TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 7・8月大阪夏休み特別公演『国言詢音頭』国立文楽劇場

プロモーションで「残酷」「大人向け」等の言葉が使われていて、「文楽はいつも残酷で大人向けなのでは……???」と思っていたが、なるほど。

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初右衛門は、以前、玉男さんが「人を斬る役はゾクゾクする役、初右衛門とか」とお話しされているのを聞いて、どんな役なんだろうと思っていた。今回、夏休み公演の配役が発表されたときは、由良助が玉男さんじゃないことに衝撃を受けたが、『国言詢音頭』初右衛門に配役されていたので、やったー!と思った。

私が玉男さんの役で好きなのは、文七のかしらに代表される、本心を押し殺してじっとした……本心の見えないような役。寺子屋の前半の松王丸など、何を考えているのかまったく読み取れない不気味な印象があって、とても好き。表面が白い漆喰で分厚く塗りつぶされて、その内側にあるものをまったく推し量ることのできない、不可解なおそろしさを感じる。松王丸は本心を隠しているという設定だが、いっぽうで、本当に本心がわからない役、こちらはかしらは団七だけど、すしやの権太のような、本心が伺い知れない凶暴性のある不気味さをもった役もうまい。本心が見えなくて怖いというのは、何か本心を隠していそうだとか、何かを思いつめているというのとはニュアンスが違っていて、ほかの人形遣いにはない佇まいで、特異な印象を受ける。

あまりにシンプルな暴力衝動で惨殺を行う初右衛門は、玉男さんの「本心のわからない不気味な役」にバチッとはまっていた。

大川で伊平太に酷い内容の手紙を読み上げられてもじっと聞いていたり、大重の前半で茶屋の者や菊野たちに鷹揚に振る舞うさまは、演技がシンプルゆえ心情がわからない。後半は、行動がめちゃくちゃにも関わらず、凶行に対する芝居上のエモーションがまったく読み取れなくて、心情がわからない。前後とも違う意味で本心がわからなさすぎて、怖い。もうちょっと芝居的なわざとらしい味付けをするとわかりやすくなってマイルドになると思うんだけど、それを断ち切ったような演技だった。

初右衛門のわからなさをもっと正しく言うと、「本心が理解できない」かな。初右衛門が怒った理由自体はわかるんだけど、あそこまで凶行に芝居的な表情付けをしていないと、たかだかその程度でここまでするか!?という意味不明の恐ろしさがある。理由のわからない暴力はあまりに生々しく、リアルで、底冷えするように恐ろしい。数年前に観た『伊勢音頭恋寝刃』の十人斬りのシーンは観客大爆笑だったけど、今回は殺戮シーンで誰も笑ってなかった*1

殺戮の場面は玉男さんの力強い印象が大変に活きていて、初右衛門が薩摩武士である設定にもかなり納得感があった。大重へ忍び入る前に刀の鞘を叩き割る演出があるが、それが趣向に堕しないものがある。段名の「五人伐(ごにんぎり)」は「伐」の字がやたら怖いけど、確かにこれは「伐」だわ……と思わされた。

初右衛門が斬り落とした菊野の首を掴み上げて顔を向かい合わせ、唇をゆっくりと舐め回すところは、エログロとかそういう概念じゃなくなっていた。行為自体に生々しい印象はあるんだけど、線の太さとバイオレンスが全面に出て、怨恨や情痴といった湿り気がほぼ吹き飛んでいるためか、エロス感が低すぎて、動物と化していた。*2

本作は内容が(結果的に)現代的と言われているようだが、初右衛門に古典的な作為感が薄いからか、見た目のトーンもかなり現代的になっていた。「残酷」って、私のなかでは湿度の高い冷たさをもった有機的なイメージだけど、この初右衛門だと、湿度も温度もない。即物性がかなり高く、無機的。暴力に理由も必然性も見えなさすぎて、もはや現象にしか見えない。大変にモダンな印象だった。というか、これを「暴力」だと感じること自体が、現代的なのだと思う。

ちなみに玉男様、普段は滅多に特殊な着付はお召しにならないところ、今回は第三部の主役だからか、スチームミルクにチョコレートシロップを少し垂らしたような、わずかに茶みがかったちょっと特別な白の着付をお召しでした💖

 

 

 

以下、あらすじ含めた細部。

大川の段

初秋の夜、曽根崎新地の遊女・菊野〈人形役割=豊松清十郎〉は北浜の大川の川岸を仲居お岸〈吉田簑一郎〉、小女郎〈吉田和馬〉とともに歩いていた。菊野は茶屋・大重へ行かねばならないと言い、絵屋仁三郎の船が通りかかったらこれを渡して欲しいと仲居に巻物状の手紙を預け、小女郎とともに立ち去る。

そうこうしていると、堂島の蔵屋敷に勤める薩摩藩士・八柴初右衛門の若党・伊平太〈吉田玉助〉がやってくる。主人初右衛門の行方を尋ねる伊平太に、仲居はメチャクチャな受け答えをする。伊平太が脅しかけると、彼女は驚いて逃げていった。

伊平太がふと見ると、あとに手紙が落ちている。拾い上げ開いて見ると、それは主人初右衛門が入れあげている菊野が、蔵屋敷出入りの町人・仁三郎へ宛てた恋文だった。そうこうしていると、そこに当の初右衛門〈吉田玉男〉が通りかかる。伊平太は初右衛門の新地通いを諌めるが、聞き入れられない。そこで先ほど拾った手紙を読み上げ、菊野には間夫がいること、初右衛門を嫌っていることを知らせる。初右衛門は黙って聞いていたが、伊平太が宛名の絵屋仁三郎の名を示すと、手紙を奪い取り、女郎は所詮女郎、新地通いもただの遊びであると言う。伊平太は胸をなでおろし、帰国の準備に急いで帰って行った。

初右衛門が手紙を改めているところへ、大川をにぎやかな遊山船がやってくる。そこには菊野とともに、絵屋仁三郎〈吉田勘彌〉が乗っていた。太鼓持〈吉田文哉〉や仲居らは本人がすぐ側で聞いているとも知らず、初右衛門を野暮天だの何だのと悪口を言い散らし、菊野もまた初右衛門の呼び出しにはぞっとすると言って、さんざんに盛り上がる。初右衛門はその船が通り過ぎて行くのを見送り、恨みの言葉を口にするが……

若党よ、悪口の手紙を本人の前で読み上げるなよ……。そこは「ああいう女には絶対間夫がいて、商売でちやほやしてくるだけですから!」とか、もっとマイルドに言わんかい。と思ったのだが、人形の演技を見ていると、初右衛門は、手紙に書かれている自分への悪口はじっと聞いているが、宛名の仁三郎の名前が読み上げられたところでピコンとする。ここからすると、菊野に間夫がいることや自分を嫌っていることそのものは許容できるが、その間夫が出入りの町人であることが許せないということになる。ここに初右衛門のプライドのポイントがあるということなのか。

床は睦さん清志郎さん。軽い部分へのご出演なのがちょっと惜しいけど、ウザやかましい奴らがギャアギャアとさんざん下品軽薄に騒ぎまくる様子が良かった。

それにしても、菊野は仲居に仁三郎の舟が来たら渡してと手紙を預けて立ち去ったにも関わらず、どうしてその直後に仁三郎の遊山船へ乗っているんだ。その舟に仲居が乗っているのも不思議。どういうことなんだろう。

どうでもいいことだが、遊山船の船頭〈吉田玉峻〉が結構イケメン顔だった。船は合計20人以上(?)も乗っていて、沈没しそうだった。それと、若党が右足だけ若干上げて宙に浮かせているのは、そういうポーズなのかしらん?

 

 

 

五人伐の段

茶屋・大重で帰国の宴を催した初右衛門は、別れの土産として茶屋の亭主〈吉田玉誉〉らには薩摩上布、菊野と仁三郎には文箱を贈り、奥座敷で亭主らと飲み直すと言って菊野らの前から去る。仁三郎がその文箱を開けると、入っていたのは一通の巻物状の手紙。それには巻き返した形跡があり、開いてみるとそれは菊野が仲居へ預けたはずの例の一巻だった。手紙が初右衛門の手に渡っていたことを悟った仁三郎は慌てるが、菊野は初右衛門に斬られる覚悟があると語る。かつて菊野は絵屋に奉公しており、その折に仁三郎と深い仲になったが、仁三郎の許嫁・おみすに遠慮して絵屋を辞し遊女になった。初右衛門に斬られて死んでも、その身の業と言われて構わないという菊野に、仁三郎は共に死ぬ覚悟を決め、脇差に手をかける。

ところがそこへ絵屋に奉公している菊野の弟・源之助〈吉田清五郎〉が現れる。源之助は二人を諫め、姉には若旦那を巻き込まないよう、仁三郎へは家に戻るように異見する。これを聞かないなら自分から先に自害すると源之助が脇差を奪い取ると、二人は慌ててそれを引き止め、心中はやめると言うのだった。

そうこうしているうちに、大重へ蔵屋敷から迎えの奴〈吉田簑太郎〉がやってくる。初右衛門が奥座敷から出てくると、菊野と仁三郎はその前におしなおり、どんな処置も受けると詫びた。しかし初右衛門は鷹揚に笑い、気にするなと言って二人を許す。二人は泣いて喜び、初右衛門は皆に見送られて茶屋を後にする。


