TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

 東1局五十二本場

阿佐田哲也 角川文庫『東1局五十二本場』に収録

「東一局」とタイトルに入っているように、文庫本でわずか20ページほどしかない短編ながら、その積み棒が五十二本まで積みあがるほどの長い長い物語。


麻雀好きの若者は麻雀業者に尋ねる。「麻雀の極意」とはなんですか?と。麻雀業者は答えて言う。麻雀の極意とは「自己管理」にある、と。
ある晩春の夜、若者は、麻雀業者と、彼が連れてきた「鶴」と「角刈り」と卓を囲むことになる。半荘1回、親の聴牌連荘、偶発役なし、ただしイカサマが発覚した場合はダブハコ分を全員に払う、学生レートの勝負。ただし、若者以外は50万円の差し馬を握っていた。開局。東1局、起家は若者。0本場から4本場までは流局し、5本場で若者が2600オール(は3100オール)をあがる。6本場、若者は索子のホンイツから中を落としての九蓮宝燈ツモ。続いて7本場、8本場とも若者のアガリ。思わず「なンとか、ペースにさせてもらっているようですね」と言った若者に、麻雀業者の返答は冷たい。若者は50万の差し馬のカヤの外である自分の点数には彼等は興味を持っていないことに気付き、躍起になる。若者は自分の勝負師としての腕を彼等に認めさせたかった。9本場は流局。しかし、10本場が流局したとき、若者はあることに気付く。見えた角刈りの手牌は三暗刻確定カン3索。しかし鶴と若者は終盤3索を捨てていたのだ。なぜ角刈りはアタらなかったのか?鶴と角刈りはコンビなのか?しかしそれならば、どうして角刈りはそんな怪しい手牌を開いたのだろうか?……11〜16本場は14本場で若者が3面張をツモった以外は流局。しかし流局した局でも全員誰にも振らずの聴牌で流局していた。若者は呟く。
「落ち目になったなァ、ちょっと考えなきゃいかン」
「落ち目ってことはないでしょう。絶好調じゃないか」
「いや、ここ、たるンでます。内容が悪い。まだ、東の一局じゃないですか。」
自分で言っておいて、若者に電流走る。そういえばまだ東一局だったのだ。開局から、3時間近く経っているというのに。ここから、若者の地獄のような連荘がはじまる。いや、思えば起家決めのサイを振ったときから若者の地獄は始まっていたのかもしれない。


今回はスト―リーは前半だけをご紹介しました。この作品はぜひ実際に読んで頂きたいです。小説としてのおもしろさが全面に出ている作品だと思いますので。

『東一局五十二本場』は、停滞しつづける空気、永遠に続く「現在」の恐怖、逃れることのできない強大な力…、そういった理論的に響いてくる恐怖を描いた掌編です。ちょっとクトゥルー神話みたいですね。いえ、ほとんど読んだことないですけど。相手に連荘され続けることより、自分が連荘「させられ」続けることの方が恐ろしいという、異色でありながらリアルな恐怖です。かなり文学的な趣の強い作品でありながら、麻雀というゲームを進行していく上でのルール上の落とし穴に迫る、興味深い作品だと思います。

と申しますか、40本場やら50本場まで積まなくとも、私は連荘が苦手でした(今も嫌です)。2本場あたりからすでにビクついています。5本場以降の2翻縛りルールありなんて最悪です。だって連荘って恐いじゃないですか。ここはもう誰かに振っていいから連荘やめさせてほしい、と思ってしまいます。この小説のように、微トップでの連荘なら特に。

これもまた嶺岸信明さんが『哲也十番勝負』で漫画化されています。若者が瞬(天牌)っぽくていいです。この漫画をじ〜っと読むと、「30本場以降ともなると積み棒の百点棒は10本ごとに千点棒に両替えして置いていてもいい」というなんとも微妙なことを知ることができます。そこまで積んだことないから実際にそうするのかどうかは知らないけど。嶺岸先生の描く鶴*1はかっこよくて、個人的にお気に入りです。

*1:今思えば菊多ぽい 20061228追記