TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

 哭きの竜

能條純一 竹書房
別冊近代麻雀 1985年4月号〜1990年12月号連載
全7巻

┃あらすじ
関東最大の広域暴力団・桜道会の支配する裏賭場に現われた男はよく哭いた。麻雀において「哭き」とは翻数が食い下がり、リーチができなくなり、手牌の進行が制限される、デメリットも多い技術のはずだった。しかしこの「竜」は違った。竜は哭くことで大きな手を作り、周囲のnotKATAGIたちを次々に魅了する。竜の魔性に魅入られた桜道会会長・桜田道造、若頭・甲斐正三らをはじめ、notLKATAGIたちは竜の持つ「運」を巡って抗争を始める。しかし竜はnotKATAGIたちの言葉に耳を傾けることはない。彼は静かにこう呟く。「あンた、背中が煤けてるぜ……」




強運の雀士・竜と、竜を奪い合う極道の物語。

ストーリーはこの一言に尽きます。実際、麻雀自体の中身はあんましないです。竜を哭かせたくてワザ打ちしてる奴もいるくらいです。麻雀よりむしろ極道の抗争がメインです。
というわけで、この作品は、今迄の麻雀漫画でポンでご紹介した片山まさゆき作品のように、麻雀の技法自体に重きを置いているのではなく、作品の持つ世界の雰囲気に重きが置かれています。そしてその雰囲気こそがこの漫画の見どころだと思います。
能條先生の作品には…なんというか…満月が出ているのにどしゃぶりの、宇宙の藍色が出る程澄み渡った夜…みたいな、歪んでいて違和感があるのだけれどとても美しい、文学的な美しさのある空気感を感じます。この作品について、「麻雀漫画というより極道漫画」と言う人も多いけれど、極道漫画と言うよりは70〜80年代の仁侠映画の耽美的雰囲気があると私は考えています。それは能條先生の絵や台詞回し・語り口、画面構成によるものが大きいのでしょう。当然、人物の絵もとても巧いのですが、ギリシア彫刻的な美ではなく、日本画的な美のある絵です。目が片方だけ二重瞼であったり、唇を尖らせて喋る仕種など、登場人物が少し歪んだ表情であることがより一層絵の美しさを引き立てています。能條先生の漫画は、一見、能や文楽のような雰囲気をたたえているのですが、よく読むとそれを演じているのはすべて面もつけていない生身の人間、という歪み感がとてもカッコイイのです。
それと何と言っても登場人物の狂いっぷりが最高。特に竜と最後に打つ雨宮がだんだん狂っていく様子は鬼気迫るものがあり、引き込まれます。

ひとつさらせば自分をさらす
ふたつさらせば全てが見える
みっつさらせば地獄が見える
見える見える堕ちる様

この台詞、大ブームでした。私の中で。「あンた、背中が煤けてるぜ」は当時おこたまだった私にはかちかち山しか連想できなかったので。



さて、『哭きの竜』連載中も絵がカットビうまかった能條先生ですが、ビッグコミックで連載していた『月下の棋士』でさらに絵が美しくなり、その後もいい歳こいてさらに絵がうまくなる一方。
私の中では
イケメンの小畑健
イケ893の能條純一
と言われているくらいです(?)。
そんな能條先生が1年程前に近代麻雀に再降臨。『哭きの竜』の続編、『哭きの竜・外伝』の連載が開始されました。何より、絵があまりにうますぎて、むしろギャグに見えます。頼むから福本先生や片チンを隣に並べないで!!
現在、西の狂犬・薫チャンが何故かあがり牌を見逃して緑一色に向かっています。ちょっと『理想雀士ドトッパー』の柊くんがツモり四暗刻を見逃して理想雀士から四暗刻単騎を直撃したことを思い出させる、豪快な打ち筋ですね。
私なんかがあれ(アタリ牌を哭く)を真似したら、手牌がひとつもなくなってしまいそうなもんです。トイトイとか三カンツやってる時にたまにあります。あっれー!?リンシャンツモらないと手牌ねー!的なひどい状況。
ちなみに私は三色同刻をあがったことがありません。「7の三色同刻は実戦ではまず見かけん」とか浦部(@アカギ)が言ってたけど、それ以前の問題ですな。



ていうか、鈴木清順あたり、突如雷に打たれて「哭きの竜を映画化じゃあぁぁ〜〜っ!」とか言ってくれないだろうか。



それにしても、ギャルゲー級に極道メンズにモテるね、竜。
赤木さんもだけど。