初右衛門が帰った後、仁三郎は酒をあおって安堵の息をつく。そして菊野の情を受けようと言って二階の寝所へ入っていく(こいつ、どんだけ自分の心に素直に生きてるんだ???)。菊野が支度をしていると、源之助に連れられたおみす〈桐竹紋臣〉がやってくる。おみすは仁三郎を案じて参じたと語り、義父のために祝言だけ挙げさせて欲しい、そうすればあとは尼になった気持ちで過ごすと涙ながらに頼み込む。菊野は仁三郎に祝言を勧めることを誓い、また、二階の寝所に灯をともしていないことを幸いに、自分と入れ替わっておみすが仁三郎のもとへ行くように勧める。遊女の姿に着替えさせたおみすを二階の寝所へ連れていくと、菊野は一階の座敷で一人寝支度をする。しかし、みずからそうしたものの、二階の睦言が気になり、菊野は眠れない夜を過ごす。

夜も更けた頃、大重の戸口に初右衛門が現れる。何者かが忍び込む物音に気づいた菊野がふっと起き上がると、初右衛門は彼女に掴みかかって首を締め上げ、影で散々馬鹿にして痴話の種に使っていたことを激しく詰り、恨みの念を並べ立てる。先ほど許すと言ったのはすべて嘘だったのだ。初右衛門は菊野に仁三郎の行方を吐かせようとするが、彼女は答えない。初右衛門は怒りに任せて刀を突き立て腹を抉り、彼女を殺してしまう。そして菊野の首を斬り落とし、血に染まった唇を舐め回すのだった。その物音に寝ぼけ眼の仲居が姿を見せるが、初右衛門はその胴を真っ二つに斬り、そして(確か)太鼓持も殺して、仁三郎の姿を探し奥の間へ入る。

一方、この様子を二階の寝所から見ていた仁三郎とおみすは階下の惨事に震え上がり、窓の格子を外して屋根伝いに逃げようとするが、震える足ではそれも叶わない。おそるおそる廊下へ出た二人は置かれていた長持の蓋を開けるも、そこへ入ることもできず、長持の後ろへ身を隠すのだった。
そうしていると、亭主を殺した初右衛門が戻ってくる。二階の寝所に気付いた初右衛門は、血刀を下げて階段を上がり、蚊帳と布団を斬りつけるが、そこに人の気配はない。仁三郎を探してうろつき回る初右衛門は廊下の長持に気づき、ここかとばかりに蓋を跳ねあげる。刀で長持の中をずたずたに切り裂く初右衛門だったが、ここにも仁三郎がいないことを悟り、ふと見やると格子が外されている。そこから仁三郎が逃げたと思い込んだ初右衛門は階下に降りるも、一階には足の踏み場もなく死骸が散乱している。構わず歩く足には死骸がまとわりつくが、それも平気で踏みつけて出て行く初右衛門。

そこへタイミングよく?、菊野を狙う悪者・武助〈桐竹勘介〉が大重へとやって来る。惨事に気づかずひょこひょこ茶屋の中に入ってしまった武助は、背後にいた初右衛門にアッサリ斬られてしまう。

大重を出た初右衛門は、路傍の用水桶の水で血だらけの体を洗う。雨が降りしきる中、初右衛門は悠々と謡を口ずさみながら夜闇に消えてゆくのだった。


三宅周太郎は歌舞伎『籠釣瓶花街酔醒』の脚本に対し、このように書いている。「(籠釣瓶の脚本は見所が限られており、殺しの場では)刀の祟りが無意味のような気がする。刀の祟りなくて百人斬りをしてこそ劇的の主人公として感銘を深くする。が、刀の祟りでああして殺すのでは、あたかも今日狂犬が人に噛み付くのと同様、噛みつかれた方こそ、即ち、斬られたほうこそ実際いい災難だったと思うだけである」。そりゃそうだなと思っていたけど、同時に、そんな作品古典であるのかなと思っていた。しかし、本当に殺意だけで殺す、それが眼目の演目があったんだな。

今回は予習せずに観たので、「五人伐の段」って、どの5人が殺されるのかな♪とワクワクした。菊野は確実に殺されるとして、仁三郎とおみすも殺されると思ったので(特におみす)、助かるのは意外だった。仁三郎(遊女の間夫)が助かるというのは、題材になった実際の事件でも同じらしい。ただし実説では同衾していたのは菊野の傍輩ということのようだ。さて、菊野、仲居、太鼓持ち、茶屋亭主と殺されて、あとの一人は誰が殺されるのかな、DokiDoki! と思ったら、「誰!?!?!?!?!?」みたいな殺され役が唐突に出てきたのには笑った。「悪者武助」って、名前からして適当さがすごい。

菊野は清十郎さん、令和最初のひどい目役でよかった。首を絞め上げられて刺し抉られるため、顔がほとんど見えないままに手足の先だけをじたじたさせてもがき苦しむ姿が実によかった。ってもうここ清十郎ほとんど関係なくなってるけど……。それに、めちゃくちゃひどい殺されかたをするので、途中からほとんどモノになっちゃってたけど……。個人的には清十郎にはもっと苦しんで欲しかったなあ。観客全員そう思ったと思うわあ(巨大主語)。

異様なまでの惨殺シーンは、もう、素で怖い。菊野の首に腕を回して持ち上げ、口を抑えて胴を抉るところなど、初右衛門・菊野ともにうまく姿勢が決まっていて、自然に見える分、より怖い。初右衛門は体をそらせた菊野の胴に刀を差し込んで執拗に抉るけど、そのとき内臓がぼとぼと落ちてくる。このとき、ぬいぐるみの内臓を後ろにいる介錯の人が袖の下から補給しているのが見えるんですが、そこはちょっとかわいい(かわいくない)。

菊野は脚を払うように斬られ帯が解けて体の形状が崩れ、さらには首をのこぎり引きにして斬られて捨てられると、人形の死体どころか、もう、完全にモノになってしまう。舞台上に「?」なものが落ちている状態。人形遣いさんに持たれていない人形が薄暗い舞台にごろんと置かれているのも怖いけど、「?」なものも、かなり、怖い。初右衛門が仁三郎を見つけられないまま大重から去るまえに、その「?」の傷口を踏んだため足にまとわりつき、やっと足が抜けたと思ったら、その足が血に染まっている描写(人形に内臓?血管?付きの赤い靴下を履かせる)、玉男さん、結構さりげなくやっていらしたけど、よくさらっと流すなと思った。*3 

まあ、個人的に菊野に対しては、おみすを仁三郎の寝所へ手引きした時点で「死んでくれ」と思ったな。紋臣さんが久々のピュアな娘さん役だわ❤️(4月に小浪やってらっしゃいましたが)と思ってノコノコ大阪までやって来たらこの展開で幽体離脱した。初右衛門とはまったく違う方向からの殺意を抱いた。菊野は二階の寝所にあとから懐紙を差し込みに行くのがゲイコマだが、ゆるせん。おみすはおっとりぼんやりした感じのお嬢様で、菊野とは真逆の純朴でおとなしげな佇まいが可愛かった。恥ずかしがって膝を小さくスリスリする仕草が愛らしい。4月の小浪はすごい勢いで焦って恥ずかしがっていたが、今月のおみすは相当おっとり焦っていた。ちなみに、私の席の両側のおじさんたち、菊野と仁三郎がグダグダ話していたところではグッスリおやすみになっていたのに、菊野がおみすと入れ替わろうと言い出したところで飛び起きて、するどいなと思った。

勘彌さんの仁三郎と清十郎さんの菊野は少女漫画風のキラキラ作画カップルでお似合いだった。話の内容からするとイヤな男、イヤな女になりかねないが、透明感のある、それこそ人形のような印象だった。そうそう、勘彌さんのこういうクズ入った二枚目の、中身がぜんぜんなさそう感は本当に良い。「え、この人、おみすちゃんに対してどう責任取ってくれますのん?」というのは観た人誰もが思う疑問だと思うが、それが深刻化しない、いるのかいないのかわかんない感じの中身なさそう感だった。こういう人畜無害感(有害だけど)、なかなか人を選ぶと思う。

初右衛門は大重を出て、裏の石桶の水で足を洗い、血を流した刀を手ぬぐいで巻いて腰に差す。そして武助から奪った下駄を履き、傘を差して雨の中を帰ってゆく。今回はここに本水を使用(舞台の手前側、二の手すりあたりに降らせている)。どうやって人形を避けるんだろうと思ったけど、人形の位置を引いてかなり傘を前に差しかけているとはいえ、傘で受けるからには人形にもちょっとかかるんですね。傘を大きく回して差す初右衛門の所作には輪郭の太い美しさがあった。段切の極めもぎっと決まっていて、よかった。

床は織太夫さん×藤蔵さん、千歳さん×富助さん。芸風はそれぞれ違うんだけど、テンションが近いため、前後でバキッと割れず、緊張感が保たれていた。率直で線の太い演奏がこの浄瑠璃に相応しかった。

しかし菊野が絵屋へ仕えるのを辞め、遊女になったあたりの人間関係がわからん。「おみす様が姉御」と「焼餅焼きのばゝ様」というのは事態にどう干渉してるんだ。源之助はおみす・姉・仁三郎の関係に今後どう対処するつもりだったのか。仁三郎はおみすをどうするつもりだったのか。そして「悪者武助」はどこからわいて出たのか。絵屋一家まわりは人間関係がめちゃくちゃすぎて怖い。現行では上演されない段に絵屋の内での大パニックが描かれているのだろうか。

 

 

 

この演目の見所である残酷描写は、人形浄瑠璃ならではの表現。凄惨な残酷描写や暴力描写って、実写等でやってしまうと、いかにもな露悪に傾きかねない。人形浄瑠璃だと、あくまで人形なので、血生臭いのにねちゃねちゃした汚らしさないというか、不思議にクリアな印象があった。

話自体は本当に簡素なもので、私がふだん文楽に求めている味わいや重厚さをまったく持っていない。しかし今回の上演には大満足。出演者が浄瑠璃の率直さをプラス方面に転化させていた。配役の勝利だと思う。

本作は大正期にいちど断絶し、戦後になって国立劇場が復活した演目とのことで、上演回数が少ないらしく、調べてみたら、初右衛門役って、先代玉男師匠と当代の玉男さんしかやったことがないんですね。ご先代はどうされていたのだろう。NHKから出ているDVDを買ってみようかしらん。殺戮の理由をどこまでイメージさせるかに当代とかなり違いがありそうな気がする。初右衛門の人形配役によって、相当印象が変わりそうな演目だなと感じた。

 

 

 

 

 

*1:梨割チャンは笑ってもらってました!

