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文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 トークイベント:吉田和生「『大経師昔暦』について」文楽座話会

2月4日開催、NPO法人人形浄瑠璃文楽主催のイベント。和生さんにご出演の第二部『大経師昔暦』について語ってもらうという趣旨の会だったが、『大経師』の話自体が微妙すぎて和生さんが途中で話すことがないと言い出し(衝撃の展開)、ほとんどが質疑応答の時間となった。以下にそのお話の概要をまとめる。『大経師』に限らない豊富な話題を通して、和生さんの気さくで飾り気ない雰囲気を伝えられればと思う。

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近松作品の特徴

今回の出演は第二部『大経師昔暦』。近松サンの芝居は「しんどい」。太夫さんも好んでやる方、やりたくないという方に分かれる。詞章に字余り字足らずが多く、形容詞が多い。これは近松の当時は人形が一人遣いだったことによるもので、細かな説明が多い(一人遣いの人形の簡素な演技で描写しきれない部分が言葉で説明されているという意味)。わたしは近松作品を紹介するときには「ラジオドラマの脚本」と言っている。人形浄瑠璃を「聞くもの」としてホンが書かれているから。時代が下って近松半二などの頃になると、人形浄瑠璃は「見せるもの」になり、「テレビドラマの脚本」になる。

『曾根崎心中』は復活の際、大幅改作された。大学の先生などは「改悪」と言うが、近松作品は江戸時代から改作されている。というのも、「難しい注文が多い」から。というのは、人形が一人遣いから三人遣いになったことによって、一人遣いのころには簡単に出来たことも三人遣いでは難しくなってしまっている。例えば「二階から降りる」とか、一人では人形を簡単に上下できても、三人では難しい。ホンも大変説明的な描写が多く、舞台装置で見せることを考えていない。「お月様の影法師」と言われても「えっ、お月さんどっちにあるんや?」(笑)。そして、登場人物が多い。一人遣いならパッと出してパッと引っ込めてたんでしょうね。しかし、このように改作ができるのはモトのネタがいいから。『大経師昔暦』もむかしは「おさん茂兵衛」という題名で女優さんや歌手の方がよくやっていた。

昭和期、松竹が文楽を持ちこたえられなくなって手放され、文楽協会ができた。ぼくが文楽に入る前ですけど、そのころ近松復活の機運が高まり、『鑓の権三重帷子』『長町女腹切』などが復活された。当時、復活は「わかりやすくやろう」という考えのもとやっていた。色々手を入れないと近松作品を舞台にかけることはできなかった。まず一人遣いを三人遣いにすると道具に制約が出てくる。例えば『曾根崎心中』の天満屋で徳兵衛がお初の足を押し頂く部分は初演当時どうしていたのかと聞かれたことがあるが、「わかりません」。観音巡りも、詞章は単に巡る先の地名を並べているだけで、人形をどうしていたのか、わからない。辰松八郎兵衛がお初を遣って評判を取ったという記録が残っているが、この内容でどこがどうやって評判になるのか。『大経師』の「大経師内」で茂兵衛が寝所へ忍んできておさんの手を取るところ、「手先に物を言はせては、伏し拝み伏し拝み心のたけを泣く涙、顔にはらはら落ちかゝる」と言われても、(お互いの位置関係として)「どうなっとんの」と思う。しかしわかっていることもあり、『国性爺合戦』では竹田の糸あやつりの演出が使われていた。小むつが栴檀皇女とともに山へ逃げて、仙人にかけてもらった虹の橋を渡るところ(四段目)を糸あやつりでやっていたらしい。情景も詞章で事細かに説明される。これをぼくらが三人遣いでやろうとすると、「余分なこと」が色々あり、やりづらい。

以前、国立劇場の企画で近松の心中三部作を一日で上演したことがあるが、題名は違うけど内容が全部同じでしんどく、人形遣いは一日が長かった。

そういえば、むかしの人はしゃれている。「近松半二」は、近松門左衛門の半分の才能しかないとして「半二」を名乗った。平賀源内は浄瑠璃作者としては「福内鬼外(ふくうち・きがい)」と名乗っていた。これはいまの季節、節分から取られたもの。

ぼくらは浄瑠璃を聞きながら、「これ、大学の先生が研究するようなものかな」と思う。故事来歴を取り入れた詞章はある。『大経師昔暦』なら、以春がお玉を口説くところは『大職冠』の謡を取り入れている(? よく聞き取れず。多分、謡曲『海士』の玉取の詞章が取り入れられていることを仰ったんだと思う)浄瑠璃はエロチックな言葉が多いが、いまは字幕が出るから……(笑)。字幕がないころはスッとできたけど。むかしはおおらかに楽しんでいたんでしょうね。

 

 

 

┃ 『大経師昔暦』の難しさ

『大経師昔暦』には「ここ」というヤマがそんなにない。先日も毎日新聞のインタビュー取材を受けたが、「おさんがこうで、ここがどうで」といった意味でのみどころは一切ないと答えた。そうとしか言えない。キライならキライでもっとやりようがあるが……(おさんが以春を嫌いだとしたら演技プランの組み立てがやりやすいということか。よく意味が汲めなかった)

おさんは難しい。以春が嫌いだったわけではない。茂兵衛もおさんがどうこうというわけではないし、お玉にそんなに世話になったわけでもない。「掛け違い」の話。近松は世話物というジャンルをつくって書いてきた。そのため、近松作品ではおじいさん・おばあさんが芝居の中心になることが多い。『女殺油地獄』もそう。生活の成り立ち、家庭の問題を扱ったものが多く、『油地獄』だと父親が違うとか、『大経師』ならおさんの実家の経済事情が逼塞しているとか。そういうことを踏まえて芝居をしないと、「芝居の密度が出ない」。普通の家庭のことを描いているので、裏の事情をいろいろ考えながらやらないと。文句のうわべだけやっていると、相手役と噛み合わなくなる。お互い毎日探り合うようにやっていかないと「密度」が出ず、「難しいこと」になってくる。

先代の綱太夫さんは、「お玉は“小娘”ではない」と言っていた。あの男あしらいぶりは、出戻りだろうという感覚。そうでないと、御所へも出入りするご主人をあんなふうにあしらったり、茂兵衛に声をかけてみたりは出来ない。おさんはまだ「お嬢様」だろう。われわれはお玉のほうが年上だと思っている。おさんと以春はだいぶ年が違うだろう。

