TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

 運王

片山まさゆき 講談社
イブニング 2002.9〜2004 連載

もし、すべてのギャンブルに常勝できるほどの強運を手に入れたとしたら…………?


┃あらすじ
点5の雀荘で糊口を凌ぐ?雀士、新月闇音(ゲッツー)はある日、いきつけの雀荘で照夜満月という麻雀初心者の青年に出会う。彼からカモろうとした矢先の東1局1巡目、ゲッツーは起家・照夜の国士に振り込んでトンでしまった。その後も4連続で起家を引いた照夜が他家をトバすアガリを見せ、照夜の次の誰にも親番が回らなかったまま彼は帰っていった。数日後、ゲッツーは競馬場で万馬券を手にする照夜と再会する。彼は何者なのか?照夜にこれほどの勝ちをもたらす「運」とは何なのか?



イブニング連載ということで、この漫画には解説が必要なほどの闘牌は出てきません。やたら景気のいいアガリがいっぱい出てきます。この漫画の世界には、「運」はこの世に一定量あって、強運の持ち主はそれをたくさん持っていて、運がない人は少ししか持っていないが、その運の量はずっとひとところに一定値を保っているのでなく流動的で、運のある人から運のない人へ運が流れることもある…というような「運」の概念みたいなものがあります。従って、麻雀もギャンブルも流れとかじゃなくて、運そのものの質量に大幅に左右されています。よって正直この漫画、麻雀漫画ぽくないです。


この漫画で印象的だったのは、一番の強運の持ち主で、麻雀にも競馬にも負けない照夜が、麻雀をしているときもほかのギャンブルをしているときも、あまり楽しそうな顔をしていなかったことです。ほかの片チン漫画だと、第1話当初、楽しそうな表情をしていない柊や夏月は話が進むにつれ、だんだん楽しそうな表情になっていくのに。私の中では、片山まさゆきの漫画の登場人物の男の子は、「いや〜〜、麻雀って、ほんっっと〜にいいもんですねぇ〜〜」という輝いてる表情をしているとこが好きなんですが、照夜はそれがないように感じます。対してゲッツーは手なりで打つのではなく、自分で考えて自分の意志で打っているから、アガリがしょぼくてもそれほど勝ててなくても、楽しそうに見えるのでしょうか?照夜と同じく強運の持ち主のめろん畑は、麻雀って楽しい!っていう表情をしていましたが…。ほかに楽しそうな表情をしていないと言えば爆岡です。『ノーマーク爆牌党』をはじめて読んだ時は、あの表情とあの能力に、「この子麻雀やってて楽しいのかねー」と思ったものです…。
物語終盤、強運で金持ちになった照夜から買収したホテルをやると言われて断ったゲッツーが、雀荘での5000円の儲けは嬉しそうに数えるシーンがあります。そこでゲッツーが言う「俺は自分の力で手に入れたものしかいらないのさ」という台詞は、ただのカッコつけ以上に、本質的で核心をつく台詞で、好きでした。

多分、『運王』のテーマは「勝負の勝ち負けは運に大幅に左右されるが、運だけに左右されるのではなく、勝負に対する意志の強さに左右される」ということだと思います。ですが、個人的には「勝負の本当の勝ち負けは、その勝負を自分の力で切り開こうとしているか、その勝負を楽しむ心を持っているか」でもあると思いまます。ゲームは楽しくやりたいですよね。『牌族!オカルティ』のオカルトシステムNO.1「対戦相手にリスペクト!」、すごく好きでした。テーブルゲームでは、参加者みんなで楽さを共有したいです。私はあまりギャンブルに興味がないからこういうこと言うんでしょうけど。
ところで、先日の近代麻雀のリスキーエッジ作者同士対談での押川先生の、ギャンブルは負けてるときのほうが楽しい、という発言、実にいい発言だと思います。挫折したり負けたことがなきゃ、おもしろくないですね。なにごとも。