*2:それにしても、パンフレット等の解説に「菊野は生きているうちは身も心も初右衛門の思い通りにならなかった」的なことが書かれているが、初右衛門、藩の金に手をつけるほどに入れ込んでいたのに、本当にお酌してもらっていただけなのだろうか。裏でキモがられるのは仕方ないけど、菊野は位の高い遊女というわけではないのに、それではかわいそうな気もするが……。それとも、抱え主にお金を払ったとかじゃなくて、茶屋自体の飲食費を使いすぎたり、個人的なプレゼントとかをあげすぎちゃったってこと……?????

*3:ちなみにここ、足のつま先で内臓を摘み上げるやり方もあるそうです。

映画の文楽5 内田吐夢監督『恋や恋なすな恋』― 内田吐夢にとって古典芸能の映画化とは

『浪花の恋の物語』の記事も書きかけだけど、今回はそれを一休み、同じ内田吐夢監督作品の中から、これも同じく浄瑠璃に題材を取った作品について書いてみる。

 

内田吐夢監督作品のうち、古典芸能を原作としたものは4作品がある。『暴れん坊街道』(1957/原作:恋女房染分手綱/脚本:依田義賢)、『浪花の恋の物語』(1959/原作:冥途の飛脚・恋飛脚大和往来・傾城恋飛脚/脚本:成沢昌茂)、『妖刀物語 花の吉原百人斬り』(1960/原作:籠釣瓶花街酔醒/脚本:依田義賢)、そして、最後の作品となるのが、この『恋や恋なすな恋』(1962)だ。

 

恋や恋なすな恋

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『恋や恋なすな恋』THE MAD FOX 予告編

 

 


┃ 映画『恋や恋なすな恋』の概要

本作のストーリーは、浄瑠璃蘆屋道満大内鑑』から取られている。

蘆屋道満大内鑑』は、初演は1734年(享保19年)大坂竹本座、作者は竹田出雲。初演以降全段通し上演がされたことは多くなく、おもに四段目「葛の葉子別れの段」が見取りで上演される(以下、段名表記は文楽準拠)。文楽の場合、「葛の葉子別れの段」のほかには「蘭菊の乱れ(「道行二人の信太妻」の狐葛の葉のパート)」「信太森二人奴の段」が出ることが多い。

見取り上演からはわかりづらいが、『蘆屋道満大内鑑』自体は朝廷内の政治闘争、つまり、善と悪の対立→悪の繁栄・善の衰退→悪の討伐・善の回復を主軸としている。物語全体は、その歴史の巨大な流れによって個人が取り返しのつかない不幸を負う、あるいは歴史的に著名な人物の出自が明かされるという人形浄瑠璃としてオーソドックスな構成だ。

人形浄瑠璃において通し上演は1836年(天保7年)以来断絶しており、『恋や恋なすな恋』公開当時も前述のような見取りで上演が行われていたが、1984年(昭和59年)、国立劇場によって148年ぶりに通し上演が復活され、現在では「大内の段」「加茂館の段」「保名物狂の段」「葛の葉子別れの段」「蘭菊の乱れ」「信太森二人奴の段」が上演可能となっている。この復活は保名に関わる部分を中心としており、道満が実は善の側であることを示す場面など(みぞろが池の段など)が省かれている。実は、この通し上演をした場合の構成は本作の構成にかなり近い。

歌舞伎も簡単に調べてみたが、通し上演は伝わっていないようで、見取りでは文楽同様「葛の葉子別れ」を中心に、「小袖物狂」「信田の森道行」「信田の森稲荷前」を出すことが多いようだった。そんな演目を、当時誰も観たことがなかった通し上演の状態で映画化しようとは、なかなかチャレンジ精神に溢れた試みだ。

↓ 2018年11月大阪公演での「葛の葉子別れの段」感想。原作浄瑠璃の解説も書いているので、本作のあらすじと読み比べてみてください。

 

 

┃ 冗長な王朝ものとしての前半

本作は全五段のうち、一段目「大内の段」「加茂館の段」、二段目「保名物狂の段」、四段目「葛の葉子別れの段」を、一部設定を改変した上で構成されている。プロローグは、以下のような内容。

平安時代。月を白虹が貫き、富士山が噴火するという天変地異が起こり、京は騒然となる。朱雀帝は陰陽師・加茂保憲〈宇佐美淳也〉へ命じ、彼の家に伝わる秘伝書「金烏玉兎集(きんう・ぎょくとしゅう)」を用いて変事の原因と解決策を解明するように命じる。しかしその頃、朝廷では忠臣・小野好古月形龍之介〉と悪臣・岩倉治部〈小沢栄太郎〉が対立しており、この争いが保憲の一家へ影を落とすこととなる。

保憲は自邸の庭の社に祀られた「金烏玉兎集」を確認し、変事の原因は東宮河原崎長一郎〉に御子がないことであると一家へ告げて内裏へ向かう。しかし、その道中、実は岩倉と通じていた家臣・悪右衛門〈山本麟一〉に裏切られ、保憲は殺害される。保憲には二人の弟子、蘆屋道満〈天野新二〉と安倍保名〈大川橋蔵〉がいたが、どちらに跡目を譲るとも告げないままの死だった。このうち道満は岩倉と通じており、保名は小野の家臣だった。さらに保憲の妻〈日高澄子〉は岩倉の妹であり、道満に心を寄せていた。そして保憲の義理の娘・榊の前〈嵯峨美智子〉は保名と恋人関係であり、互いに将来を誓い合っていた。

亡くなった保憲に代わり参内した榊の前は、変事の原因は東宮に御子がないことであることを奏上する。その解決策は「金烏玉兎集」を確認しないとわからず、また、「金烏玉兎集」は正統な後継者でないと中を見ることができないと告げると、大臣らから後継者は誰なのかと問われる。榊の前は、父は保名を後継者に指名していたと言うが、岩倉はそのような事実はなく、道満こそが後継者に相応しいと言う。

この言い争いには決着がつかず、道満・保名二人とも同席のもと、保憲の館で「金烏玉兎集」を開封することになるが、社におさめられていた「金烏玉兎集」の箱をあけると、秘伝書は紛失していた。箱の鍵を持っていた榊の前は責任を問われ、悪右衛門の拷問を受ける。共謀を疑われ座敷牢に捕らえられていた保名は彼女を助けることができず、やっと牢から抜け出たときには榊の前は死んでいた。

「金烏玉兎集」はどこへ行ったのか? 実は「金烏玉兎集」は保憲の奥方があらかじめ盗んで隠し持っており、心をかける道満に譲って跡目にさせようとしていたのだった。榊の前の死に虚ろになっていた保名は、寝所での二人の話を聞いてしまい、奥方へ詰め寄って「金烏玉兎集」を奪う。そして、奥方が倒した燭台の火によって、保憲の館は炎に包まれる。

この映画、途中までは「スター主役の、予算がチョット足りない王朝もの」といった感じのゆるい調子で進行する。特に上記あらすじ部分は観ていてかなり厳しいものがある。絵巻物風のタイトルクレジットは美しいものの、本編がはじまると予算不足感が目立ち、撮影に工夫があるものの引き絵がないのはセットを作れなかったのかなあとか、この時点での嵯峨美智子を娘役にするのは相当無理があるのではないかとか、いろいろな雑念が入ってくる。蘆屋道満が悪役かそうでないかが原作浄瑠璃では重要なポイントとなっているが、その人物像を原作以上に曖昧にしているので、保名の立場もわかりづらい。何より画面や芝居の安っぽさが痛ましく、内田吐夢でもこんなことになっちゃうんだなと感じていた。しかし……

 

 

 

┃「保名狂乱」の清元と舞踊

若い子向けのアイドル映画なのかな〜とぼんやり見ていると、物語はだんだん狂いはじめる。

榊の前を亡くした保名は正気を失い、彼女の小袖を手に信太の里へ迷い出る。信太の里の風景はロケなのだが、突然画面が替わり、周囲は一面の真っ黄色い菜の花畑のスタジオセットとなる。保名の衣装も変わり、清元が流れて大川橋蔵が「保名狂乱」を舞う。背景はあからさまに非現実的な、それこそ昭和の歌番組風の廻り舞台+黄色いホリゾントのセット、保名の扮装もファンタジー時代劇風のポニテカツラから歌舞伎舞踊の豪華な衣装と病鉢巻をして月代を剃ったカツラに変わる。つまり、この場面は登場人物としての保名が舞っているシーンなのではなく、役者・大川橋蔵の「舞台」になっている。そして、舞踊が終わると振り落とし幕が切られて画面は通常の景色へと移行し、物語が進みはじめる。

