比が描かれる麻雀漫画。
デジタル派のリーダー・梨積港の唱えるデジタルの理論は麻雀漫画キャラ中最もレベルが高い。オカルトを否定することでデジタルを浮き彫りにしようという在り来たりの手口ではなく、常に「パーフェクトな一打」とは何かを示し続けることでデジタルを表しつづけるところがすごい。対してサブリーダーの無頼堂は口だけデジタル、というところが皮肉でキュートで、ナイス。
なにより、オカルトもデジタルもお互いを知り理解するという終着点がよい。この作品では、麻雀において最も重要なことは「対戦相手にリスペクト」であり、互いに尊重し理解し合う努力をすることがなにより大切であることが示されている。デジタルとオカルトの論争では他者を否定し排斥しようとする言論が多いと思うが、正しいか間違っているかとかいう論点だけでものごとを語らない『オカルティ』からは学ぶべきところがたくさんある。オカルトの強者でもデジタルの強者でもない地味な主人公に栄冠が輝いたのは、最後まで自分の信念を貫いたこと、そして誰よりも他者を尊重し理解しようとし続けたからだろうと思う。
相手を敬い理解する努力をすることは、片山まさゆきがあらゆるジャンルにわたって最重要視する姿勢である。漫画としてはストーリー・キャラクター造詣ともにかなり微妙だが、片山まさゆきの思想を最も端的に表す作品のひとつ。
 




それぞれの時代の麻雀観
菊地昭夫『幻刻の門』(2008〜、竹書房
現代の若者である主人公が1970年代に飛ばされるという逆『ナグネリアン』な設定の作品。主人公ははじめ70年代の人々の打つ麻雀を古臭いと馬鹿にしているが、様々な人と出会い麻雀を打つうちに、当時はなぜそのような麻雀が打たれていたのかや当時との価値観や時代性の違いを自分なりに考え、過去の麻雀を理解しようとする。よくあるような「古い=悪い/新しい=よい」あるいはその逆、「昔の麻雀はおもしろかった、今の麻雀は味気ない」ではない観点から現在と過去の対比を描いている点はすばらしい。当時のことも今のことも自分から調べようとせず、何も知ろうとせず、何も知らないくせに決めつけ・思い込みをたくさんしている自分が恥ずかしくなる。
ここに描かれている当時の様子は絶対的に正しいわけではないだろうが、時代考証の正しさを問う内容のものではないのでひとまず不問とする。ここまで描けているにも関わらず作者は麻雀漫画では新人のはず。誰かが入れ知恵しているか原作めいたものを渡しているんだろうけど、逆に新人だからこそこれが描けたんだろうな。
余談になるが、麻雀サイドから語られる阿佐田哲也の像は麻雀ブームの仕掛人や麻雀小説の大家であることに偏りすぎている。文学としての側面(色川武大)も積極的に描いてほしい。逆に読書特集などで色川武大が登場するときは阿佐田哲也サイドはスルーされがちなわけだが。




戦術論のジェネレーションギャップ
土井泰昭+甲良幹二郎『狼の凌』(1996?〜1998、竹書房
ヤクザの代打ちであった主人公のオッサンが刑務所に収監され、7年の刑期を終えて出てきたときには麻雀の戦術が発展していて主人公の古い麻雀はもう通用しなくなっていたという話。作画がさいとうプロ出身の甲良幹二郎ということで失礼ながら絵がすさまじく古臭く、絵からすると主人公は古い麻雀を貫き通して己の美学に殉ずる……という展開になりそうなのだが、全然違う。
主人公はなんと点5の若者雀荘に行って、そこにいた若者に麻雀を教えてもらうのだ。ほかの若者に煙たがられ最終的には出禁になってしまうが、主人公はその後も様々な人と打つことで新しい麻雀を勉強しつづける。己を見つめなおして他者の意見を聞き、他者から素直に学ぼうとする姿勢は、すごすぎ。普通のおっさんなら開き直って若者のほうが悪いとか言い始めるよ。また、主人公に麻雀を教えてあげているヤングもちゃんと主人公に対して友情としての敬意を持っているところが泣ける。
但し、ここで描かれる新しい麻雀理論は新しいというより独特なものも多い。しかし「なぜここでこう打つのか」が丁寧に説明されているので、「そうだな」と納得したり「自分の考えは違うな」と自分の意見を整理しなおしたりと、主人公も読者も自分で考えさせられるところがよいと思う。
(実は最後まで通読していないのでラストがどうなってるかはわからない。単行本未刊分ではなんかしらんがまた代打ちしてたし。)
原作・土井泰昭の作品には若者の意見を尊重するオッサンがよく登場するので、年齢に関係なく相手を敬おうというのは原作者の考えなのかもしれない。土井作品の主人公は周囲の人間との交流を通して自分を客観的に見て反省することから未来へつなぐ方法を模索する人物が多く、読んでいて自分も素直な気持になれて、さわやかな読後感がある。この人は競技プロで、競技プロとしては今どういう活動をされているのか不勉強で存じ上げないのだけれど(協会の前代表で今はフリー?)、麻雀漫画で示されるこの人の方向性ってすばらしいと思う。




