TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

 咲 -saki-

小林立 スクウェア・エニックス

最近の麻雀漫画第2回は『咲』です。新宿のルミネ2の本屋にも置いてあるところをみると、他の男らしさ爆発系麻雀漫画とはひとあじ違うようです。1巻だけは発売当時に人様からお借りして読んでいたのですが、既刊3巻分を購入しました。


┃あらすじ
高校1年生の少女・宮永咲は、幼馴染みの京太郎に誘われて麻雀部の部室へ遊びにいく。その場にいた部員の原村和、片岡優希とともに半荘3回を打つものの、咲の成績はぱっとせず終わるが、実は彼女は意図的に点数を操作し「3回ともプラマイゼロ」にしていた。中学時代に全国優勝という成績をおさめていた和は咲を追い掛けもう一度打ってほしいと頼むが、咲は言う。「私は麻雀 それほど好きじゃないんです。」後日、部長に連れられて再び部室を訪れた咲は打ち方を変えるように言われ、トップを取る。咲は和に楽しかったと声をかけるが、和はそんな彼女を冷たく突き放す。しかし、麻雀部で全国大会にいけば、いまは離ればなれとなった姉に再会できるかもしれないと考え、咲は麻雀部に入部を決意。彼女の入部五の練習で、優希を気づかって役満見逃しをした咲に和は退部を迫るが、それは本心からではなく、咲が手加減をしていると自分は楽しめない……、咲とともに麻雀を楽しみたいと思ってのことだった。ふたりはインターハイ出場を夢見て、弱小校から全国を目指す!






なんというか……スラムダンクとか、そういう学園熱血部活漫画のノリでおもしろかったです。私は高校生の頃帰宅部で、しかも制服がなかったんでこういう青春はありえませんでした……。それを思うと涙がちょちょ切れます……。
あまり麻雀ものと意識せずさわやか青春ものとして楽しめます。用語にはだいたい脚注がついているし、デモンストレーション的なシーンもあり登場人物が説明してくれるし、とても読みやすいです。
主題が高校生のさわやかな情熱っていうのもいいな。高校生のときの、ほかの人から見るとどうでもいいことなんだけど、自分にはかけがえのないことへの打ち込みって、誰にでも共感できると思うし、いつの時代も輝いてるテーマですよね。私にもそういうものがあったので、あのころのトキメキを思い出しました。



この漫画、いままで取り上げてきた漫画にはありえない可愛い絵柄なのが私には新鮮でした。女子高かよというくらいの女子濃度が素敵です。男性キャラはいらないのではと正直思います……。ていうか、いまどきこれくらいの百合表現って一般誌でも普通のことなんですか? 思っていたより露骨だったんで、驚きました。ふとんくっつけて寝るのがスゲーですね。いや、現実女の子同士だといろいろやりますけど、なかなかのお手前で。いや〜ほんと女の子だらけですばらしいことです。これを男でやってるのが天ぱ……、いやすいません、違います。



咲たちが住んでいる地域の風景も素敵です。いい具合の田舎ですよね。私も田舎育ちなもので、遊ぶ場所なんかなくて、図書館くらいしか居場所がなくてねぇ……。少女たちが真剣に部活に励むにはうってつけ。とりあえず咲ちゃんちのお風呂がマジ田舎の風呂ってカンジでグッドです。大会の描写だけじゃなくて、こういう日常の描写も今後もあるといいな。登場人物の描写も、たくさん登場j人物が出てくるから適当なのでは? と思ったんですが、おざなりな描写の子がいなくて、丁寧だったんで安心しました。ちょい役はちょい役にふさわしい顔してますが、それをちゃんと見守っているカンジがして。



というわけで、麻雀漫画としてというか、青春漫画として大変満足いたしました。今はまだ県予選ですが、今後が楽しみです。イロモノっぽい描写がなくとも、だれもが共通して楽しめる漫画だと思います。私はイロモノではと思って避けていたんですが、こういうの苦手な人でも、ストーリーがしっかり王道なんで、楽しめると思います。この漫画家さんはそういう描写に頼らずともいけるのではとも思います。





┃イロモノが苦手な理由について
私はアニメ絵が好きではありません。
アニメ絵っていういい方はよくないので言い換えると、表現への欲求とそのアウトプットが逆転しているものが好きではないのです。
「こういう絵が描きたい・好きだからそれに合わせて絵や漫画、話を描く」というのが信じられなかった。私くらいの歳(20代半ば)の人、私以下の歳の人って、そういう人多いと思うんです。まんがやアニメを見て育って、まんがやアニメをお手本に絵を描いてきた人たち。「なんのために表現をしているの?」と思ってしまうのです。もっと表現したいことはないの?あなたが表現したいことはそれで本当に表現できてるの?ってどうしても思ってしまって……。
そういう絵のまんが・アニメって、ジャンルは大違いですけどku:nelみたいなものなのかなとも思ってるんです。
ku:nelの意義って、3年くらい前までは全くわかりませんでした。なんとなくきもちいいもの、なんとなくおしゃれなもの、なんとなくはやっているもの、そういう「なんとなく〜」ばかりで、あんたなにしたいんだと。
そういう目的意識や思想、表現への希求がないものが全く理解できなかった……。でも、今は少しわかるようになってきました。そういうものを迫害してはいけないというか……、自分に理解できないことを否定したくないと思うようになりまして……。
表現というものをあまりに神聖視していること、自分のいままでやってきたこと、学んできたこと、周囲のひとたちの影響や環境要因でこういう偏った考えをしてしまいます。表現をしつづけることでしか、自分を確認できないような人を見てしまうと、こういう思いがつのります。「なんとなく」なんて、舐めたことは言えないんです。内輪感が嫌いなこともあるかもしれません。てめーが何言ってんだ、っていうような、えらそうな言い方ですみません。でも、「なんのためになにをどうするのか」を考え、それにあったベストを選ぶことを、表現をしていく上で忘れたくないのです。
あと、私がバタくさい絵が好きなのは、昔のもののよさがわかる人間を気取ってるとかでは全くなくただの性癖ですので、スルーをお願いいたします。バタくさ路線といたしましては、いまどきの人ですと大越孝太朗が好きです。