作り手の自己満足に近い役者の舞踊シーンが唐突に入る映画というのは他にもあるので、多少演出が変でもこの時点では「大川橋蔵ファンへのサービスシーンかな〜」と思っていた。浅葱幕の振り落としを使った場面移行の演出は木下恵介監督『楢山節考』(松竹/1958)に前例がある。『楢山節考』ではシーン(大道具)転換に振り落としが使われているが、本作では幻想世界と現実の転換を振り落とし幕で区切っている。*1

 

 

 

┃ 信太の狐の表現

保名は信太の里で榊の前の父母・信太庄司〈加藤嘉〉とその妻〈松浦築枝〉、榊の前の双子の妹である葛の葉姫〈嵯峨美智子〉と出会い、彼らに保護されて屋敷で静養していた。ある日、散歩中の保名らが百姓たちの祭りを見物していると、悪右衛門が白狐を狩るべく数多の家来を引き連れて信太の里へとやって来る。悪衛門は白狐を見つけたと言って追い立てるが、白狐の姿自体はスクリーンには映らない。逃げ惑う百姓たちに、葛の葉姫も保名を連れて帰ろうとするところへ、肩へ矢を受けた老婆〈毛利菊枝〉がよろめき出でてくる。保名は老婆を介抱し山中にある自宅まで送っていくが、彼女は保名らが家へ入ることを固辞するので、保名は彼女の夫である老爺〈薄田研二〉へ老婆を預け、帰っていく。

が、保名らが帰ったあと、その家の中が映されると、映像は異様な雰囲気となる。老婆と老爺は狐の能面をかけた姿になっている。彼らの正体は狐だったのだ。奇抜な演出ではあるが、おそろしくズタボロなセットとあいまって異様さが板についている。*2

やがて二人の孫娘・おこん〈嵯峨美智子〉も姿を見せ、祖母を助けてくれた保名に感謝する。老爺はおこんに保名らの守護を命じ、自らは仲間を集めると告げる。一方、保名一行は悪右衛門と出くわしてしまい、「金烏玉兎集」を巡ってもみ合いになる。おこんが助けを呼ぶと狐の群れが現れるが、これはファンタジックなアニメーションで表現される。古い時代のものなので素朴ではあるが、逆にアートアニメーションに近い表現のため、日本むかし話的に画面へ馴染んでいた。アニメーションの狐は里に降り立つと狐の面をかけた人間へと姿を変える。結構な人数のエキストラで、よくあれだけの面を用意できたなと思った(クレジットに能面師の名前あり)。

おこんは狐の老爺から決して保名に恋をしてはいけないと言い含められ、古びた小屋で保名の手当てをしていたが、しきりに「榊」と呼んでくる保名に、彼が狂気に陥っていることに気づく。

 

 

 

┃ 「葛の葉子別れ」の義太夫狂言

突然、橙・黒・緑の定式幕が引かれていき、保名住家の大道具が姿をあらわす。「保名狂乱」のような歌番組風スタジオセットではなく、ここは完全に劇場の額縁型の舞台装置で、舞台上手におんぼろい保名住家の屋体、下手側には山道の大道具が出ていて、手前に向かって花道が伸びている。三味線の音とともに義太夫が「〽隣柿の木を、十六七かと思うて覗きやしおらしや、色づいた」と入ってきて、「葛の葉子別れの段」がはじまる。つまり、ここは歌舞伎の義太夫狂言そのままの舞台となっているのだ*3。この演出を事前に一切知らずいきなり映画館で観たので、この演出にはビックリした。

上手の機屋で機織りをしているのは、保名の女房となり、所帯じみた女房のいでたちの狐の葛の葉である。ここでわかった。嵯峨美智子が相当無理めな感じで榊の前や葛の葉姫に配役されていたのは、この狐葛の葉をやらせるためだったのか……。女房役の嵯峨美智子は本当に似合っていて、輝くばかりに美しく、素晴らしかった。老女形の人形と同等の、生身を感じさせない、モノ的な見え方をしている。面長ののっぺりした顔だちと切れ長の目がそれこそ文楽人形を実写にしたかのようで、驚いた。現実感がない。演技も「芝居」にマッチしていて、自然である。

三和会から人が出ているというのは、このシーンだった。義太夫の出演が豊竹つばめ太夫・野澤喜左衛門なのだ。このシーンでは、ナレーション部分は義太夫、セリフ部分は個々の俳優という歌舞伎の義太夫狂言形式で進行する。しかし、セリフ部分にはかなり改変が入っていて、文楽の現行とは展開が異なる(冒頭で保名が在宅している、狐葛の葉が保名に庄司のもとへ行くことを禁じて遠出もさせないようにしているなど)。また、地の文はかなり削られていてセリフ要素が多く、浄瑠璃はブツ切れになる。この状態で三和会もよく引き受けたなと思った。ものすごいもったいない使い方。それでもつばめ太夫は1959年の『浪花の恋の物語』よりあきらかに語りがうまくなっているのが衝撃的。3年程度でここまで変わるものなのか、それとも喜左衛門の力なのか……。*4

後半は葛の葉が妖力で子ども(安倍童子)を浮かび上がらせたり、扉を閉めきるなどして、原作浄瑠璃そのままの展開で進行し、口にくわえた筆で障子へ「恋しくばたずねきてみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」の句を書き、白狐の姿となって去ってゆく。すると、保名と狐葛の葉が暮らした家は白煙とともに倒壊して消え失せ、ただの野っ原になる。保名は立ち尽くしていた信太の庄司らに気づき、正気づく。野原にはひとつの石が残り、その周囲を2つの火の玉が蝶のようにヒラヒラと舞っているところに義太夫が「恋や恋、なすな恋」とかぶってきて、物語は幕を閉じる。*5

原作浄瑠璃ではこのあと、保名も葛の葉姫や童子とともに狐葛の葉を追って信太森へと旅立ち、政治闘争終結に向かって物語が続いていくはずだが、その流れは完全に断ち切られている。このあたり、私はまったく意味が取れず、どういうことなのかと首をかしげた。

 

見終わっていちばん強く感じたのは、「中途半端な映画だな」ということだった。 心意気はわかるけど、全体的に生煮えというか……、なぜこの映画はこんなにも中途半端に感じるのか。

 

 


┃ 『蘆屋道満大内鑑』への新解釈とその失敗

最後に出てくる謎の石は、映画上では何物なのかははっきり描かれていない。しかし、この謎の石、シナリオでの記述を読むと、何を表現しているのかがわかる。

(引用者注:保名、安倍童子を引き取って去っていく葛の葉姫らを見送り)断腸の思いで、見えなくなるまで、見込んで、やがて舞台、中央に戻り、腰をおとして、坐りこむ。地にめりこむように、首をおとす。
やがて、舞台の遠見の山の上が赤く夕焼け。
舞台は暗くなり、
保名のうずくまる姿はそのまま、石と化す。
義太夫の鎮痛な唄
〽恋よ恋、われなか空に、なすな恋
狐火がいつまでも石のまわりから離れようとしない。
(それに、エンディングの音楽、かぶって)

−−『キネマ旬報』1962年2月号掲載/キネマ旬報社

実は石の正体は保名だったのである。映画はシナリオ通りには撮られておらず、石の正体に関する直前の流れが大幅にカットされたため、わからなくなっていたのだ。

当初、私はこの映画は「葛の葉子別れの段」を嵯峨美智子で撮りたいがために作られた企画だと思っていた。しかし、このシナリオを読むうち、テーマは別のところにあるのではないかと気づいた。

 

この映画は、『蘆屋道満大内鑑』を保名の純愛譚として描こうとしたのではないだろうか。これが、製作陣の原作浄瑠璃に対する現代的解釈だったのではないか。

原作浄瑠璃では、保名は榊の前を失って狂気に陥ったあと、信太の里で榊の前にそっくりな葛の葉姫に会ったときに正気を取り戻し、改めて葛の葉姫へ求婚する。その後、保名に恩を感じた狐が葛の葉姫に化けて入れ替わってしまうが、保名はそれに気づかず、狐葛の葉と所帯を持ってしまう。やがて女房葛の葉の正体が狐であると露見すると、保名は狐でもいいから去らないで欲しいと懇願する。つまり、原作の保名は三人の女を何の抵抗もなく次々渡り歩いていってしまっている。そっくりな顔をしてるってだけだろとしか言えないが、文楽・歌舞伎ではもっとすごいクズがどっさり跋扈しているせいで、観客も一瞬えっと思っても深く気にせずスルーする人が大半だと思う。

だが、本作では、保名は信太の里で葛の葉姫と出会ったあとも葛の葉姫を榊だと思い続け、狐が彼女と入れ替わったあとも彼女を榊と思い込んだ狂気のまま。幻想の中で、ずっと一人の女を愛し続ける。正気を取り戻すのは一番最後、女房葛の葉の正体が狐だとわかり、それまでの生活が全てまやかしであったと気づいたときだ。原作浄瑠璃では狐葛の葉を追うはずの保名は、本作では(シナリオにおいては)安倍童子を葛の葉姫に託して自らは信太の里に残り、そのまま石に変じてしまうことになっている。