師匠を相手役に茂兵衛もやったことがあるが、茂兵衛ももひとつしんどい。岡崎でおさんの両親が出てきてからはその話をずーっと聞いてないかんから、大変。茂兵衛からしたら不条理なことで苛まれるが、いくら話がヘンでもホンから外れるわけにはいかんから。茂兵衛は自分が責任を持つからとおさんだけを逃がそうとする。ひとりで逃げる方法もあるはずだが、茂兵衛は真面目な役なのでそんなことはしない。行動に煮え切らないところがある。おさんを好きなら好きでいい(が、そうではないので複雑、難しい)。「大経師内」で二階からお玉の寝床へ忍んでいくところはどうやっているのか? 屋根の引窓から屋内へ降りる部分は、綱を持つくらいまでは主遣いが遣っていて、そこで下で待っている人にバトンタッチして、下へ回ってもういちど茂兵衛を持つ。

相手に気付かず結果的に姦通してしまうのは、普通に考えたらありえない。わたしたちも「なんでやろ?(キョト顔)」となっている。……そうなんですよね……いろいろ矛盾があるんですよね……(しみじみ)。そこらへんはこちらも感じながらやっている。

舞台に出て、みんなが「ウーン……」と言うのは段切れ(奥丹波隠れ家の段)。もうちょっとなんとかならんかったのか、復活で直せなかったのか……。ぼくらが入る前のことだが、改作をやるときにちゃんとしていれば……。復活は非常になかなか難しい。ホンはあるが、音(三味線の譜=朱)がなくて、新規で作曲して今の舞台でやっている。そのせいで、なかなかまとまりがない部分がある。それは制作(劇場の企画制作)の問題。こちら(技芸員)ではどうしようもない。岡崎で終わってくれたらいいのに……。原作を全部やるのがいいのか、段取りを整理してやるのがいいのかは制作さんが考えること。梅龍が唐突に手代を斬りつけるところで笑ってしまった? 大丈夫です。今日も笑い声上がってましたから。わたしたちも「あれはないやな」と言っている。

今回は最後まで出していない。原作ではあのあと、黒太夫が衣をかぶせておさんを連れ帰ることになっている。

 

 

 

┃ 『大経師昔暦』人形の特徴

おさんの岡崎までの衣装は「芦に鷺」で、専用に作って染めたもの。文楽では専用衣装はあまりないが、これは岡崎の浄瑠璃から柄を取っている(おさんの肌着代なして、白無垢一重憲法に、裾模様ある芦に鷺)。髪型は「先笄(さっこうがい)」と言って、大阪の商家の奥様がする結い方。

以春のかしらは、昔は検非違使を白く塗って使っていた。今は陀羅助を薄卵に塗って使っている。いやらしい雰囲気があるでしょう。

今回、「大経師内の段」では人形遣いは頭巾をかぶっている。黒衣で遣うのは、登場人物が多くゴチャゴチャする場面や、陰惨な場面、端場。これも8人並ぶところがあるでしょ。出遣いでやるとゴチャゴチャする。『女殺油地獄』の徳庵堤も頭巾でやることが多い。あれも次々人が出てくる。これは制作が出し物によって決めることで、ルールではない。逆にいまやっている第三部『壇浦兜軍記』阿古屋琴責の段では、阿古屋の左、足は出遣いになる。これはそのときの都合でやる。ほかには『本朝廿四孝』奥庭狐火の段の八重垣姫、『勧進帳』の弁慶など、全員出遣いになる役は決まっている。

 

 

 

吉田文雀師匠のこと

師匠のことなら1時間でも喋りますよ!!!!!!!!!(大経師の話に飽きてきたところで師匠の話を振られ、突如エキサイトする和生さん)

師匠とぼくの出会いは変わっていた。普通、入門するときは、太夫なら豪快な語り、三味線弾きなら美しい音色など、師匠の芸に触れて入門を希望する。落語家でも先方に何度も押しかけて行って弟子にしてもらう人が多いが、自分はそんなことがなかった。

ぼくの入門のきっかけは師匠の芸に触れたとか人柄に触れたとかではない。ぼくはもともと舞台に出る気はなかった。高校を卒業して、何をやろうか、何が自分に合うか、2〜3年かけて自分のやりたいことを探そうと思っていた。そのころは伝統工芸をやってみようかと思っていて、あちこち回っていた。大阪にあった国宝の修理館を見た帰り、徳島在住の人形細工師の大江巳之助さんを訪ねてみようと思って「遊びに行っていいですか」と手紙を出した。来てもいいということだったので、愛媛の自宅へ帰る前に寄り道することにした。その時点ですでに大江さんは文楽の舞台に使うかしらの90%を作っており、「いまから(人形細工師の修行を)やってももう無理だ」と言われた。といっても自分は特に人形細工師になりたいわけではなかったので特になにも思わなかった。それで、大江さんから、「文楽は観たことがあるのか」と尋ねられ、「ない」と答えたら「4月の大阪公演へ行かないか」と言われた。何年か遊んで過ごすつもりだったので「ハイ」と答えて行ってみたら、当時首割委員だった文雀師匠を紹介され、師匠から「一日観ていき」と言われた。それで「今夜泊まるところあるの?」と聞かれ、どこも予約をしていなかったので「ない」と答えたら、自宅に連れ帰って泊めてくれた。そして、翌朝、「どうするんや?」と言われた。一宿一飯の義理やないけど、そこで思わず「はい」と答えてしまった。するとその日のうちに黒衣を着せられ、横幕を開けたり閉めたりさせられた(笑)。思い出した。そのときはちょうどこんどの5月にやる『妹背山』をやっていた。

師匠は変わっていた。師匠は東京の原宿生まれ。うちの前を馬が通ったら、陛下が来るんやと言っていた。当時は原宿がお召列車の始発駅だった。師匠は洒落た家の生まれで、子どもの頃はよくねえやに手を引かれて明治神宮にお神楽を聞きに行っていたという。お父さんは俳句に凝っていて、句集を出したほどだった。お父さんは芝居も好きで、家にはよく役者が来ていた。師匠もその影響を受けて芝居の真似ごとをしていたが、役者たちは「ぼっちゃん、役者だけはやめときなさい」と耳打ちしてきたそうだ。小学校高学年の頃、お父さんが転勤になって大阪へ来た。師匠はその頃、女給さんの羽織を借りて保名狂乱を踊ったりしていたらしい。やがて戦争になり、学徒動員で工場へ行っていたときに旋盤で指を怪我して、琴ができなくなった。それで文楽に入り浸っていたが、人形遣いに「毎日来てるんやったら手伝って」と言われ、黒衣を着せられて舞台の手伝いをはじめた。それを松竹の人が見つけて「あれは誰や!?」となった。お客さんの子です。電車賃やっとんのか。いえ。そういうやりとりがあり、松竹からは正式に文楽に入らないかという話があったが、師匠は「9月になったら徴用されるので入れない」と答えた。しかし松竹が食い下がり、それでも形式だけでも契約をと言ってネジ込んできたので、契約した。すると8月に終戦。師匠はこうして人形遣いになった。