麻雀業界の未来への指向
片山まさゆき『理想雀士ドトッパー』講談社
年代や戦術の対比から一歩進み、競技プロはどうあるべきか/どうすれば未来へとつながるのかの考えの対比をテーマにしている。「対比」をテーマとする作品の中で最も強く未来を指向する。麻雀界の発展のため徹底した管理とシステムの整備を目指す羊飼<秩序>、強さを絶対的な指標とし麻雀の持つゆらぎを全面に押し出す理想雀士<混沌>の対立を描く。
この作品はおそらく『タクティクスオウガ』や『真・女神転生』のアラインメントの考え方を麻雀界に持ち込んだらどうなるだろうという考えのもと書かれている。羊飼<秩序>と理想雀士<混沌>の対立は『タクティクスオウガ』や『真・女神転生』にあるLOW<秩序>/CHAOS<混沌>の対立であり、どちらが正しいわけでもどちらが間違っているわけでもない。そして、どちらも極端すぎる。
読者は主人公である柊とともに、全く無自覚であった状況から羊飼・理想雀士に己の無自覚さを気付かされ、「競技プロはどうあるべきか」「自分はどうするべきか」を考え続けねばならない。この作品は『真・女神転生』寄りの性格を持っており、「どちらかを選ばなくちゃいけないとは決まっていない」という第3の選択肢に未来をつなぐもの。そして、『ノーマーク爆牌党』『牌族!オカルティ』と同じく、どれだけ強くとも思考停止してしまっている人物は未来を考え続ける人物に凌駕され、消えてゆくという結末が示される。また、競技プロはファンありきという考えが強く出ており、地方の雀荘にゲストに行くシーンが多いのも特徴的。
驚きなのはこれが一般誌連載だったということと、明らかに打ち切りでありながらわずか2巻のなかに麻雀漫画家としての片山まさゆきのすべてが叩き付けられていること。ものすごく濃い作品に仕上がっている。
 




以上の4作には、他者の価値観を理解し認めることの大切さ、そして自分はどうするのかは自身で考えねばならないことが描かれている。いずれの作品も読者が「自分はどうだろう」と考え直せる内容で、青年向け漫画のテーマとして優れていると思う。
馬鹿なこと言うようだが、どっちが正しいっていうのはないよ、みんな違ってあたりまえ、自分がどうするかは自分で考えましょうというのは麻雀で最も重要なことのひとつだと思う(みんなわかってるし、やってることだが)。しかし、あまり顧みられないことでもある。どっちかが絶対的に正しいとする作品が多い。漫画の作りとしてはそっちのほうが楽で読みやすいし、ドンパチやったりバカやったりする麻雀漫画もおもしろいんだけど、あらゆる麻雀漫画のなかで最も麻雀漫画の未来へつながるのはこれらの作品だよね。


話はずれるが、いまのキンマにもこういった「麻雀漫画に何ができるか」「麻雀漫画にしかできないことは何か」という内容のものがもっと載っていればと思う。箸休めとして一般誌風を入れるのもいいけど、「麻雀漫画に何ができるか」「麻雀漫画にしかできないことは何か」「自分はなにをしたいのか/すべきか」を徹底して突き詰めればどれだけニッチな内容でも一般読者にも認めてもらえると思うし、そうするしかないと思う。明らかに一般向けでない内容な『天牌』がゴラクで、しかもあれだけの人気を誇ってるのは、そこが徹底しているからでしょう。このままいくと麻雀漫画が滅ぶのは確定なので、滅ぶ前に「こんな面白い作品があるなんて、今まで麻雀漫画を読んでこなかったのを後悔!」と人に思わせるようなものをぶち上げて欲しいよね。そして打ち上げ花火のように破滅。うん、散り際かっこよすぎ!