ここから読み取れるのは、本作の保名は最初から最後まで、榊の前への愛に殉じているということだ。物語前半で保名は榊の前に「私の妻はそなた一人」と語るが、それが最後まで貫き通される。恋人が手の届かない遠くへ行ってしまったことを悲しみ、石に変じるというのは、松浦佐用姫のイメージだろうか。

保名は本来三人の女性に次々言いかける設定になっているのに、この映画ではひとりの女性への愛に殉じる。これは大胆な、そして大変現代的なアレンジだと思う。文楽・歌舞伎を見る人は基本的に『蘆屋道満大内鑑』=「葛の葉子別れ」=「葛の葉かわいそう😢」というイメージを抱いているはずで、少なくとも「葛の葉子別れ」に対し「保名かわいそう」と思う人は、まずいない。かなり思い切った視点変更だと思う。*6

 

しかし、この改変は同時にこの映画の破綻を引き起こし、中途半端な印象を残す原因にもなっている。なぜなら、出演者と演出手法がその方向を向いていなかったからだ。

率直に言って、大川橋蔵にこの映画を支えきれるだけの演技力はなかったと思う。美男だけど、悪い意味で「お人形さん」。原作浄瑠璃通りの、主体性のない二枚目って感じで、文楽でのこの役そのまんまっていうか……。文楽ならそれでいいし(清十郎やってくれ〜)、そういう意味では正しいアイドル映画だが、映画や脚本が求める保名を体現する力がなかったのではないかという印象。

そして、致命傷となったのは、「葛の葉子別れの段」の嵯峨美智子が「はまりすぎた」ことだと思う。ここがあまりに成功したために、逆に映画が中途半端になってしまった。本作では、上記のような「保名の純愛譚としての『蘆屋道満大内鑑』」という改変を行っているため、「葛の葉子別れ」は母子の別れではなく、男女の別れ(狐葛の葉との別れという意味以上に、榊の前との永遠の別れ)を描く場面となっている。というか、なるべきだった。にも関わらず、嵯峨美智子はあまりに「女房葛の葉」で、所帯じみた母としての完成度が高すぎるのだ。浄瑠璃にバチハマりしていて、「葛の葉子別れ」の内容を知っている人は、いや、知らない人も、母子の別れの物語が始まると思ってしまう。しかもここを演出上義太夫狂言として処理しているため、当たり前なんだけど、浄瑠璃の文句は母子の別れ、しかも狐葛の葉視点からの語りに全振りしている。演出的にもいちばん力が入っており、これで母子の別れの物語ではないとするのはかなり無理めだと思う。原作を知っている人ほど、この映画の主旨を読み取れないのではないかと感じる。

 

もうひとつ、この映画を中途半端にしているのは、物語を進行させる原動力であるはずの政治闘争の説明を放棄したことだろう。時代劇としてはそこをしっかり押さえておくべきだったのではないだろうか。出だしがそこなのに、途中で放り投げては意味がわからない。しかし、実はシナリオの段階では、最後に悪右衛門は討たれ、蘆屋道満は捕らえられる展開が盛り込まれている。が、映画にする段階でカットしたようだ。これはこれで紋切り型だけど、全体の構成を含め、時代物としての処理が甘すぎると思う。*7

 

 

内田吐夢作品における浄瑠璃の使用

本作には内田吐夢の実験精神が発揮されていると言われている。それは単なる「やってみました」ではない。本作で清元・歌舞伎舞踊、狐の能面、アニメーション、義太夫狂言といった特殊演出があるのは、保名の気が狂っている間だ。そう考えると、脚本と整合性が取れている。

『浪花の恋の物語』でも特徴的だった浄瑠璃(清元・義太夫)の使い方は、本作にも踏襲されている。内田吐夢にとって浄瑠璃というのは幻想の世界なんだなと改めて思わされた。『浪花の恋の物語』のクライマックス、梅川と忠兵衛の道行(清元・歌舞伎舞踊)、および「新口村」(義太夫人形浄瑠璃)、これらは双方とも幻想の世界を表現している。本作での「保名狂乱」(清元・歌舞伎舞踊)、「葛の葉子別れ」(義太夫義太夫狂言)も同様だ。両方ともここぞというピンポイントで使用しているところに特徴がある。

また、清元と義太夫を区別し、清元→義太夫と移行していくうちに現実感が薄れ、幻想度が高くなっていく使い方も内田吐夢の特徴だと思う。単なる装飾やスノッブ表現ではない邦楽の使い方ってなかなか珍しいと思うが、どうしてこういう考えに至ったんだろう。もうちょっと他の作品でも使われていればより明確になるかと思うが、残念ながら、内田吐夢の古典芸能原作映画はこの『恋や恋なすな恋』が最後となってしまった。
 

 


内田吐夢はなぜ古典芸能題材の作品を撮ったのか

内田吐夢はなぜ古典芸能、しかも歌舞伎(義太夫狂言)を題材に映画を制作したのだろうか。

内田吐夢は戦前より活躍した映画監督だったが、戦中に中国へ渡り、戦後も帰国せず大陸で約10年間を過ごして日本へ戻った。『映画芸術』1962年3月号に掲載されているインタビューによると、この長い中国での生活を経たことによって歌舞伎に民族的な魅力を感じるようになったという。また、内田吐夢は幼い頃、出身地の岡山で、父に連れられて旅芝居の歌舞伎をよく観に行っていて、その芝居幕や下座音楽の記憶が残っていたそうだ*8。なるほど、4作あって題材がすべて歌舞伎なのはそういうわけだったのか。

それではなぜ歌舞伎を映画にすることを考えたのかというと、歌舞伎の世界を古典の世界として映画の中に残しておきたいという考えがあったようだ。これは古典芸能そのものの保護という意味ではなく、古典芸能に描かれている当時の社会風俗(例えば吉原の遊女は悲惨だとか)を保存しておきたいという意味らしい。

このインタビュー記事での内田吐夢の発言で、すごく腑に落ちたものがあった。上記のような考えをシンプルに実行すると、古典芸能を映像資料として残せばいいとも思える。それこそ初期の日本映画のように、舞台中継のように。しかし内田吐夢の目的は単なる保存ではなく、次代への継承にあったようで、映画というメディアを使って古典芸能を継承するとはどういうことかを以下のように話している。

(略)積極的な意味では、日本の民族的な古典を映画という新しい形でとらえ直すという作業でもある。いつたい、古典として今日までつたわつているものは、民間の演劇なら演劇というものが、その時代その時代のひとびとにうけ入れられるように、つねにつくり直されてきたものではないだろうか。むろん、その場合には、古典の真の内容は正しく保存され発展させてきたわけだ。私は、こういう風に日本の古典を伝承する仕事が映画でできればさいわいだと思う。

−同居する二つの映画魂、『映画芸術』1962年3月号/編集プロダクション映芸

 

これを読んだとき、内田吐夢が古典芸能原作映画で描きたかったことがわかった気がした。

時代に合わせた内容の変化があってこそ、古典芸能は継承され続けていく、それが正しい保存といえるというのが、内田吐夢の考えだろう。見取りでしか上演されなくなって、原型を忘れられていた『蘆屋道満大内鑑』を異類婚姻譚や母子の別れという従来の見方ではなく、保名の純愛譚としてとらえ直したのも、このためだったのではないか。もちろん、スター映画としての要請があったことも含めて。

内田吐夢はなぜ『浪花の恋の物語』で近松原作でないはずの「新口村」をクライマックスに持ってきたのか。私はあのような構成に対し、自分なりにひとつの理由を考えていたが、その裏取りができる証言等がなかった。『妖刀物語 花の吉原百人斬り』はあまりに映画自体の出来がよすぎてわからず、この『恋や恋なすな恋』では映画上の欠点があまりに大きすぎてわからなかったが、これで『浪花の恋の物語』に対して自分が考えていたことに、すこし裏付けができたと思う。これらを踏まえて、『浪花の恋の物語』の記事の続きを更新したいと思う。

 

 

 

 

 

*1:撮影を担当した吉田貞次によると、本作は当初、オールセットで制作したいという意図があったようだ。しかし予算上の問題があり、部分的にロケを混ぜたということだった(吉田貞次「『恋や恋なすな恋』の撮影」、『映画撮影』1962年4月号/日本映画撮影監督協会)。個人的には「保名狂乱」、後述の「葛の葉子別れ」の舞台装置セットの異様感を引き立てるため、セットとロケを混ぜているのかと思った。

*2:文楽で「蘭菊の乱れ」が出る場合は、狐葛の葉の人形は狐のかしら・老女方のかしらの早替わりをするが、このきつねのかしら+体は女性の着付のときの見え方が、本作の狐の能面姿と印象が近い気がする。

*3:浄瑠璃原作映画へ演出として義太夫狂言を取り込む先行作には、『仮名手本忠臣蔵』をそのまま映画化した忠臣蔵映画、『大忠臣蔵』(松竹京都/1957)がある。途中までは普通の時代劇映画として話が進んでいくものの、なぜか七段目だけセットが突然舞台装置風になり、義太夫狂言で進行する(義太夫の出演がどうなっていたか忘れたけど、多分本物の竹本)。それが効果的かというと、失敗していたと思う……。歌舞伎の忠臣蔵で茶屋場が人気あるからそうしてみましたという程度なんだと思う。

