TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

 売人風雲録 指ぐれ

梶川良+ほんまりう 日本文芸社(1986)

  • 「麻雀ゴラク」連載
  • 全2巻(単行本未完)

┃あらすじ
沖縄、那覇郊外――。教会の墓地で昨夜亡くなった母へ祈りを捧げる少年、緒方豹。彼をひとりだけの葬儀から強引に連れ出したのはヤクザ組織、沖縄銀星会の謝花だった。謝花は神戸の明石組との大勝負の舞台に豹を立たせる。豹は明石組に遅刻の因縁をふっかけらつつリードするが、明石組は「香港辰」なる代打ちを呼び出した。香港辰は豹の体に仕込んだ牌をイカサマと告発して勝ちを得、豹と謝花はその制裁を受ける。しかし、謝花を撃ったのは明石組ではなかった。明石組と盃を交わそうとしていた銀星会にとってそれに反対する謝花は邪魔な存在だったのだ。銀星会と明石会へ謝花の復讐を果たした豹は、香港辰へのリベンジのため沖縄から横須賀へと旅立つ。




クイズタイムショック! 梶川良の麻雀漫画といえば? 出来が悪い! ピンポーン!*1
というイメージをふっとばしてくれる良作。これはおもしろい。70〜80年代のカッコイイ日本映画を観ているような気分にさせてくれる。ほんまりうの描く世の中すべてを憎んでそうな少年・豹と彼を守る存在・謝花などの登場人物たちが非常に魅力的。豹が少年らしい輝きに満ちているのが可愛くて、よい。謝花の男の美学もカッコよく、物語全体がほんまりうの独特の雰囲気に満ちている。




麻雀はちゃんとしている。が、ここでは香港辰の仕込む「イカサマ」が最大のポイント。
大昔はイカサマ(とお色気)を大量に含有する麻雀漫画が多く存在したが、現代では消滅している。麻雀漫画においては、麻雀をそれが元来持っている競技性・ゲーム性から逸脱させるものは嫌われる。イカサマはその最たるもの*2。とくに専門誌系においてはイカサマは相当覚悟が決まった漫画でしか使われなくなった(多分)。
さて、「麻雀ゴラク」連載だった(らしい)この作品ではどうか。この作品では、香港辰は摺り替えやエレベーターといったいわゆる裏芸を使うのではなく、「豹がイカサマをしている」かのように豹の身の廻りのものに牌を仕込む。ここの仕込みが鮮やかで、香港辰が自らの手でそれを見せつけるまで豹も読者もそのイカサマを見切ることができない。結果、仕込まれた牌を告発され、豹と謝花は制裁を受ける。こういう「自山や手牌に対してイカサマをするのではなく、相手に牌を仕込んでイカサマを告発する」という麻雀漫画はたまにあるのだけれど、これはそれらの作品のなかで最も鮮やかだった。
このイカサマに対して憤りを隠せない豹の少年らしい純粋さ・単純さと、そんな彼に、香港辰はあの一瞬に体を張ったのであり、これもまた勝負なのだ、許し忘れろと言う謝花*3の言葉がよい。麻雀漫画において好まれる要素はふたつある。ひとつはイカサマや暴力を嫌う「麻雀それ自体を尊重する態度」、もうひとつが「男の世界」*4。この豹と謝花のエピソードでは後者のカラーが強く出ている。




ほんまりうの魅力のひとつに、キャラクターをわかりやすい記号にせず、ちょっとした描写の積み重ねを繰り返して重層的な魅力を出している、という点がある。チョイ役でもいかにもチョイ役ですう〜という描き方をせず、それぞれに少しずつ異なる味付けがしてある。この作品で言うと明石組の親分とかメガネ野郎など。それぞれ普段はどういう人物なのか、というのがほんわかとわかる。雰囲気があるというのだろうか。漫画って、誰にでもわかりやすい、ひとことで内容を言い表わせる内容のものがやっぱり一番ウケるのだが、ほんまりうはそうじゃない漫画のよさを教えてくれる。言葉で説明したら(できたら)漫画として終りだからね。本当は。そういう漫画には私は興味がない。




1巻は沖縄を舞台にしたやくざものだが、2巻以降は豹が横浜で香港辰を探して右往左往する物語となる。しかも最後のほうはなぜか麻雀漫画じゃなくなるというミステリー。単行本未刊分のあらすじは以下折り畳み部分にまとめている。単行本しか持っていない方はチェキラ。