師匠はいつも「わからんことあったらなんでも聞きや」と言っていた。もちろん、質問できるというのは、それだけのレベルに到達していないとできないことだが。師匠はなんでも教えてくれた。師匠は、「わしが20年30年かけてわかったことを、弟子が一言聞いて一瞬でわかるなら、それがええやろ」と言っていた。人形遣いの場合、芝居の核心になる手元の扱いは衣装に隠れて見えないが、女方はとくに手のひらにできたタコを見れば、どう遣っているかはわかる。でも、師匠は「わしはこうやるで!」と大っぴらに教えてくれた。しかし、「わしはこうやってるけど、ひとによって手のひらの大きさ、指の長さ、握力が違うから、同じにはできない」と言っていた。

師匠の教えでは、「自分の工夫でやっていい部分」と、「これは絶対あかん」という部分ははっきりしていた。師匠は人形拵えにうるさかった。たとえばこのおさんなら、いまなら1時間ちょっとで拵えられるが、若い頃は3時間も4時間もかかる。それを楽屋に置いておくと、師匠が「????」(聞き取れなかった。直接的なNGの言葉ではなく、「そうかー」みたいなつぶやき)と言ったらやりなおし。そういう師匠も若い頃は文五郎師匠にさんざん人形の拵えをやりなおしさせられたそうだ。文五郎師匠が晩年、演舞場で「酒屋」に出ていたとき、もうお歳だったので、師匠がかわりに人形を拵えていた。しかし、いくら拵えても「アカン」と言われて、やりなおし。毎日言われて、毎日お園を拵えなおしていた。1週間で6回拵えなおしたそうだ。何がアカンかったんですかと尋ねたら、わからんねんと言っていた。文五郎師匠は何がいけないのか言わなかったそうだ。師匠の推測では、「たぶんな、ふところにスッと手が入らなんだんちゃうかな」ということだった。若いうちは人形の着付けをきつく締めてしまう。歳とってくると、いいかげん(笑)になってくるけど。これは感覚の問題で、本当はいいも悪いもない。

師匠の教えでいまも有難いと思っているのが、「役のとらえ方、考え方」についての部分。この人物は何を訴えて帰るのか? 何をしたい? 何者? 侍なら、石高はいくらなのか? ……こういった、サキ・アト・ウラのものの見方を師匠から学んだ。

うちの師匠はとにかく演劇はなんでも好き。それに美術館、博物館、お寺。なんでも好きだった。ぼくも一緒に行って楽しかった。波長が合ったんかなあ……。師匠が合わせてくれてたんかもしれんけど……。師匠は「引き出しはたくさん持たなあかん、舞台で通用しなくなる」と言っていた(このあたりうろ覚え。文雀師匠の言動から和生さんがそう読み取ったということかも)。なにごともすべてが舞台に直結してためになるわけではないが、人生80年だとしたら、色々楽しんだほうがいいじゃないかと思う。3月に東大寺のお水取りがあるが、どうですかと言われて、おこもりの予約を入れてきた。ぼくもこの先舞台をどれくらい勤められるかわからないが、弟子が二人おるから、最後に連れていこうと思っている。ひとり「僕、喪中なんですけど」と言ってきたので、「そらアカンわ〜」と言ったけど。

師匠が亡くなってなにが寂しいかというと、舞台の話をツーカーでできるひとがいなくなったこと。師匠と対等に芝居の話ができるようになったのは、師匠が亡くなる直前だった。師匠の家はぼくの家のすぐ横で(L字型の隣同士?斜め隣?みたいなジェスチャーだった)、師匠が舞台へ出なくなってからも、「帰りにちょっと寄ってこ」と、いつも途中で寄り道して帰っていた。そこで「こういうことがあって」と話すと、「これ、あんまおもろないやろ(笑)」「あ、あれな」と返してくれた。そういう芝居の話を通じ合ってできるひとがいなくなったのが寂しい。

ぼくの紋は師匠から受け継いだもの。雀です。雀は師匠と仲がよかった中村扇雀さん(現・坂田藤十郎)からとっている。師匠と成駒屋さんは子どもの頃から仲がよかった。師匠が入門して、芸名を決めなくてはいけないとなったとき、文五郎師匠が「これにせえ」と言ったのが文五郎師匠の兄貴筋の名前で、それを継ぐわけにはいかないのでどうしようということになった。成駒屋さんのところへ行ったら、文五郎から「文」をとり、そして二人は仲がいいんだから扇雀から「雀」をもらって「文雀」にするといいと言われて、それを芸名にした。では定紋はどうしようという話になり、許可をもらって雀をいただいた。「千匹もおるから大丈夫や」(笑)。ぼくもこの紋を使わせてもらうときにはことわりに行っている。ちなみに「かずお」というのは師匠の本名。

……師匠の話はまだいろいろあります。失敗談とか(笑)。

 

 

 

┃ やってみたい役

好き嫌いはあるけど、一番好きな役は言ったことがない。言うと差し障りがいろいろあるんで。「あのひと嫌や言うてたけどやってはるで」とかなるんで(笑)。「いただいた役は一生懸命やります」としか言わない(笑)。やってみたい役? 『菅原伝授手習鑑』の二段目(丞相名残の段)の菅丞相がやりたい。でもこの役はできない。覚寿をやらないかんから(二段目が出たら自分には確実に覚寿の配役が来てしまうから)。それでいうと、『良弁杉由来』の良弁の役もやりたい。一度代役でやったことがあるが……。でも、師匠がいなくなったので、自分がおばあさん(渚の方)をやらないかんようになったので、もうできない。忠臣蔵なら塩谷判官や戸無瀬がやりたい(このあたりうろ覚え。やりたい役が配役として来る例の話だったか?)。飛んだり跳ねたりする役はぼくは性格的に……。「お半やれ」と言われたら、それはちょっとカンベンしてくれと思う。

でも、自分がやりたいかどうかと、お客さんの評価は別。お客さんの評価がすべて。若い頃からやりたいと思っていて、やっとその役が来てはりきってやっても、評価されないことがある。逆に「やりたくないなあ」と思っていても、「よかった」と言われることもある。