*4:文楽三和会からのクレジットに「振指導」として桐竹紋十郎、豊澤猿次郎も名前が出ている。保名狂乱の振り付けかと思っていたけど、清元のクレジットに「舞踊振付 藤間勘十郎 、藤間勘五郎」とついていた。ということは紋十郎は何を指導したのか。「葛の葉子別れ」での義太夫に応じた所作ということなのかな。ただし、人形振り等の演出はなし。

*5:「葛の葉子別れ」の特殊演出でめちゃくちゃ怖かったのは、安倍童子が人形だったことだな。安倍童子の役は文楽でも歌舞伎でも5歳児として表現されるが、本作ではなぜかおくるみにくるまった赤ん坊。保名と葛の葉がしきりに抱いて可愛がっているんだけど、顔がなかなか映らず、ちらっと映るとそれはもう完全に作り物まるだしの人形だという……。映画的リアリズムの中に人形の赤ん坊が出てくるとぎょっとする。気が狂っているのは保名だけではなく、狐葛の葉もそうなのではないか。この赤ん坊は家が消えたあとも最後まで出てくる。なぜ人形なのか。本当に謎。

*6:これを裏付けするには、「葛の葉子別れ」で保名が狐葛の葉、あるいは葛の葉姫を何と呼んでいるかの検証が必要だが、このことに気付いたのは観終わってだいぶ経ってからなので、現時点では裏取りができていない。このパートは義太夫狂言として進行するので、設定改変が最も難しい部分のはず。シナリオを読むと狐葛の葉に対しては「女房」と呼んでいる部分が大半だが、「葛の葉」となっている部分もある。また、葛の葉姫をもずっと榊だと思い込んでいる設定なら、信太庄司とともに訪ねてきた葛の葉姫を「葛の葉」と呼ぶのはおかしいのだが、シナリオ上では「葛の葉どの」となっている箇所がある。両方とも、映画化の際にすべて「女房」とする、あるいは叙述トリック的に会話させる(庄司と表面上会話はできているが、実はお互いまったく違うことを指して話している設定にする)ことで回避できる事項だが、どうなっていたかなあ。VHSが出ているようなので、入手できれば確認したいところだが……。

*7:シナリオにあって映画にない要素は、悪衛門の正体が実は狐であったという設定がある。これは、本作ではカットされている「信太森二人奴の段」で悪右衛門が余勘平へ化けた狐(野干平)にやっつけられるという展開の「狐がむくつけ男に化けている」という設定をアレンジして取り込んだものだと思われる。悪右衛門役の山本麟一って余勘平のかしらに似てるので、なんか、わかる(?)。

*8:飯田心美「内田吐夢の自己再建」、『キネマ旬報』1963年4月号/キネマ旬報社

蓄音機文楽『新版歌祭文』野崎村の段 湯布院・束ノ間

文楽業界の広瀬アリス&広瀬すず、勘彌さんと紋臣さんがお光・お染役でご出演ということで、いままでで最も遠い最長距離出張、大分県は湯布院へ行ってきた。

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湯布院といえば特急「ゆふいんの森」、湯布院映画祭と興味のある要素がいろいろとあるけど、「遠い」というイメージだった。このイベントは昨年秋の初回開催の直前に存在を知り、そのときは遠いから行くのは無理だろうと思っていた。が、調べてみると、羽田から大分空港までは1時間45分程度、大分空港から湯布院までは直通バスだと55分、合計3時間程度と、思ったよりも近かった。昼公演なら日帰りも可能で、少なくとも長門よりは近い*1

会場となっている「束ノ間」は温泉旅館。場所としてはJR由布院駅から徒歩30分程度(歩いちゃったよ……)の山の手にあり、静かで広い敷地内にたくさんの建物が散在している、こぶりな集落のような宿だった。所々にぼかぼか立っている温泉の湯気、こんもり茂った大きなアジサイに野趣があり、美しかった。

公演は、普段は食堂として使われている建物で行われた。木目の暗いブラウンが美しい平屋の日本家屋は、どこかの庄屋さんの離れの客間だった古民家を移築・改装したものだそうだ*2。玄関脇の二間続きの座敷のうち、奥側の間を舞台にして、上手のいわゆる「一間」(障子)と下手の小幕にあたる部分はもとの建物の出入り口をそのまま生かしていた。大道具は至極シンプルで、奥に黒いパーテーションを置いてのれん口を作り、下手に黒い柱を立てて家の戸口を表現していた。ぜんまいのれんの色は赤寄りの藤色だった。舞台装置自体は簡素ながら、舞台左右は建具のしつらい(元々ある部屋の間仕切り)がそのまま生かされていることと、舞台上部の欄間の繊細な透し彫りが美しく、上品な空間になっていた。そして、客席前方の上手側、本来なら床が設置される場所に、2台のフロア型蓄音機が並べて置かれていた。

床は畳敷き。舞台と客席は手すりで仕切っているだけなので段差はなく、手すりは二の手すりのみ。最前列は手すりとの距離が1m程度しか離れていなかった。客席の設定は座布団(背もたれあり)、やや高さのある座椅子、椅子席で、定員50人。私が行った回は満席だった。

客筋としては、このようなサロン形式の公演にふさわしく、社交的な意味で来ているらしい地元の方(関係者?)、会場を提供している旅館をはじめとした近隣旅館の宿泊客、技芸員の顧客がほとんどではと感じた。東京公演の前方席に近い感じ。有象無象系の客はおらず、私は完全に場違いだった。すいませんねえお染チャンとはド真逆の意味でおそろしく場違いなやつが来て🐍カミソリは持ってませんので安心してくださいね🔪カミソリ持ってると空港の保安検査に引っかかってここまで来られなくなっちゃうんでね✈️

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(写真は終演後、舞台が川に切り替わった後のものなので、のれん口・柱は撤去されています)

 

 

 

上演前に、蓄音機の説明と、演目解説。

まず蓄音機担当の方(詳細後述)から、蓄音機の再生方法についての解説があった。今回使うのは1929年(昭和4年)発売の豊竹古靭太夫(後の山城少掾)・鶴澤清六演奏によるレコードで、蓄音機は同時代のイギリス製の機種を使用するということだった。また、戦前のレコードは収録時間が3分程度しかないため、そのままかけていてはブツ切れになるので、レコード・蓄音機とも同じものを2つを用意し、ディスク10枚組×各2面を交互にかけていくことで、途切れなく義太夫を演奏すると。前回開催時にほとんど説明せず上演したら、何をどうしているかをお客さんに理解してもらえておらず、がっかりしたので、今回はちゃんと事前説明することにしたそうだ。たしかにこの説明があったほうが企画趣旨がわかりやすい。

演目解説は野崎村の簡単なあらすじ。ご担当は緊張して言ってることが若干ごちゃごちゃになっている勘次郎さん。話の中で久作の奥さんの人形は出ません、いるつもりで観てくださいとの話があったが、現行では本公演でも久作女房はずっと奥の一間にいる設定で、人形を出していないはず。わざわざ言うとはどういうことなのかと思ったが、それは上演中にわかることになる。

 

 

 

冒頭部の久作がお夏清十郎の本を買うくだりや小助が出てくるくだりはナシで、お光が大根を刻むところ(〽引き立て入りにけり。後に娘は気もいそいそ、日頃の願いが叶ふたも、天神様や観音様、第一は親の御蔭〜)から上演。

 

はじまっての第一印象は、「非現実的だがリアル」。

義太夫が録音であることには、違和感はなかった。山城少掾の音源はCDでも出回っており(今回上演と同じものではないけど)、自分もそれを持っていて、聴き慣れているからかもしれない。蓄音機から流れる音声は戦前の録音・盤そのままのため、劇場で生演奏を聴くよりかなりくぐもっていて、トーキー映画くらいの雰囲気。軽石のように表面が柔らかくざらざらしている印象で、ノイズを除去したリマスター音源のような鋭い生々しさがなく、場内は古い時間が蘇りもういちど流れているような、非現実的な空間になっていた。

一方、人形は、座敷上演なので客席との距離がかなり近く、リアル。本公演にはない強い刺激性があった。この生々しさは距離感自体というよりも、舞台と客席との段差がないことによるものだと思う。今回は一般民家を舞台とした演目を一般民家で上演しているため、より生々しい肌理があった。それに、むかしの建物は作りが小さいので、お人形さんのサイズ感に接近しているというか……。

足拍子や人形自体の立てる物音は劇場のように反響することはないが、そのぶん本当の人間が間近で立てているように聞こえる。火をつけたお灸が燃える香りも部屋中にふんわり漂ってきて、よりダイレクトな迫真性をもって五感へ訴えかけてこられているようだった。

しかし、このリアルさが蓄音機から再生される古い義太夫の音声と乖離していない。当時と現代の人形の演技は大きく異なり、人形のかしらも現行とは雰囲気の違うものを使っていたはずなので、舞台としての見えは本来まったく違ったものだったと思う。そこに断絶がないのは、山城少掾の語りがモダンだからなのかな。今回の出演者のスマートでみずみずしい雰囲気と予想外にマッチしていた。

ただ、このやりかただと、義太夫は人形の伴奏ですね。人形さんは義太夫に合わせて演技しているとはいえど、結構下がって感じられた。そのせいか、いつ・どこに注目・傾聴すればいいかの配分が直感的にわからず、文楽を初めて観たときのように「情報量が多い!」と思われて、少し混乱した。ただ、それも数分で、すぐに慣れて、いつもと同じ感覚で観ることができた。

 

 

 