福谷町の雀荘で上海を言い負かしたところをバクチキングに認められた豹は、キングの隠れ家に連れ帰られる。そこは古いビルの質素な一室で、とても「バクチキング」と呼ばれる帝王の家には見えなかった。しかし、その押し入れには大金が唸っていた。博打打ちはいい家に住むことが重要なのではない。いつでも大勝負が出来る弾丸、現金を手元に置いておくことが重要なのだ。キングは豹を代打ちにすると言う。豹はこれから不眠不休で麻雀を打たなくてはならない。負けることは、キングの金を欠けさせることは絶対に許されない。香港辰との勝負のために1億を早く用意したい豹は、その条件を呑んだ。


豹はキングに連れて行かれた医者の家での麻雀で、客から香港辰の噂を聞く。香港辰はかつて東大の助教授をしていたという。そして、最近になって高レートの賭場に現れるようになったとか。豹はその客から香港辰の話をもっと聞きたかったが、キングはそれを許さなかった。豹はキングの部下"片目のゴリラ"大神に無理矢理興奮剤を打たれ、異常な精神状態に陥った。豹は興奮剤による覚醒効果で牌についた細かな傷をすべて記憶し、ガン牌による完全な読みを実現することで大勝した。


豹は興奮剤による強い中毒症状に陥って苦しむが、初土俵で2億3000万円も稼いだ彼をバクチキングが手放す筈もなかった。
1ヶ月後――豹は興奮剤がなければ片時も平静にいられないほどの興奮剤中毒になっていた。しかし、豹は香港辰への思いを忘れたわけではなかった。彼はキングの監視を抜け出し、場末のベッドハウスで稼いだ金を勘定していた。およそ1000万。香港辰の言う1億にはまだ遠い。猛暑と遠い目標にうなだれる豹。そこに彼のあとをつけてきたキングが現われる。キングは豹に、今夜の臨時の場に出て勝てれば、アガリの10%を出してもいいと言う。豹はそれを受けいれ、キングの打つ興奮剤で昏倒した。


その夜、横浜港の埠頭――眠る豹を腕に抱くキング。大神は、今夜の臨時の勝負……東和会との勝負はあまりにリスクが大きいと危惧していた。豹なら危険を犯さずとも長期的に稼げる、今日の勝負は降りたほうがいいのではないかと進言する。しかし、キングは「不労所得にはいつもリスクがつきものだ」と言う。そしてキングは自分がなぜ「バクチキング」と呼ばれる博打打ちになったのかを語り始める。


キングの父は小学校の校長で、謹厳実直を絵に描いたような男だった。そして、キングは教師の子どもがそうなりがちであるように、不良少年であった。キングの放蕩に父は怒り勘当も同然の関係であったが、父は死の間際、キングを呼び寄せてこう言った。「ほんとは父さんも思いっきりバクチをやってみたかった。しかし負けるのが恐くてどうしても勝負することができなかった。」父の父――キングの祖父は財産を一夜で潰すほどのバクチ打ちだったという。「バクチに勝とうと思ったら張銭をケチらずあらゆる勝負に持ってるだけの大金をブチ込め。そして必ず6対4の勝率を上げろ。これさえできればおまえは押しも押されぬバクチ打ちだ。」もしこの比率で勝ち続けることができないほど勝負弱ければ死ね。そう遺言を残して父は死んだという。そしてその勝率を実際に上げ続け、キングはバクチキングとしてここにいる。博徒は永遠に張り続けなければならない。――ここまで語ったところで、東和会からの迎えが現れ、豹はキングの声で目を覚ました。


