TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

 俺の選択

来賀友志[原作] + カツミ[作画] 竹書房 1998
近代麻雀」1998年2月号〜1999年6月号
全1巻(未完)


┃あらすじ
今日の対局でBIIリーグへの昇級を決めたプロ棋士・剣持優(けんもち・すぐる)は祝勝会の帰り、渋谷の雀荘・白檀にふらりと立ち寄った。優は卓割れして休んでいた先客の中年の男、その連れの青年、自分の付き人で少し高めのレートで囲むことになる。席についたとたん、優は対面の男の雰囲気に昼間の対局の続きのような感覚を覚えた。東4局、有効牌欲しさに摺り替えをしていた優にトイメンの男・仙石がつぶやく。「人間ってのは結局自分に合った服しか着れねえってことだよな」。仙石の言葉の意味とはなんなのか。その直後、優は自分の想像を越えた麻雀の世界を知る。棋士・剣持優のとてつもない選択が、この薄汚い雀荘・白檀で始まろうとしていた。




レクチャー麻雀漫画。
サブタイトルは「麻雀絶対攻略 究極のこの一打!」。




一応レクチャー漫画として始まっている。
タイトル的には「何を切る!?」来賀版のようだが、何切るではない。来賀友志+本そういち『平成ヘタ殺し』のように具体的に手取り足取り勝つための小ネタを教えてくれるわけではなく、麻雀へ臨む態度や精神のレクチャーが多い。単行本未収録分には実戦的なレクチャーも若干含まれているものの、来賀さんの麻雀愛伝授といったほうが正しく、登場人物たちの打ち方や示されるヒントをもとに自分で考えようというスタイル。
話自体は突拍子のないカッ飛んだ展開はなく、安定している。主人公である優、仙石の弟子?の順也、仙石を目の敵にする元一番弟子・島岡、いずれの若者もピュアで可愛い。特に島岡がよい。実に嫌な目つきをしている奴だが、言うことはまっとうで麻雀に真摯であり、好感が持てる。ちょっと不思議ちゃんなのもグー。「処払い」とか、とてもヤングとは思えない言葉を使う。さすが修羅場を潜ったことのある男。




直接的な指導として、前半に「二つ並べた牌と牌のあいだにまっすぐ牌を打てるようになれ!」というレクチャーがある。当時、知人はこれを読んで牌と牌のあいだにピシッと牌を打つ練習をマジでやっていたらしい。牌の影が濃くなる(※)とマジで思っていたのか*1。若気の至りパネェ。

↓牌を2枚並べ……


↓その真ん中に打つ!




(※)牌の影が濃いとは……

牌の影(麻雀の影)は牌の重さ、存在感の大きさによって変わる。牌に命が通っていれば自ずと影は濃くなる。by仙石さん

牌の影が濃い例
仙石: ツモ ドラ
ここから切り、リーチせず。次巡、をツモって3000・6000。
優「二軒リーチがかかって仙石さんの手も最終形ならリーチでもいいのでは」
仙石「麻雀に最終形など――ない!」
優「だって……」
仙石「下家のリーチはタンピン形の待ち、マスターは苦し紛れのドラ単騎のはず。ツキの流れは未だ均衡状態、私がその牌を掴むやも知れぬ。その牌を掴んだら? 降りるしかないだろう。この手牌を最終形なんて誰が決めたんだ?」

降りることを想定しての話なのかとちょっと驚いた。麻雀漫画でリーチをしない場合、一般的にはもっと高い手が狙うためという設定が多いと思う。来賀闘牌の特徴としてダマが多いという指摘があるが、こういう理由もあったのか。
暴牌がなぜそんなにも責められるべきなのかは、来賀さんのコラム(後述)を読むとほんのりわかる気がする。素人ならともかく、プロがそんな行為に出るのは自覚の欠如であり、みっともないということなのかな。振り込みの点数や自分の手の大きさにかかわらず降りるシーンがあるのは、振り込みによって流れが変わる(という設定だ)からではなく、そこで降りるのがプロとしての挟持だから、なのかしらん。来賀原作を何作か読んでいくと、そういう気がする。
ちなみにこの影は麻雀への真摯さ?によって濃くなったり薄くなったりする。