お光は勘彌さん、かわいい(涙)。日本一かわいいよ……(号泣)。勘彌さんって絶対お染タイプだよな、キリマンジャロくらいに咲いている高嶺の花で、人の男を平気で盗ってきそうな感じがする。と思っていたけれど、お光もとてもお似合いだった。在所の娘なんだけど、なんだか微妙にほかの普通の子とは違っていて、近所中で「かわいい、美人」と噂されている、でも本人は天然で全然気付いてない女の子、って感じだった。私が野崎村に住む里芋顔のツメ人形なら、毎日久作ハウスを覗き込んでお光にニヤニヤして、久作に箒で叩かれまくった挙句お灸の点火器具でつつき回されて追い払われていると思う。

勘彌さんは普段は洗練された方向の演技の方だと思うけど、お光には微妙に垢抜けない部分を作っているのがよかった。わずかな加減だと思うが、ほんのちょっとだけ女子として気が緩んでいる感があり、素朴な表情と素直な所作が愛らしい。人形って間近で見ると女形でもわりと覇気がすごいというか、異形の者としての威圧感があると思う。しかしこのお光は至近距離で見ているにもかかわらず人形に威圧感がなく、少しかすみがかかったようなふんわりしたオーラがあって、優しい匂いがしそうな女の子だった。絶妙な塩梅の可愛さに思わず合掌しそうになった。

舞台と客席の距離が近い&舞台との段差がないぶん、大根刻みのバイオレンスは半端なかった。大根を刻むさまに異様な迫力がある。刃物持ってる気が早すぎる女、めちゃくちゃ怖い。言ってはなんですが、阿部定事件を起こしそうな感じというか、お染が来なくてもクソヤバなことをやらかしそうな感があった。鏡を櫛で突くところの動作がやや緩慢なのも、「いつでもおまえをころせる」的な余裕?を感じた。

ところでおみっちょの左って、もしかして玉佳さん? 玉佳さんはチラシの配役には出ていなかったが、会場で頂いた出演者一覧に「吉田玉佳」って書いてあってめちゃくちゃ笑った。出遣いないんかい。玉佳さんが本公演でお光の左に入ることはないと思うが、いつもよりちょっぴり不器用なタマカ・チャン、レアで萌えた。(※小割非公開。私がそう思っただけで、実際のところは不明。)

 

お染は紋臣さん、かわいい(2回目の涙)。日本一かわいいよ……(2回目の号泣)。都会娘らしい洗練された美しさで感動した。もともとの設定でも、鄙びたド田舎へ町の商家のお嬢様の盛装でやって来るお染は野崎村の風景から浮いてしまうが、湯布院でのお染さんはまじで浮いていた。

お染が出てきたとき、率直な言葉で言うと、不気味だった。ドキッとした。お光は前述のような微妙な垢抜けなさを持っているので場にわりあいなじんでいるんだけど、お染は簡素な舞台から異様に浮き上がっていて、エネミーが来たっ!って感じ。ぎょっとした理由は、人形の大きさなのかな。なぜか人形がすごく大きく見えた。お染は豪華な髪飾りをしているのと、立っている時間が長いので、大きく見えるのだろうか。それとも、遣い方によるものなのか。素朴なお光とは全く異なる、自然体的ナチュラルさを消したかなり人工的な所作で、人形であることを主張してくる美的な動作が多いからだろうか。本物の人間はしないような極端に首をかしげた異様な姿勢が目を引く。クドキのところで久松のうしろへ回って両肩に手をかけて顔を覗き込み、また、後ろ向きになって体を傾けて顔を久松へ向ける仕草がまことに美しく、金持ちの美少女らしい、天性の森羅万象への媚態を感じた。なんでだろう、わからない。かなり怖いお染だった。でも、だから逆に可愛い、美しいと感じるのだと思う。舞台に出ていないときでも、襟袈裟についた鈴の音がチャリチャリと聞こえるのが良かった。

お染はつねに久松ばかり見ていて、決して客席側には視線を向けず、顔をすこし傾けているような状態になるので、そこも不思議な雰囲気があった。逆にお光は視線をいろいろなところに向け、気が散った山出し感があって、可愛い。目線ってかなり人形の印象を左右するんだなと思った。

 

舞台が狭いせいで、お光vsお染の戦いは熾烈さを増していた。本公演では、家のだいぶ奥にいる久松に気づいてもらおうと戸口にいるお染が伸び上がって必死でアピールする!!のをお光がさりげなく座敷と戸口を往復して阻む!!という見え方だが、今回は舞台が大変狭いため、お光の真後ろにお染がいる状態。

お光が逆ほうきで招かれざる客を追い払うところは、もはやほうきでの物理攻撃だった。あっ、でも、ここのお光はかなり可愛かった。在所娘らしく粗雑に股へほうきの柄をはさんで手ぬぐいをかぶせるけど、その所作を上品にこなされていてゲスになっていないのがよかった。おみっちょは絶対処女😭と思った(おとうさん的感性)。

そしてお光がお染を見えないように両手を広げてあたふたする様のディフェンスぶりはもはやバスケ、お灸の点火器具をお染につきつけるところは完全に根性焼きしに行っていた。あれほんまに人形に当たるでしょ。お光は本当に見えない位置からお染に突きつけなくてはいけないので、事故を警戒してものすごい目つきになっていた(勘彌さんが)。

しかしお染も負けてはおらず、懐紙に小銭?小石?を包んで家の中に投げ込むところ、投げ込んだおひねり(?)が久作の真ん前というものすごい良い位置に着地していて、一発でグリーンに乗せたナイスショット状態だった。この覇気、私が久松なら家の外にお染が来ていることに気づいた時点でちびってると思った。

この二人の個性の違いによる可愛さの違いは本当にすばらしく、湯布院まで来て良かったと心の底から思った。

 

久松は簑紫郎さん、しゅっと背筋を伸ばして座っている様子がなぜか若干若武者風だった。都会でちょこっと暮らした程度の田舎モンがこんなに洗練されてるわけないと思うけど、あれくらいの根性がなくてはサイコパス女二人に囲まれて逃げ切ることはできないと思った。田舎の許嫁と都会でつまみぐいした女が顔を合わせるクソヤバ事態、常人ではあのようなサイコ女二人に激詰めされたら武士ならずともその場で切腹してしまうと思う。なんであいつあんな他人事顔してるんだろ。私がお光なら、大根と一緒にちょきちょきちょきと切ってたなと思った。

 

久作は勘市さん。勘市さんのジジイには独自の味がある。いかにも在所のしっかりもんのジジイって感じだった。顔立ちと同様、所作がちょっところんとした感じなのが良い。畑で京なす育ててそうだった。そして、すごい汗だくて遣ってらっしゃった。大変そうだった。

 

ところで、義太夫を聞いていて、途中から違和感をおぼえた。もしかしてこれ、現行と違う本だろうか。お光が尼になるとして髪を切って以降の展開、奥の一間にいる設定の久作女房のセリフやそのやりとりがかなり多い。前述の通り、現行では久作女房は人形を出していない。しかし昔は出していたという話を聞いたことがある*3。もしかして今日使われているのは、その頃のレコードなのだろうか。お染が再び自殺しようとしたり(でもあの女のカミソリの取り出し方、明らかに演技だよね)、それをお光と勘違いした老母が這い出てきて娘が髪を切ったことに気づいて嘆いたり、重ねて自殺しようとするお染を止める久松が自分のほうが先に死ぬと言いだしたのを聞いて久作が一家心中すると言いだしたりと、本公演にはないくだりが展開されていた。帰ってから直近の現行床本と今回上演の床本を比較してみると、今回の上演内容は結構長い。正確には本公演でももうすこし長めに上演することもあるようだが、その場合の床本と比較しても今回上演は長かった。こういった部分に新規で演技をつけている部分があるようで、ところどころ間がもたなくなっているところがあった。

このようなくだりがあるため、お勝〈桐竹紋吉〉は出てきてから、中の様子を伺っている時間が異様に長く感じられた。出のタイミングはたぶん本公演と同じなんだけど、家の中のやりとりが長いので、声をかけるまでの時間がかなり長い。お勝はそのあいだ、じーーーーっと耳を傾けている。これは大変な役だと思った。おかあさんっぽい、でも、少しだけおしろいの匂いがしそうな、ふっくらと豊かな印象のお勝だった。

 

段切、お染と久松が野崎村から去っていくところ、本公演だとお染は川に浮かんだ船から別れを告げるが、舞台が狭すぎて川の手すりが設置できないので、お染は手すりの手前にまわり、下手の建具からそっと体をのぞかせる方式だった。人形遣いは姿を見せず、人形だけが体を乗り出している状態なんだけど、そうなると人形は普通の畳の床に立っている状態になる。実際には人形を持ち上げているので少し宙に浮いているのだが、それによって人形の位置が人間の小柄な女の子くらいの身長になっており、これが結構生々しく怖くて、美しい人形が本当に生きてひとりでに動いているようだった。

 

 

 

蓄音機から再生されるレコードのかすれた柔らかい音と、やや薄暗く、狭い空間で上演される文楽は、戦前の映画を見ているようだった。溝口健二の『浪華悲歌』の文楽のシーンもたしか野崎村のこの場面だったと思う。薄暗く狭い舞台。狭い屋台の中で、水入らずをしている父子・許嫁の人形たち。外の門扉から、在所には場違いないでたちの娘がその様子を覗いている。不気味で幻想的なシーンで、あの様子を目前にしているような感覚があった。黒い背景に浮かぶ人形たちの姿は魔術的だった。