今夜の舞台は横浜港に停泊する石油タンカーの中。種目はロシアンルーレット。そして、勝負の相手は、福谷町の雀荘で勝負した上海だった。キングはこの勝負に10億もの大金を賭けた。コマが足りない東和会に、俺がコマを合わせると言って現われたのはなんとあの香港辰。現金で10億用意する代わりに、アタリの弾を3発込めろと言う。これでアタリの確立は1/2に跳ね上がった。
ここでキングはあることに気付いた。香港辰は10年前、かけ出しの博徒だったキングが六本木の雀荘で大勝負を打ち、大敗させた相手だったのだ。そのときからキングの運はぐんぐん上がり、逆に香港辰の運は地に落ちた。香港辰はキングに負けた後、30年勤めた東大の教職を追われた。彼は経理部から盗んだ金を元手に博打を打っていたのだ。妻は娘を道連れに鉄道自殺を図り、娘は死んで妻は植物人間に。香港辰もまた死を決意するが、失うものを失いきった彼は博打に復讐しようと思い立つ。彼が「復讐」の場に選んだのは香港の九龍城。すべての悪徳が集まった九龍城では、夜ごとロシアンルーレットのショーが行われていた。射手は1晩300万円もの大金を報酬として得ることができるが、生存率は1%にも満たないという。彼はそこで3ヶ月間撃鉄を引き続け、大金を手に入れた。そして今ここにいる。
この話を聞いたキングは、上海への乗り換えを宣言した。十年前キングと香港辰の運命が入れ代わったように、今夜もまた運命が入れ代わる夜だと言うのだ。このままでは今度はキングが堕ちる番だ。そういうときは、逆に張るのがセオリーであると。またも裏切りにあった豹は、上海に興奮剤を打つ大神とバクチキングから目をそむけた。そんな豹に香港辰が語りかける。勝っても負けても、賭け続けたことが俺たち指ぐれ者の勲章であると。そして香港辰は上海ではなく、豹に乗った。
豹は言う。バクチキングも大神も東和会も、そして香港辰も、みんな汚いと。口先だけではカッコいいことを言っているが、ただの金の亡者であり、人間の心を失っていると。人間の心とは信義であり、例えそれが100%凶に転ぶとわかっていても、自分は自分の決めた生き方に賭け続けると。これは最後の勝負だ。指ぐれは親の気持ちに逆らって十本の指をグレさせたが、人でなしではない。その指を動かす心はやさしいのだ。豹は亡き謝花を思い出していた。
先手は豹。落ち着いた表情でこめかみにマグナムを当てて撃鉄を引く豹。弾は出ない。そして上海も動揺のなか撃鉄を引くが、弾は出ない。豹は穏やかな表情で撃鉄を引き続けるが、上海は次第に錯乱状態に陥っていった。そして三順目、上海の頭が吹き飛んだ。
「つかねえ野郎だ」とつぶやいたキングを殴り飛ばし、雨の降りしきる甲板で豹は泣いた。そこに香港辰が現れる。香港辰から勝ち金10億円を受け取った豹は、その場で香港辰に沖縄の再戦を申し込んだ。気持ちは二度と勝負をしまいと思っても十本のくされ指が言うことを聞かないという。香港辰は、「このままでは寝られない、ついてこい」と言ってタラップを降りた。(完)

というわけで、最後はなぜか麻雀じゃなくなった。
ひとつの信念に賭け続けることを麻雀で描くのが難しかったのか。最後まで麻雀で通してくれるとよかっのだが、これはこれでシンプルさが際立ちましたし、なによりおもしろかったので全然オッケー。
ただ、漫画としてところどころ説明不足の部分もある。例えば、香港辰が上海から豹へ乗り換えたことは柱の解説を読まないとわからない。上のあらすじでは文中に入れたが、実際は上海辰が豹に乗り換えると名言するシーンはない。豹が香港辰から金を借りて自分でコマを合わせ、キング&香港辰との勝負になるのかと思ってしまった。それより、キングの乗り換えが屁理屈としか思えない。お前が上海に張ったら勝負にならんだろうが。これはさすがに当時の読者も「は?」と思っただろう。逆張りがどうたらとか、勝負ごとにこういった変な屁理屈をこねられるのには少々うんざりする。こういう承服しがたい屁理屈は別にここだけの話じゃない。話を思いつきで変えようとしてそれに都合良く持ってきたいのはわかるのだが、そのために物語的・論理的整合性に著しく欠けるというのはどうかと思う。昔はこういうことに対する意識がほんと低かったんだなと思わされる。まあ、梶川良が終わってるだけかも知れないが。

豹が最初から最後まで可愛かったのはとてもよかった。豹は本当に少年らしい少年。ものすごーく純粋で、それゆえに毎回傷付く。こんなに純粋な少年は現実にはありえないが、麻雀漫画的には大アリ。豹はビジュアルも相当可愛いのでキュンとくる(というか、『よんぶんのさん』のみどりと同じ可愛さの顔)。世が世ならハネマンだがや。

*1:誰も分からないと悲しいので自分で書きます。小池一夫+叶精作『下駄を履くまで』に出てくる小池流ギャグです。

*2:「超能力」もまた好まれない要素のひとつ。ただ、超能力を使って麻雀に違うゲーム性を見い出すのは面白いと思う。例えば『TATOO』では最後は山や手牌が透けて見える(読みきれる)キャラ同士の対決になるが、相手の手を読みきれることによって生まれる通常とは異なる手牌進行(諸般の事情からチンイツ系ばかりですが……)や、「なぜ牌が透けて見えるのか」がわかるストーリーになっていて、おもしろかった。

*3:「謝花」は「じゃはな」と読むらしいです。「しゃか」じゃないのね。

*4:世が世ならBL、されど現世じゃ麻雀漫画止まり。