じ〜っとしている役が得意と言われるのは、性格だと思う。自分のセリフ(演技の番)が来たら、「待ってました〜っ♪」となる人もいる。いろんな人がいるから、良い。

 

 


┃ 修行や指導について

舞台上で、足遣いなどに「もうちょっと前出せ」「上げろ」等、声をかけることもある。「うん!(唸り声)」はよく言う。反射的に出るので、感情ですけど……。足遣いとの関係には、その人の上手い下手とは関係なく、「相性」がある。あんまりうまくいっていなくても、気にならないヤツもいる。でも、うちの場合、左・足はかしら(主遣い)に合わせるのが基本。

左も足もやったことがない役が来ると、神経を使う。やったことがあると気が楽。だから、若い頃は「てったい(手伝い=左や足に入る)」は何でもいく。いろんな人のてったいを数多く経験することが大切。女方はその方の性格にもよるけど……(どういう意味での発言だったか記憶があやしい。女方の場合は人によってやりかたがちがうということだったか?)

いまは映像という便利なものがある。ぼくらが入ったころはカセットテープの出始めで、それまではオープンリールだった。勘十郎くんとよく言うんですけど、「ぼくらどうやって覚えてたんかなぁ……?」(笑)。映像は便利だが、弟子には「“見方” はある」と話している。うまく利用しないとあかん(=諸刃の剣である)と言っている。

 

 

 

┃ 自分の個人仕事をよくわかってない和生さん

人間国宝になっても自分自身は変わらず、急にうまくなるわけでもない。いままでに対して認めてもらったということなので、このままやるだけ。人間国宝になって一番変わったのは……、よくネタで言うんですけど……、ぼく、自転車で駅まで行ってるんですけど、その駐輪場のおじさんが「先生っ!!!!」と言ってくれるようになったこと(笑)。「先生!! 今日!!! 出番ですか!!!!」(笑)。文楽は先輩の人間国宝が多いので、なったからといってどうということはない。

そういえば、大阪で人間国宝が集まるという会があったが、内容を聞かされずに行ってしまった。大阪城公園に劇場が出来て、そのこけら落としに呼ばれたのかと思っていたら、記者会見で上方の古典芸能の人の集まりと聞かされて「そうなんや!?!?!?!?」と驚いた。おめでたいものをと頼まれ、ぼくは玉助さんと二人三番叟に出ます。三番叟、何年ぶりやろか……。もう……ずいぶんやってない……。最後までもつかなぁ……。いつも翁やってるんで……。玉助さんについていけるかな……(笑)。

(会場からどういう催しなんですかと聞かれ)全然わからん!!!!!(キッパリ)催しものの名前もわからん!!!!!!!(スーパーキッパリ)(司会から和生さんが出るところは鑑賞料9000円ですと言われ)えっ!?!? そうなん!?!?!?!?!?!?!?(司会からのイベント案内を首をコクコクしながら真面目に聞く和生さん)*1

大阪城は最近随分綺麗になって。こないだ記者会見で行って「ウワー! すごいな!!」と、こんなんなっとるんかびっくりした。博物館があったころ、師匠と人形の飾り付けに行ったことがあるが、そのころからは全然変わっていた。いま大阪は外国人のお客さんが非常に多くなって。そういえば大阪城内にあるたこやき屋さんが5億円脱税したと聞いて、「そんなもうかるんや!?!?!?!?」とビックリした。これも外国の観光客の方のおかげですね。(謎のまとめ)

本公演以外の仕事については、技芸員は文楽協会と一年契約をしているかたちになっているので、外部公演に出るときはその申請を届け出る。それで文楽協会が把握してくれればいいのだが、受け取っただけでそのあとなにかをしてくれるわけではないので(届け出は受け取っているが管理しているわけではないので)、ぼくらもほかの人が何をしているかは知らない。ぼくらは「何日出演していただけますか」「わかりました」で当日行くだけ。一日いくらで働いてま〜す❤️ ぼくらは自分たちで切符を売るわけでもなく、宣伝等そのへんはすべて主催者がやっている。

5月の連休の最後には、女流義太夫の竹本駒之助さんと秦野市のイベントに出る*2。玉男さんと良弁杉。それと釣女、二人三番叟。義太夫はすべて女流の方。これはうちの師匠の文雀と駒之助さんがむかし紀尾井町ホールに一緒に出ていたりした縁。

 

 

 

┃ 舞台にまつわる交際・交流関係

勘十郎くん、玉男くん、ぼくの三人組は同期。ぼくと勘十郎くんは同年の入門、玉男さんは一個下。むかしは一緒にいろいろ遊んだ。ローラースケートやったりしていた(まじで!? あとのポワワン二人組はともかく、和生さんが!?!?)。ぼくはあんまりしなかったけど(やっぱり……)。ずっと一緒にいるので、舞台へ出るときも何も相談も打ち合わせもせずやっている。相手役をやっても気が通じ合っているので、やりやすい。

他の業界との付き合いに関しては、さきほどの話通り、成駒屋さんとは親しくて、「(文楽では)あすこはどうするんや?」とよく聞かれる。「わし、こんど高師直やるねん! そっちはどないするねん!?」と聞かれたときは、塩谷判官と高師直がやっているのは大名の喧嘩だと話した。それで、そこまで話したのなら観に行かなあかんかな〜と思って観に行って、楽屋へ挨拶に言ったら、「この芝居のお師匠さんやから!!!!」と座布団を譲られ、上座に座らされそうになった。文楽から歌舞伎に移入されたもの(義太夫狂言)は質問されることが多い。逆に歌舞伎から文楽に移入されたものは教えてもらうこともある。例えば『鬼一法眼三略巻』菊畑の虎蔵。これは雁十郎さんから「まだ子どもやから床机に腰かけても足をペタっとつけたらいかん(地面から足を浮かせていないといけない)」と教わった。うちは人形だからその通りにはできないが。ほかには、天狗飛びの術で飛び上がるところは、ジャンプしてから切り落とすとか(このあたり記憶あいまい。菊畑を文楽でも歌舞伎でも観たことないんでよくわからなかった)。ほかに成駒屋さんから教えてもらったのは、『国性爺合戦』の錦祥女の話し方。高楼の上から話すので、言葉尻を上げないかんということ(口調のことではなく、和生さんのジェスチャー的には、人形のかしらも上向きでないといけないということっぽかった)。これは『妹背山』の山の段の定高も同じ。川の向こうに向かって語りかけるので(やまびこ風のジェスチャーをしながら)。歌舞伎役者さんから学んだことはほかにもたくさんある。良弁の渚の方についてはお能の方に聞きに行ったが、それ(能の所作)は別物。考え方、見方を聞く。