近代麻雀」連載時は原作の来賀友志のコラム「勝負師の回路」が同時に連載されていた。
内容に関連性はなく、それ以前から連載されつづけているものだが、これがとてもおもしろい。戦術コラムではなく、来賀さんの麻雀に対する情熱語り、観戦記や尊敬するプロ雀士(金子正輝とか安藤満とか)についての解説、雑記などが中心。随所から来賀さんの麻雀に対する覚悟の決まりっぷりがにじみ出ており、読みごたえがある。来賀さんの真剣っぷりはほんとすごすぎる。当時に行われたタイトルの決勝に関して(ツッチーが優勝して安藤さんが落ちたやつだったかな?)、ほかのコラムの観戦記に来賀さんが反論→そのコラムの執筆者から反論、となった事項があった。そこでの「観戦者も死にもの狂いで臨まねばならない」という来賀さんの主張に対し相手が「死にもの狂いというのはおこがましく、滑稽。自分はいまのままでいく」(大意)という反論をしている。論争のタネになった「タイトル戦においてトップ目のない人はどう打つか、その批判の是非」については置いておくとして、麻雀に対する態度についてはその反論は無礼というか、無意味のような……。これだけでなく、例え自分が尊敬しているプロに対してでも「ここはよくない」という批判をズバズバ書いていて、すごかった。馴れ合い一切なし、麻雀愛No.1。
麻雀LOVE話以外の日記風の回などの麻雀とは関係ない身の廻りの話もおもしろい。84年頃?耐えられないことがあり、故郷の鹿児島にしばらく帰っていたときのことの話がよかった。新満さんのキャラ造詣はこういうところから出てきてるのかな。
なお、単行本巻末にはあとがきとして来賀友志による「牌効率について」「没個性の否定」「出アガリ麻雀とツモ麻雀」という文章が掲載されている。




作画のカツミはこの直前に「ピカロの肖像」(原作・天王寺ガルオ、1997年頃「近代麻雀」に連載)という作品を描いている。このときのほうがやや劇画っぽい絵柄。嶺岸信明に微妙に絵が似ているが、嶺岸先生の弟子?




単行本未完。参考までに未単行本化分のあらすじを書いておく。当時読んでいた人はその思い出をご確認プリーズ。

……仙石が去ったあと、優は彼の残した言葉を頼りに西新宿の雀荘・蛍を訪れる。そこで優はマスターの小鷹、鳴き麻雀を得意とする安西、なんか強い金城という打ち手と出会い、彼らから受ける刺激に優の麻雀はさらに高みへとのぼってゆく。
あるとき優は安藤から順也が高レートの賭場へ出入りしていると聞かされ、心配になって順也を訪ねるが、島岡の舎弟になった順也は以前のように優と親しくしようとはしなかった。優は島岡に順也を助けてくれるよう懇願するも、島岡は明日の将棋で対局相手にわざと負けることができるかと問う。実は島岡の兄はプロ棋士であり、優と明日の公式戦で当たることになっていたのだ。しかし、勝負への誠意から優は手を抜いて指すことはなかった。複雑な表情で白星をあげた優の携帯電話に、安西から電話が入る。なんとこれから蛍で安西・金城・小鷹と順也で卓を囲むというのだ。優が蛍に着くと、そこには裏プロとして高名な三人との対局に喜ぶ順也の姿が。順也はこの対局で博打打ちとしての決定的な自信を手に入れたいと考えていた。そんな順也を安西・金城・小鷹の三人は全力で迎え撃つ。順也はボロ負けするも、この対局で麻雀本来の楽しさを思い出した順也の表情は晴れやかだった。優は嬉しかった。順也とまた昔のように一緒に麻雀が打てると。
……しかし翌日、優のもとに飛び込んできたのはあまりに突然の悲報だった。順也が昨夜歩道橋から転落し、帰らぬ人となったというのだ。あわただしい葬儀を済ませ、田舎から上京してきた順也の母がお骨を持ち帰ったあと(このあたり記憶あいまい)順也の遺品を整理していると、順也の荷物の中から日記帳が出てくる。そこには仙石が強いことを証明するため憎い島岡のもとへ下ったこと、そのために優に冷たくしなければならないという悲しさ・寂しさ、また優と楽しく麻雀が打ちたいという順也の思いが記されていた。優はその日記帳を胸に、麻雀打ちとして、また棋士としてさらなる高みを目指すことを決意した。
そしてついにその日が来る。島岡との最終決戦。かくかくしかじか(……詳細忘れました。すみません……)あり、ついに優は島岡を下す。こうして優は雀士としての新たなる一歩を踏み出した。
また、優はプロ棋士としても一歩を踏み出そうとしていた。優はついに谷山名人との対局に臨み、そして勝利をおさめる。対局後将棋会館からふと外を見ると、そこには仙石の姿が。仙石は優の勝利を祝うかのように拳を挙げ、そして去っていった。優は麻雀と将棋のいずれも諦めることなく、これからも進んでいくことだろう。
おわり

というわけで、実は後半のほうが話がドラマチックなのであった。「蛍」の常連である安藤から鳴き麻雀のレクチャーを受けるエピソードがあり、後半のほうが戦術レクチャー度合いは大きい。てか、私、仙石さんは実は優の実父、とかいうオチだと思ったのに(これなら初対面のときから優の名前を知っていたこと、仙石が将棋に詳しいことの説明がつく)、違った。
ところどころに入る優の本職である将棋のシーンも不必要にしっかり書いてあり、すごいな〜と思った。対局の内容は私にはサッパリわからんけど。




おまけ

*1:さすがに違うそうです。でも、この作品が来賀作品で一番好きかもしれないとか言ってました。どう考えても麻雀覚えたてのころのスウィートメモリーによってなにかを増幅させているとしか思えない意見です。世間様でのこの作品の評価はいかほどのものなのでしょうか。