そして、西宮の白鷹文楽とおなじく超至近距離での上演なので、人形の演技に迫力(物理)があった。間近に見る人形は、やっぱり結構怖い。動作が思っていたより激しく、結構すごい勢いで演技しているのだなと思った。女形の人形でもわりと荒々しいんだなと感じた。

しかしここまで距離が近いと、出演者の技芸のレベルの差も見える。単発公演でほとんど稽古をしていないはずなので、本番一発勝負に耐えられる力量かどうかというのもあるんだろうけど、細かい所作がはっきり見えるのでその精度がわかってしまうというか……。白鷹ではそこまでは感じなかったことだが、今回は結構克明だなと思った。

個人的には勘彌さんと紋臣さんの配役は逆がよかった(ものすごい個人の意見)。慣例上、お光のほうが格上の役なんだろうと思うけど、お染は私のなかでスクールカースト最上位、お高くとまった女、かつ非処女テイスト娘役の姫的存在である勘彌さんにやって欲しかったわ。そして、紋臣さんのほうが一見おぼこく(動作が入ると吹き飛びますが)、文楽座No.1のロリオーラがあるのと、気が逸ったような所作がお上手なので、在所娘なお光が似合いそうだと思う。でも、実際にはお二人ともお染タイプだとは思う。絶対敵に回したくない。

 

 

 

おそらくどなたもが気になっているであろう、蓄音機で義太夫を演奏するという上演形態について。

自分には外部公演に行く・行かないに明確な基準があり、義太夫文楽から出ていないものには、人形からの出演・開催地関係なく、行くことはない。今回は義太夫が生演奏ではなく録音というきわどいラインだが、戦前のレコードを蓄音機で再生させるという企画に惹かれた。ただ、正直なところ、この企画において文楽にも蓄音機にも本当は主体的な意味はなくて、珍しいことをして集客しようというイロモノだろうと思っていた。主催企業は文楽に興味があるわけではなく、対外的アピールのための企業活動としての文化事業であって(にっぽん文楽や西宮の白鷹文楽も私の中ではこのカテゴリ)、私(文楽自体の客)はそれでもいいから気に入りの技芸員さんが出ているからその方のご出演に対し金を出すつもりで行くという、そういうスタイルの企画かと思っていた。

だが、実際に行ってみると、蓄音機は本気だった(はいっ、もちろん技芸員さんも本気です!!!)。

私はこの企画を聞いたとき、戦前のレコードは数分しか収録できないはず、そうなると盤の掛け替えの時間が必要になり、演奏がすぐにブツ切れになるだろう、と思っていた。しかし、文楽では義太夫がスムーズでないと人形が動けないしリズムが崩れるので、そこをどうクリアするのか。レコードは数分で切れるはずだから、クドキのサワリとかのエエとこどりをして、そこだけ「できるだけ素早く掛け替えて」やるのかと思っていた。そして、義太夫をよくわかってないとオペレーションも難しいと思ったので、そこにも期待していなかった。

ところが実際に行ってみると、先述の通り、蓄音機2台とレコード2セットを用意し、交互に再生させて切れ目をなくすという手法がとられていた(要するに映画のフィルム上映と同じ手法)。切り替え自体はかなりスムーズで、ほぼ気付かない箇所もあった。無音の空白が入って切れ目に気づくというより、2台の蓄音機の音の個性の違いで、切り替えがわかるという感じだった。微妙に切れたなと思っても、人形の動作で繋いだりしていて、そこまでストレスではなかった。そのテクニックにかなり驚いた。

これは本(マジ)気だなと思い、終演後に蓄音機演奏のオペレーションをされていた方にお話を伺った。

表に名前を出されていないけど、その方は地元の蓄音機屋(蓄音機の梅屋)のご主人で、実はこの方が公演の企画者ということだった。旅館が客寄せのために企画・主催していると思っていたので、個人企画ということにとても驚いた。ご主人は元々文楽がお好きで、こういうことをやってみたいと前々から考えておられ、自治体の文化事業支援(?)に企画を提出し、出資を受けて開催に至ったという。客層が技芸員の引いている客だけでない雰囲気なのと、チケット代が異様に安いのが気になっていたが、これで理由がわかった。

私はこの公演、出演者の中で一番大変なのはこの方だと思ったんだけど、口上で名前を紹介されなくて残念。チラシ等にもノンクレジット。黒衣を着ておられたので、名前を出すおつもりはないということなのかもしれない。でも、蓄音機は太夫三味線に続き、ツレ弾きや琴とか胡弓のノリで名前を紹介されていたんで、口上にご主人のお名前も入れて欲しいです……。

 

伺ったお話メモ(立ち話のためメモをとったりしていないので、間違いがあったらすみません……)

  • 蓄音機2台を掛け替えして連続演奏をさせるコンサートを行った経験がある。最近も湯布院でそういうイベントを行った。(話の感じからすると、常打ちでやっているとかいう感じではなかった。呼ばれたらやっている等なのかな? 蓄音機は普段は店にある「売り物」とのことだった)
  • 義太夫が途切れると文楽は成立しないので、必ずつながるよう、2台交互に掛け替える練習をした。
  • 針は蓄音機が製造された当時のもの(金属針)を、掛け替えるごとに使い捨て。針を使い続けて短くなると音が大きくなってしまう。今回は20回掛け替えたので、20本使った。
  • 蓄音機のハンドルは一度回せば本来かなり長いあいだ再生ができるが、今回は上演中に途切れてはいけないので、かけるごとに回した。
  • 義太夫は、レコードを蓄音機で再生するのが実際の演奏の音に近いと思う。
  • 二台の蓄音機は音をチューニングして揃えている。
  • 去年、初回を行ったときはとにかく手探りだった。2回目ができるとは思っていなかった。
  • 黒衣は着たくて人形遣いさんに借りた……🌸

 

という感じで、義太夫が生演奏ではないことに逆に意味があり、かつその再生の品質がキチンとしているところがとても良かった。義太夫が好きな方が蓄音機演奏ご担当なので、安心。

もうひとつ心配していた蓄音機の音量は、結構大きかった。そりゃ生演奏ならもっと音でかいですけど、コンパクトな室内なら気にならない。音量のイメージは、名曲喫茶って感じ。ご主人は室内にお客さんが多いと音が聞こえづらくなるとおっしゃっていたが、違和感や差し支えは感じなかった。少なくとも聞こえづらいことはない。文楽劇場で声がおとなしい太夫さんが出ているときの下手ブロックよりは全っっっっっっっっっっっっっっ然聞こえます(それは言ってはいけない)。

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本イベント、文楽好きの方の興味を集めている公演だと思うが、湯布院という開催地がネックとなってなかなか行かれない方も多いと思う。が、人形が好きな人には満足度が大変高い企画ではないかと感じた。個人的には、単発公演としては西宮白鷹文楽に並ぶ濃密な満足感があった。白鷹は和生さんメインなので技芸の高さと枯淡で上品な味わいにみどころがあるが、こちらはクラシカルな義太夫と出演者のモダニティの取り合わせがみどころ。本イベントが気になっていた方は、次回開催の際には是非湯布院へ行かれることを検討して頂きたい。温泉にも浸かれます(宿泊・懇親会付きプランあり。泊まらなくても束ノ間含め近隣旅館に立ち寄り湯あります)。

というか、ぜひとも東京公演もやって欲しいところ。会場設定と蓄音機の運搬の手配がつけば全然いける企画だと思う。学士会館とか、谷根千の古民家でやって欲しい。

いずれにしても、次回の開催が楽しみ。今後に期待のイベントだと思う。

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おまけ

今回使われた音源の一部を「国立国会図書館デジタルコレクション」で聴くことができる。

野崎村(五)燃ゆる思いは - 国立国会図書館デジタルコレクション

野崎村(六)エゝ愚痴なこと - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

昨年の第1回(『近頃河原の達引』堀川猿回しの段)のダイジェスト映像


蓄音機文楽2018ダイジェスト1

 

 

 

 

 

  • ゆふいん蓄音機倶楽部 蓄音機文楽2019
  • 『新版歌祭文(しんばんうたざいもん)』野崎村の段
  • 人形配役:お光=吉田勘彌/お染=桐竹紋臣/久作=吉田勘市/久松=吉田簑紫郎/お勝=桐竹紋吉/船頭=桐竹勘介/人形部=吉田玉佳、吉田文哉、桐竹勘次郎、吉田玉路、吉田簑之、桐竹勘昇
  • 蓄音機:HMV model 193(イギリス製/1929頃)
  • レコード:『野崎村(新版歌祭文より)』SP盤/Victor/13067〜70, 13100〜5/演奏=豊竹古靭太夫鶴澤清六/1930年(昭和5)6月、1931年(昭和6)1月発売
  • カーテンコールあり(出遣いの出演者のみ)

*1:文楽のために行った場所で大変だったのは、1位・長門、2位・湯布院、3位・熊谷。

*2:ってこの情報、どこで見たのか聞いたのか、すでに忘れた……。もらったパンフにも書かれていないので、妄想かもしれない……。

*3:久作女房の人形を出すか否かについて、『義太夫年表』に番付が載っている分を調べてみたところ、明治期の23回は8割程度が人形配役あり(人形有無に座は関係なし)。大正期の15回はすべて配役あり。昭和期は昭和11年までは配役ありだが、13年以降は人形配役なしとなっており、そのまま現行に至っているようだった。近世は未調査。