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質疑応答で文雀師匠の思い出をという質問が出て、和生さんの❤️師匠LOVE❤️が炸裂したため、メインは結果的に文雀師匠の話になった。勘十郎さんの簑助師匠の話、玉男さんの玉男師匠の話はそれぞれのお師匠様ご自身の芸談本が出ているのである程度聞いたことがあったが、文雀師匠のお話をここまで聞く機会はいままでなかったので面白かった。

というより、師匠について語る和生さんがとてもよかった。本当に師匠を慕っていらっしゃったんだなと思って……。文雀師匠について語るときだけ、話しぶりが違うもの。師匠が亡くなって寂しいとお話しされているときは、文雀さんてたんに師匠というだけではなく、和生さんにとって本当にとても大切な方だったんだなと感じた。師匠と遊びに行って楽しかったという話も、本当に心から楽しそうに語られていて、いいなあ、羨ましい、人生のうちでそこまで心から純粋に慕える人に出会うことができた和生さんて、本当に幸せな方なんだなと思った。

それと、やはり、和生さんてすばらしい人だなと思った。和生さんってひょうひょうとした雰囲気で、まったく飾らずからっとした感じでお話しされるけど……、お話の端々からにじむ物事への取り組み方、考え方に共感したというか、感じ入ったというか、勉強になったというか。たとえ人生のうちで文楽を好きになっていなかったとしても、私は和生さんのことを好きになったと思う。偶然にすぎないけど、文楽を通してこの人を知ることができて、よかった。

私は、文楽を好きになるまでは、古典芸能の世界って自分には絶対共感できない「考え方」に支配されている世界だと思っていた。客にはいい顔をしているけど、根性論が横行していて、師匠や先輩はなにも教えてくれなくて、「見て勝手に学べ」という悪しき職人肌的な世界なんじゃないかなと思っていた。でも、文楽を好きになってから、いろいろな技芸員さんのお話を聞いて、そうじゃないお師匠様もいっぱいいるんだなと知った。先代玉男師匠の話もそう。弟子に身の回りの雑事をさせることを大変嫌ったそうですね。それが修行というものであって、そういうのをやってこそ師弟というイメージだったので、知ったときは驚いた。そういう無駄な我慢をすること・させることをいかにも「かっこいいこと」として語る人がよくいるじゃないですか。でも、そういう世界でなくしようとしている人、へたに現代的な業種よりはるかに合理的・理知的な考えで後継者を指導しようとしている人がいるんだ、それも業界の超トップクラスに。って。

当然ながら私の仕事は古典芸能のような特殊な世界とはまったく違う業界なんだけど、でも世界の構造には少し似ているところがあると感じていたので*3、勝手に共感したというか、救われたような気がした。もちろん、それだけじゃすまされない厳しい世界だろうし、いまもそういう環境で苦しんでいる方や努力でそれを打破して(あるいは持ちこたえて)勤めて方がいっぱいいらっしゃることもわかるけれど。

税金納めててよかった(唐突)。

 

 

 

最後に私から一言。

\第二部の切符買ってね❤️/*4

 

 

 

*1:和生さんがご自分でまったくわかっていないご出演イベントはこれです。
上方伝統芸能フェスティバル 
https://cjpo.jp/program/#hall-ss_geinofes
日時 2019年2月25日(月)~27日(水)
場所 クールジャパンパーク大阪 SSホール
和生さんは初日「上方伝統芸能フェスティバル~おめでたづくし!~」にご出演。ちなみに2日目には勘十郎さん(河連法眼館・忠信役)、3日目には玉男さん(大物浦・知盛)がご出演。そういえばいま思い出したが、和生さん、以前あるイベントで、ご自分がお客さんにとったチケットをどなたのためにとったのか忘れたらしく、ご自分が冠のメイン出演者にも関わらず場内で「ぼくからチケット買うた人〜〜〜〜〜っっ!!!!」って大声あげながら探し回ってたせいで、開場待ちしてる人たちが「!?!?!????」となっていた。

*2:竹本駒之助の会 人形浄瑠璃 人間国宝の競演 竹本駒之助×吉田和生 | 秦野市役所

*3:もう本当しょうもない「オレの話」を延々してくる人、自慢話は文化勲章取るか、切腹してから話しはじめて欲しい。業界的に文化功労者にはなれても文化勲章はいまだかつて受章者なしで今後も絶っ対無理なので、切腹がおすすめ。せっぷくのしかたはぶんらくでいっぱいいっぱいおべんきょうしたので、いつでもやりかたをしつもんにきてほしい!!!!!! そのてんにおいてはわたし、やさしい「ししょう」だから!!!!!!!!!

*4:写真掲載の条件、モロマ。国立劇場2月文楽公演案内ページ→https://www.ntj.jac.go.jp/sp/schedule/kokuritsu_s/2018/2471.html 国立劇場チケットセンター→PC http://ticket.ntj.jac.go.jpスマホ http://ticket.ntj.jac.go.jp/m/ 営業するからにはおすすめポイントを書いておこう。第二部は「大経師内」の一部に下手(左側)ブロックからしか見えない特殊な人形の演技が含まれているので、いまからチケット手配される方で人形の演技をよく見たい方には、中央ブロック左寄り・左ブロックがおすすめです。しかも、むしろやや後方席のほうがよく見えるという特殊なシチュエーション。玉志さんガチ恋勢のみなさんは左ブロック後方を追加購入してください。

文楽  トークイベント:桐竹勘十郎「『壇浦兜軍記』阿古屋琴責の段について」文楽座学

2月5日開催、NPO法人人形浄瑠璃文楽座主催のイベント。今回の内容は勘十郎さんから阿古屋についてお話しいただくというものだった。簡易ながら以下にお話の内容を整理し、まとめる。また、撮影可能だったため、後列席で写りは悪いけど写真もつけている。ご参考まで。

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┃ 『壇浦兜軍記』阿古屋琴責の段について

人形遣い桐竹勘十郎でございます。今月はお昼から時間をもてあましていて(笑)夜の7時半頃から出番です。今回の第三部は中将姫の「雪責」、阿古屋の「琴責」、責められてばっかりです(笑)。

