TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

麻雀漫画と昭和の日本映画と文楽(人形浄瑠璃)について書くブログ

 神は細部に宿る

昨夜、池袋・新文芸坐で行われたオールナイト上映「ヤン・シュヴァンクマイエル」特集に行って参りました。現在国内で入手可能なヤン・シュヴァンクマイエル監督作品を上映するという別に貴重映像とかそういうわけではない内容だったのですが、劇場がほぼ満席となるような盛況ぶりでした。

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ヤン・シュヴァンクマイエルチェコのアートアニメーション作家で、クレイやパペットを用いた実写アニメーションを制作しています。クレイやパペットを使った実写アニメーションというと、ピ●グーやナイト●アビフォアクリスマスを連想してしまいがちですが、シュヴァンクマイエル先生の作品はそんな甘っちょろいものではありません。完全に狂気の世界です。彼の作風はシュルレアリズム的であり、マニエリスム的です。チェコきっての芸術好き有名人ルドルフ2世が囲っていた宮廷画家・アルチンボルドの作品(果物が人の肖像をかたちづくっているような絵『ウェルトゥムヌスとしてのルドルフ2世』など)をイメージさせるような造形を含む作品もあります。
さて、このシュヴァンクマイエル作品は常に、幼児期に感じるような 狂気/恐怖/不安 といったイメージに彩られています。この狂気/恐怖/不安は、論理的に感じるそれではなく、生理に迫ってくるものです。


シュヴァンクマイエル作品では、例えば、食べ物を食べるシーンでは、食べ物にソースをかけるとき、指についたソースをテーブルクロスで拭ったり、その指を舐めたりするカットが頻繁に入ります。この「指についたソースを拭う」行為は、実際の日常生活では当然の行動ですが、映画などの映像作品では文法上、端折られるシーンです。通常の映像作品では、食べ物にソースをかけること自体に意味があるわけではなく、主人公がものを食べているシーンであることを見ている人にわからせることのほうが重要だからでしょう。実写映像作品は余計なものが映ってしまうと情報過多になりすぎて、見る人が混乱してしまうので、できるだけ最小限の演技・演出でものごとを表現するほうがよいのですが、しかし、シュヴァンクマイエル作品では「食べ物を食べる行為に付随する感覚」のほうが食べ物を食べる行為そのものより重要な意味を持っており(或いは食べ物を食べる行為自体には意味がない)、それゆえ「ソースを使う上での動作とその始末」(にまつわる感覚)が何カットも使って執拗に、それこそ妄執じみて描かれているのだと思います。確かにソースが指につくのはイヤですが、それをわざわざテーブルクロスになすりつけている映像を何度も見せられるとは吐きそうになります。
末端や些末なことをクローズアップしすぎて、物事の本質が見えなくなる。*1ドグラマグラ』的な不安感や狂気とはひと味違うキ●ガイっぷりを発揮するシュヴァンクマイエルの妄執は、映像を見ている人に生理的不安感・嫌悪感を抱かせます。3分に1回は吐きそうになります。しかし、生理的嫌悪感・強迫観念に満ちているからこそ、私はシュヴァンクマイエル作品が好きです。こういった生理的な感覚に対する描写は、あらゆる人が持っている感覚でありながら、そう多くの人がなしえるものではありません……………が…………、思い当たる人がひとりいました…。


