TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

 アカギの髪が白い理由

まあ、アカギの髪の毛は白いわけです。
なんかキンマの表紙ではたくあんみたいな色に塗られてることもありますが。


さて、そういえばそもそもなぜアカギの髪は白いのでしょうか。
1.先天的に白かった。
2.後天的に白くなった。
3.死神と接吻したから。
個人的にはアニメガイドブックの裏表紙に書いてあった3のアオリの頭のおかしさが実に素薔薇しく、愛しく思うゆえ、絶大な支持を寄せたいと思いますが、『アカギ』単行本1巻アオリに「それまでの短い人生をいやが応にも人に想像することを強いる真白な髪」とあることを踏まえると、先天的ではなく後天的に髪が白くなったことが考えられます。しかし、この文章を福本伸行が書いたとは思えないので*1これは公式設定とは解釈しません。
問題は福本伸行が「アカギをどう他者と区別しようとしたか」です。インタビュー等で作者自身が明確に答えているとおり、『アカギ』はアカギという天才の思考を描く物語であり、アカギ以外はゴミめらなわけです。つまり、アカギは他者と明確に区別されるべき人物ということになります。
まずひとつめの区別は「美少年にした」。いえ、そりゃ「二枚目じゃな」*2級にムチャがあることはわかっていますが、相対的に見ると美少年であることと、オードリーヘプバーン効果が働いていることを踏まえると全然オッケー。正直あの絵ヅラでは美少年もへったくれもないのですが、ず〜と見てると確かに美少年に見えてくるのでそういうことにしておいて下さい。しかし、「美少年にする」だけでは他の登場人物との差別化が足りない。それゆえ「髪の色を白にした」という漫画的記号による都合が最も大きいと思われます。
では、アカギの髪の色が白であることにはどのような意味があるのでしょうか。


白は、日本において、文化人類学的・民俗学的には「ハレ」の色であり、非日常の色です。特にこれが人間の身体自体に適用される場合、どのような意味を持つかを考えます。身体の白ついて、民俗学者宮田登の論文(ていうかエッセイ)から見てゆきます。

白と人神
 白に対する経験領域のなかで、白と認定されることによって人神の要素を作り出す事例を次に考えよう。
 たとえば白子の存在である。白子を非日常的存在とするのは、日本の場合にも古くからあった。いわば身体障碍者崇拝の範疇に入るものだろうが、白色を表現するが故に神化の契機となる点注目される。『塩尻』に「其脳中珠有と社日受胎の物朋肉納白鬚髪雪の如しなり」(巻七八)、といった記事にも、肉が白く鬚も白いという存在が、たとえば頭のなかに珠をもつと信じられ、かつ社日に誕生したのだと異常視しているのだ。………(以下略)


白い人と神託
…(前略)…
 若白髪は幸運のしるしだと考えるのが一般の常識だが、これを一歩深めると、凡人とは異なる霊力の証でもあった。…(中略/白髪白鬚の姿の外来神が奇跡を起こす=水害を予言し民衆を導くという内容の白鬚水・白髪水の伝承についての解説)…
 このように、白が肉体上に特別な痕跡をしるしたと思われる部分が象徴的な意味を持ったことを、上記の資料は示している。とりわけ身体の白の部分は皮膚の色、髪、鬚のところに示され、そして白い人は神託を下すことによって、一般民衆より崇拝され神化する過程をとることがわかるだろう。

宮田登「白のフォークロア

以上のことを踏まえると、伝承における「白髪」は、単純に老齢を表す記号としてではなく、これを超越性のシンボルとして扱っている点が見受けられます。白い髪の人は超越性を持った人であり、あるいは白髪が超越性のシンボルであると言うこともできるでしょう。
『アカギ』の場合、アカギは他者と明確に区別されるべき人物であり、そして他者を超越する存在であることを考えると、髪が白であるということはそれ自体に象徴的な意味があり、まさにそれによってアカギという人物が「非日常」であることを体言しているキャラクター的記号であると言えます。


ただ、福本には設定萌え要素は全くないと考えられるため、おそらく天然で「髪の色を白にした」のだと思います。つまり、福本伸行の深層心理のなかに「白は聖性と結びつく」という心意があったと考えられるのです。うーん、実に文化人類学的漫画。さっすが。



しかし、どうして『アカギ』の登場人物達はアカギの髪の毛の色が気にならないのか、それは疑問です。ていうか福本はアカギの髪が白い事を忘れてやしないかと、ちょっぴりドキドキしている私です。だって今って鷲巣様も白髪だから他者との区別もへったくれもないんだもん。


┃参考・引用文献
ユートピアとウマレキヨマリ』宮田登宮田登日本を語る シリーズ8)吉川弘文館 2006.10



…とここまで書いてきて、学生時代、色彩学をまじめにやらなかった自分を反省する私であります。色彩の文化人類学的解釈には興味がありますので、もう少し調べてゆき、また折に触れて書いてゆきたいと思います。しかし、私は中公新書折口信夫『古代研究』シリーズをどこへやってしまったのでしょうか。なんか参考になることが書いてあった気がするのに。あの本は部屋の北東に発生した混沌に飲み込まれ、もはや見つける事はできますまい。『根こそぎフランケン』の7巻もね。

*1:福地誠さんが書いた説もありますが確証がないのでパス。

*2:諸星大二郎『無面目』より