風邪ひいてまして、きょうの話、鼻声で聞き苦しくて申し訳ないんですが、インフルエンザじゃないんでご安心ください。先月の大阪公演の途中で風邪をひいてしまって、治ったかなと思っていたんですが、東京に来たらぶり返してしまって。風邪にはポリフェノールがええらしいですね。紅茶より赤ワインのほうが飲みやすいんですけど(笑)。それとお茶がええらしいですね。病院の先生もひとり患者さん診終わると、お茶をひとくち飲みはるそうです。……って、いまから「ためしてガッテン!」始まるわけやないですよ(笑)。

『壇浦兜軍記』は1732年に書かれた作品。当時は一人遣いで、その2年後に三人遣いがはじまったそうですが、一人遣いの頃の阿古屋はどういうふうにお琴を演奏してたんでしょうね……(笑)。「阿古屋琴責の段」は五段構成の『壇浦兜軍記』のうちの三段目の口。文楽ではこの場面しか出なくて、わたしもここ以外見たことありません。上演順序としては端場(はば)、つまり物語の最初の場面ですが、「阿古屋琴責の段」は「立端場(たてはば)」で、切場にも匹敵する重要な場面です。立端場では、独立した大道具を立てます。普通、「口」に立てた大道具はそのまま次の場面にも続けて使われるんですけど、立端場の場合はそれだけのための大道具。立端場の例は、ほかには『一谷嫩軍記』の「組討の段」など。これは熊谷直実が敦盛に仕立て上げた息子の首を討つという重要な場面ですね。太夫も非常に力がいります。

阿古屋は景清と馴染みが深いとして詮議を受けることになります。景清は源平合戦を生き残り、頼朝をまだ狙っている平家の武将。阿古屋は身重で、おなかに景清の子がいるんです。詮議といっても拷問ではなく、畠山重忠という立派な源氏の武将が楽器の演奏を聞いて、その音にゆらぎがないかを聞いて判断します。上演がない部分には阿古屋のお兄さんも出てきます。お兄さんは「伊庭十蔵(いばのじゅうぞう)」といって、景清にそっくりという設定。「なんで?」って思いますけど、いかにも芝居ですね。それで、景清のかわりに腹を切ろうとしたりする。この兄は直前に景清に会っていて、景清がどこに行くのかも知っていて、阿古屋に話そうとする。でも、阿古屋は聞きたくないと言って耳を塞ぐ。阿古屋は清い心でこの詮議に臨むんですね。

 

 

 

┃ 阿古屋の配役について

ぼくが初めて阿古屋の足をいかしていただいたのは、昭和50年の7月、22歳のときに桐竹亀松師匠−−一輔くんのおじいさんですね−−が遣っていらっしゃったとき。足はなんにもしていないように見えて、大変。見た目何もないですけど、何もないことはない。ものすごく難しい。動きはないんですよ。でも「いかに主遣いを助けられるか」が腕の見せ所。ぼくも2度も3度も怒られた。亀松師匠は厳しかったんです。

そのあと昭和62年、ぼくが34歳のとき。うちの師匠が阿古屋になって、初めて左をいかせてもらった。阿古屋の左は、完璧に曲を覚えていなくてはいけない。どこを押さえるか、はじくか……。足は曲を覚えていなくてもいいんですけど、左は大変です。

そのあとしばらく阿古屋は出なくて、平成10年の東京公演で師匠が阿古屋。左をいかせてもらいました。その翌年の平成11年の1月大阪公演にも阿古屋が出て、師匠が配役されていたんですが、その前年の11月に師匠は倒れられて、出られなくなった。そこで桐竹一暢さん−−一輔くんのお父さん−−がよく左をいっておられたので、代役になった。阿古屋の主遣いは左をいったことがないとできないんです。それで、足だったわたしが左に入った。師匠は???(忘れた……身体系のリハビリ)と謡でリハビリをされて復帰して、また阿古屋に挑戦されて2回いかれた。そのときもわたしが左。

そして平成24年、初めて阿古屋の役をいただいた。「今まで足、左で積み重ねてきたことをここで!!」と思ったんですが、見るのとやるのでは大違い。これだけしか積み重ねてきてなかったのかと思った(笑)。大慌てで曲をさらえて。そのときも三曲は寛太郎さんでした。それから平成26年に阿古屋をいただいたときも寛太郎さん。そのあとも寛太郎さん(笑)。寛太郎さんは非常にやりやすい。注目している若手の三味線弾きさんです(突然のカンタローダイマ

平成26年のときには、頼んで太夫さん三味線さんの稽古場に入れてもらって。人形はあんまり稽古してないですけど(笑)、太夫さんと三味線さんは時間を合わせて何回も何回も稽古をしている。稽古場の隅に座らせてもらって、見学させてもらいました。それとはまた別に、寛太郎くんに演奏している様子の映像の録画を頼んで。そうしたら引き受けてくれて、ひとりの稽古のときにカメラを置いてやってくれたんです。それは今もDVDでとってあって。ラベルに「寛太郎のスーパーレッスン」って書いてあります(笑)。それを見ると、「なるほどな」と思います。

三味線さんの本物の演奏と人形では「同じ」にできません。人形は「そう見えればいい」。違うのがいいんです。フリは合ってません! 合っているように見せてるんです。演奏の出来はそのときの「運」。きょうはこのあとどうなるんやろ(笑)トークは阿古屋上演前に開催)。三曲のうちでは胡弓が音が素晴らしくて好きですね。自分自身は楽器はリコーダーくらいしかできませんけど(笑)、舞台に出ると、琴も三味線も胡弓も出来るような顔をしています(笑)。

 

 


┃ 紋十郎師匠の阿古屋と初舞台

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これは今月の小割帳。人形の主遣い、左、足、介錯、口上が誰なのかがぜんぶ書いてあるものです。1日の公演でも、1ヶ月の公演でも、必ずこれを書きます。これを作らないと芝居ができません。ここに「小割委員」と書いてありますが、いまはわたしと吉田玉男さんでやっています。清書は字が下手なんですがわたしがやらせていただいています。

昔の小割帳の写しも持ってきました。これはぼくが3月に中学を卒業して、4月に人形遣いの仲間に入れてもらった昭和43年のもの。阿古屋は桐竹紋十郎師匠。紋十郎師匠は父や師匠のそのまた師匠です。紋十郎師匠は阿古屋が大好きでした。