前置きが長くなりましたが、この「異様に強調された末端」「ものごとの末端や些末なことを執拗に描写する」という作品として私がほかに思い出すものは、福本伸行の漫画です。
例えば、よく言われていることですが、福本作品では「煙草の始末」が執拗に描かれます。煙草を吸ったら当然灰や吸い殻が出るわけですが、通常、漫画においては煙草は飾り・アクセサリー的なアイテムなので、煙草の始末まで執拗に描写する必要はありません。あくまで「煙草を吸っているということ」や「煙草(自体)」に付随するイメージが重要なのです。吸い殻をどうするか灰をどうするかは物語の根幹には関係がないため、通常それらの処理は演出的意図でもない限り、はしょられます。しかし福本先生はそれが気になってしまうらしく、煙草を吸っている登場人物がいるカットにはちゃんと灰皿を描いたり、一度土に埋めた吸い殻を掘り出してポケットにしまう描写が出てきます。正直、狂気を感じます。また、タタミや藤の椅子の目が全部執拗に描かれているのもかなり恐いです。タタミの目は全部ビッチリ描く必要はなく、タタミであることがわかる程度にちょいちょいっと線を描いておけばいいのに…、あれは絵の勉強をした人なら絶対にやらない描写です。むしろやるなと教えられます。福本先生が絵がヘタ(失礼)なわりに描写自体は異様に細かいことは、私に生理的不安感を抱かせます。
また、『天』の最後で、庭にハダシで降りていいかどうかという話が入りますが、あのような些末な問題を例え話として持ってくる事自体「きちんとすること」への妄執を感じます。多少のことなら「神経質」という言葉で済ますことはできますが、ゴキブリまで整列して走らせている(『カイジ』)のを見ると、福本先生の「きちんとしなくてはいけない」強迫観念は、完全に「妄執」の領域です。
こういう絵ヅラや例え話での妄執はまあいいんですが、私が最も気になるのは、「ルールの取り決め」にまでこの妄執が及んでいることです。例えば、『アカギ』の鷲巣麻雀6回戦開始時しつこいくらいチョンボに関する規定について話し合ったり、『カイジ』十七歩編冒頭で延々とルール解説が入ったりしたのは、別に引き延ばしでもなんでもなく、福本先生が「万全を期さないと気が済まない」性格だからだと思います。ものすごくこと細かに規定しないといけないという不安感・強迫観念に捕われ、そのため漫画としての構成が破綻するほどに説明が長くなっているのではないでしょうか。
(『銀と金』の誠京麻雀では、誠京麻雀自体の、麻雀というゲームを進行する上での基本ルールはたいして説明がないのに、金の話だけ執拗に説明されていたのが印象的でした。)
勝負のあとの金銭の受け渡しについてもしつこく描かれているのは、漫画としてのプロットだけでなく、福本先生自身の性格に由来する不安感や強迫観念から描かれていることだと私は思います。何かひとつのものごとをやるにしても、それに関して次々に生まれてくる不安、それを解消するには末端に及ぶまできちんと取り決めていかなくては気が済まない。あらゆる事態に備えていないと不安で仕方がない。これもまた杞憂を通り越して妄執じみてきていますが、確かにそういった妄想は誰にでもあることなので、『カイジ』でも『アカギ』でもやたらと渦巻いている「不安感」の描写は生理に迫ってくるものがあります。だれているとか引き延ばしとか言われますけど、あれはもう妄執なんだから仕方ないとか思えばなんとなく許せてきます。


なんか、「シュヴァンクマイエルと福本の比較」というありえない話になってしまいましたが、何かの妄執に取り憑かれているこの2人には決定的に違うところがひとつあります。それはシュヴァンクマイエルは完全な確信犯(自分が描いているものが妄執だと自覚している)で、福本はそうではないということです。


とか書いちゃったけど、これで福本先生が確信犯だったらすごいですね。金銭の受け渡しについては、ある程度自覚的だったんだと思いますが。


さて、文芸坐では、昨日10/14から増村保造特集が始まっています。これもかなりイケテル内容となっているので、何回かは観に行きたいです。しかし、あの怪作はやらないのか…。

*1:先日知人の方々とミスチョイスに行ったとき、「親がダブ東ドラをポン」したのを見て、「なんとかせねば」と思いながらまわしていたら、「ひとまず一通のみがカンチャンでテンパイ」し、「親に振り込むと即死するのでリーチせずこのままにしておく」ことにしたのはよかったのですが、この時点で「一通が確定してるのはいいけどカンチャン」「この変なカンチャンなんとかならんか」ということにしか頭がまわらなくなり(すでになぜそんなカンチャンになったのかを忘れているバカ)、数巡後あがった時に周囲の方に「ナイスあがりですね」と言われて「え、なんでですか?」と意味不明なことを聞いてしまったことを思い出しました。あれは頭が悪過ぎて恥ずかしかった…。