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麻雀漫画と昭和の日本映画と文楽(人形浄瑠璃)について書くブログ

ル・レエール リマジネール ル・サンボリック

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麻雀漫画の描く世界は、現実界の出来事か想像界の出来事か象徴界の出来事か?


東浩紀は、かつて、ラカン精神分析の用語「現実界(ル・レエール)」「想像界(リマジネール)」「象徴界(ル・サンボリック)」を用いて漫画・アニメ・ゲーム、或いは社会を読み解こうとした。
彼は、現在の漫画・アニメ・ゲームを通し、現代社会には現実界想像界しか存在せず、象徴界の力が減退しているのではないかと書いている。これを東浩紀自身による解説と私の解釈で簡単に言うと、「今の若者はすごく近いところと遠いところしか認識しない」ということらしい。自分のごく身の回りのこと(象徴界)と、世界の破滅(現実界)とが直結できるような感覚であるということだ。そこには、象徴界…社会との全体性、社会との関係性やコミュニケーションが著しく欠落している。このような認識は、後に「セカイ系」と称されることとなる。(これを概念としてきちんとした論考で提示したのは東浩紀が先だと思うのだが…どうか。)
そして、現在のオタク的な作品は、「形而上学的」志向を持った作品が多いと東浩紀は述べている。現在の漫画・アニメ・ゲーム、或いはライトノベル類が「形而上学的」であるというのは、私も感じることだ*1。「社会性」とは、なにごとにおいても、最も重要なことのはずであるにも関わらず。


一方、麻雀漫画は、一般の漫画とは異なる独自の世界観を形成しているように思う。私は(片チン信者となるまでは*2)そこに一番の興味があった。麻雀漫画には独自のセオリーがあると感じたからだ。


麻雀漫画には、世界の終わりほどに日常生活と遠いことは描かれていない。麻雀をすることが麻雀漫画の本筋なので、あくまでもごく身近なこと…東浩紀の言葉を借りれば、「想像界」の出来事を主体に世界は進んでゆく。しかし、そこで展開される物語そのものは超高レートであったり、血を賭けたりなどしちゃっていたり、超常的なアガリであったりと、実際には現実や日常生活からは隔絶した出来事である。特に神憑かりなアガリが連発する、私の中で「神話系」に入るような麻雀漫画*3に至っては、「象徴界」をセカイ系以上にかっとばす勢いで「現実界」に跳躍しているようにも見える。


しかし、麻雀というモチーフを使う以上、麻雀漫画はこの上ないほどのリアリスティックな感覚を読者に与え続ける。読者にとっては、麻雀とは、あくまで現実の中の出来事のはずだ。空想や仮定の世界で起こる出来事ではない。神憑かりな展開を見せる漫画に、そのアガリありえないだろ!というツッコミが入りまくることからもそれは伺い知る事が出来る。これは、あくまで現実と地続きの世界が展開されているからこそ麻雀漫画はおもしろいということのあらわれなのではないだろうか。


さて、特に博打系の麻雀漫画になると、麻雀は・博打は、或いはその物語は、あくまで社会の中の出来事であることが強調される。博打のレートやアガリなどでは超常的なことを描いていながら、ここまで「社会」を強調する点が非常に興味深い。麻雀という一見社会的からは隔絶されたようなモチーフを使いつつも、麻雀によってむしろ社会との関わりが強調される結果になっている。
麻雀漫画、殊に麻雀劇画においては、麻雀は、想像界から現実界へアクセスするためのツール象徴界となっているのではないだろうか。





………疲れてきたので後日につづきます。

*1:とか偉そうに言ってみたが、実は漫画はここに書いているような漫画以外はあまり読まないし、アニメはアートアニメーション以外ほとんど見ないし、ゲームはメガテンくらいしかやらないし、ライトノベルに至っては全く読まない私。

*2:片チンは基本的に全肯定

*3:神話とは、作り手の顔が見えないという意味。私は、読者が萌えるだろう、笑うだろう等の狙い的な作為を持って書かれていない作品を指して使っている。かつ、そういう漫画はちょっと神憑かりであったりする。麻雀漫画で言うと『哭きの竜』や『天牌』。