三人の水奴の配役が、わたし。もう辞めましたけど昇二郎、同期でした。そして和生さん。ぼくはこの水奴で初舞台。(小割の足が書かれた部分を見せて)これ見てください。わたしの足が「勘十郎」。父です(笑)。昇二郎の足が「玉男」(爆笑)。すごいでしょ。当時は人形遣いの人数が少なくて、27、8人しかいなかった。それもあるんですけど、大きいのは、水奴の役は入門したての人だけでは勤められないから。わたしたちは入りたてで、『壇浦兜軍記』は初めて観るし、浄瑠璃も初めて聴く。水奴は阿古屋に楽器を渡すタイミングが難しくて、1日くらいの稽古ではできません。紋十郎師匠はそこに大変うるさかったので、父や玉男師匠が足を遣いながら指図してくれたんです。人形遣いは舞台では無言というのは嘘です。もう、むちゃくちゃ言われます。「立てっ!!」「行けっ!!!」(笑)。それくらい言われないとできないんですね。あ、阿古屋の足は紋壽兄さんですね。(小割帳を示して)水奴は、左遣いの名前は書いていない。これは「欠け」と言って、こういう端役は必要なときだけ人が来て遣うことになっています。

数えてみたら、紋十郎師匠は阿古屋を108公演勤められていた。「舞台」じゃないですよ、「公演」です。紋十郎師匠は本当に名人で、当時は「東の歌右衛門、西の紋十郎」と言われていて。師匠のもすごいけど、紋十郎師匠の阿古屋は本当にすばらしかった。阿古屋に使う傾城のかしらは文楽座には2つあって、「古いもの」と「新しいもの」。ぼくが今の公演で使っているものは、紋十郎師匠が最後に阿古屋をされた地方公演で使ったもの。紋十郎師匠はこのかしらをことに好んでいたそうです(当時の新調のかしらで、肉感的ではっきりした豊かな顔立ちとかそういう彫りのつくりが気に入っていたという理由だったと思う。このあたりうろ覚え)

 

 

 

┃ 阿古屋の人形を組み立てる

(かしらがなく、打掛・帯をつけていない着物のみの姿の阿古屋の人形を見せながら)普段、人形はかしらをつけた状態で竹製の「人形立て」に立てておくんですが、阿古屋は傾城のかしらが大変重いため、バランスが悪くて立てることができず、かしら・打掛・帯を外した状態で部屋(楽屋)に立てています。打掛も非常に重く、着せたままにすると着崩れするので、出の直前に着せます。

まず帯。阿古屋のつけている帯は「俎帯(まないたおび)」というもので、またいたに似ていることからそう呼ばれているそうです。傾城は部屋の中では鮟鱇帯をしていますが、道中などには俎帯をつけます。今回の阿古屋の衣装は打掛も着物も帯もすべて新調。綺麗なんですけど……、言いにくいんですけど、慣れていないので硬くて遣いにくい。今回、帯の上につけている蝶と金糸・銀糸の飾りは、自分が勝手につけているもの。傾城の衣装そのものは夕霧などにも使っているんですが、阿古屋には特別感が欲しかったので、自分で考えてデザインして材料を集めて作りました。なにがええかなと思ったけど、蝶にしたのは、帯が牡丹柄なのもありますが、阿古屋の馴染みの景清の平家の紋、揚羽蝶をイメージしてのこと。本当は衣装は少しでも軽くしたいんですが、これは特別。文楽では、阿古屋はお琴を演奏した後、帯を後ろに回す振りがあるんですが、このとき後ろに回したフリをして帯を外してしまいます。

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次に打掛。阿古屋の着ている打掛は、左に桜、右に紅葉の刺繍が入っています。打掛を着せると人形が非常に重くなります。人形の衣装は普通は針と糸で縫い留めてるんですが、打掛のように舞台上で脱ぐものはセンバリで肩に仮留めをしておいて、脱ぐ直前に糸を引っ張って針を引き抜きます。糸は衣装の色に合わせたもの。このように肩に針を刺しておくことが多いので、衣装の肩の部分は傷みやすいですね。

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最後にかしら。傾城のかしらは女型のかしらの中でも大型。重さも普通のもののいくつ分かありますかね。髪型は「立兵庫」で、床山さんも工夫をしてできるだけ軽くしてくれるんですが、重い。普通にまっすぐ向いて顔をあげているときはいいんですよ。お琴を弾くためにうつむくときが大変。そのままでは持っていられません。そのときに足遣いが活躍するんです。琴の演奏中は、足遣いは「イッチョウ持ち」といって、右手で衣装を持ち、左手を帯と着物間に差し込んで、かしらの重量を人形の胸のあたりで主遣いと一緒に受けます。(このあたり話をかなり要約している。以下の1枚目の写真のようにするということのようだ)

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傾城はこのように大きなかしらや衣装をつけているので、腕もそれに負けないよう、普通の女方のものより大型の「5番」を使います。これは師匠から借りました(とおっしゃっていたと思う)。この手はほかにも夕霧や梅ヶ枝にも使います。

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阿古屋は打掛を取り、帯を取りと衣装を脱いでいくと、どんどん遣いにくくなります。打掛を脱いだときは軽くなるのでホッとするんですが、かしらだけが重くなってバランスが悪くなり、遣うのが大変です。

 

 


┃ 三曲の演奏

歌舞伎の役者さんは楽器の稽古をして本当に三曲を演奏するのがみどころですけど、文楽では床でプロの三味線弾きさんが弾いてくれますので(笑)。今回は寛太郎くんです。文楽では、人形と床がどれくらい「合う」かというのは、二の次なんです。先月の大阪でもあったんですけど、何度も見に来ていただいているお客さんが、双眼鏡で人形と床を交互に見て、フリと演奏が合っているかをチェックしていらっしゃることがある(汗)。そういうもんではないんです(笑)。やめていただきたいです(笑)。なるべく合わせる、ツボを合わせるようにはしています。

(古びた木箱を示して)三曲を弾くときに使う手はこのような木箱に入っています。ぼくは師匠のものを借りて使っています。箱の蓋の上部には「三曲」と書かれていて、左下には「簑助」の名前が入っています。そして、消えかけているけど、右下に薄く「紋十郎」とあります。これは師匠が紋十郎師匠から引き継いだもの。文楽座にはこの三曲の手が4組あり、立女方、つまり座頭級の女方を遣う人に代々継承されています。これが簑助師匠のもの。また別のひとつは先代清十郎師匠が使っていたもので、いまは当代の清十郎くんが持っています。それと亀松師匠のもの。もうひとつが文五郎師匠から引き継がれた、文雀師匠のもの。それぞれの弟子が受け継いで持っています。

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琴を弾くときに使う「琴手」は親指・人差し指に黒い琴の爪がついています。通常の手を衣装の中に隠し、この手に差し替えて琴を弾きます。文楽の舞台で使う琴は「短琴」で、調子を合わせてあるそうですね。だから正しいところに手が当たれば床の演奏とだいたい近い音が出るんですが、違うところに当たれば間違った音が出てしまいます。……気になりましたか? 大阪でも同じことをお客さんに聞かれたんです。でも、正しい音が鳴っていると聞いて、「よかったー」と思いました。

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三味線の右手には撥がついています。本来、本物の三味線を演奏するときは撥の上の角の部分で弦をはじくんですが、人形でそのように演技をしても弾いているようには見えません。どう弾いているように見せるかというと、「撥のお尻をうまく使え」と言われています。撥のお尻の部分を強調して動かすと、まるで弾いているように見えます(実演。手の動きの支点を撥の先端側に寄せて、お尻側を大きく動かすイメージ)。左手は3本の指が動くようになっています。舞台では水奴が小道具として三味線の撥を運んでくるんですが、どのように普通の手と三味線手を取り替えているかというと、受け取るふりをして袖の陰で元々吊ってある手を隠し、三味線手に持ち変えるんです。受け取った小道具の撥は後ろにいる介錯が受け取って隠します。むかし人が少なかったころは介錯をつけられなかったので、持ってきた水奴が渡すフリをしてそのまま持ち帰っていた(笑)。失敗すると撥がふたつあるように見える(笑)。左手は差金がついていて、右手と構造が違うのでこのようにはできません。左手は外してしまいます。「外す」といっても人形の腕は通常、紐で結わえて吊ってあります。どのようにしているかというと……、本当は見せるものではないので内緒なんですが、阿古屋のときだけ、肩のところでマジックテープで留めてるんです(笑)。それでつけかえる。最近は便利なものがたくさんありますから(笑)。ぼくの場合は、これで付け外しをしています。

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胡弓のときは、右手は普通の手で弓を持ちます。胡弓はまっすぐ立てて演奏します。左手は三味線と同じ手。演奏中の切れ目でない箇所での拍手についてですか。拍手はありがたいと思っています。なんですけど、胡弓の「つるのすごもり(小さな音になっていって、弓を大きく引く部分)」の切れ目でない部分(弓を引く前)で拍手が来ると、あれ??つぎどうするんやったっけ???となって、演技がわからなくなります。なので、寛太郎くんが拍手がおさまるまで演奏を待ってくれます。

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使う舞台下駄について。阿古屋の場合、人形が大きいので、ぼくの場合はふだん立役に使う「5番」という高さのものを使っています。演奏中はそれでは高くて遣いにくいので、右足だけ低い舞台下駄に変えています。これはぼくがそうしているというだけで、どうするかは自由なんです。

 

 

 

┃ 最後に

50年前、はじめて紋十郎師匠の阿古屋を拝見してからずっと憧れていた役を頂けて嬉しい。ぼくはこれで4回目ですけど、紋十郎師匠の108回を目指して(笑)がんばりたいと思います。ありがとうございました。

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1時間程度の会だったが、勘十郎さんはお話しがうまくて、お考えをよく整理されているので、内容の濃い時間を過ごすことができた。そして、やはりこの人すごく鋭いなと感じた。お客さんの反応をよく見ていると言うか、ほんわかとお話しされてはいるけど、実はぜんぜんすっとぼけてなどいない。洞察力が鋭い。さすが阿古屋を張る人なだけあると思う。

最後はご好意で阿古屋の人形に近づいて見たり、撮影できる時間を設けていただいた。勘十郎さんの大切な人形で、普通には絶対こんなにも近づけない、貴重な機会。おかげで、衣装の刺繍や生地の質感などをよく観察することができてとても嬉しかった。絢爛で気品のある、本当に美しい人形だった。

実は、大阪公演では蝶の帯飾りを不思議に思っていた。よくある舞台写真等では阿古屋は普通に俎板帯をしめているだけで、それ以上の装飾をしたものは見たことがなかったからだ。それと、金糸銀糸の飾りは大阪の初日ではたしかつけていなくて、二日目からつけていたように思う。オプションの飾りなのかなと思っていたら、まさかの勘十郎さん手作りとは。近づいてよく観察すると、至近距離で見ても仕上げがものすごく綺麗で驚いた。しかも、よく見ると部分によって少しモコモコした布でできていたりと、素材感が異なった凝った設計である。この記事をお読みいただいている方は、ぜひ上に貼った写真を拡大して見てみてほしい。勘十郎さんは手先が器用すぎて、世が世なら人気ハンドメイド作家になってしまっていたと思う。デザインフェスタに出て欲しい(出ません)。勘十郎さんは遣い方自体ではそこまで人形の体格感を出さないので、帯飾りをつけることで人形に対して客の視線を集める位置がやや上のほうに行き、人形の体格がバランスよく見えるように思う。

 

 

 

最後に私から一言。

\第三部の切符買ってね❤️/*1

 

 

 

文楽 1月大阪公演『冥途の飛脚』『壇浦兜軍記』国立文楽劇場

カンタロー、今年も手ぬぐい撒きでメチャクチャ遠投していたが、三曲弾くのに肩にあんな無茶をしていいのか。友之助さんもキャピキャピ遠投していたが、あの三味線さんたちの遠投への熱意は何なのか。むしろ手ぬぐい撒きは遠投に自信がある人が出るのか。去年も書いたが、技芸員さんのこういう「遠くまで投げたヤツがカッコエー」的男子高校生的ピュアネスぶりは本当にすごいと思う。どうしたらあの歳まであんなに純粋でいられるのだろう。本当、からあげクンを腹一杯食わしたらなあかんわという気分になる。*1

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『冥途の飛脚』。

正月公演は人形のアイドル3人組が引き立つプログラム編成、和生さんが政岡で勘十郎さんが阿古屋というのはわかる。それぞれの持ち味を生かした最高位の配役、演目も派手で客引きがある。それで、私は玉男さんにはそれに相当する最高位の武将役で出て欲しかったのだが……、なんで正月からこんなドクズドヘタレを!?!?!?!?!?!??! そりゃ忠兵衛は近松演目の最高ランクの役だし、すでに先代萩で子ども死んでんのにさらに熊谷陣屋とかやられても困るのはわかりますけど、ほんと世話物と近松に全然興味ないのもあって(だからダブル興味なし要素が乗っててやばい)、なんで玉男さんだけへにょっとした役なの?と思っていた。

しかし、忠兵衛、本当に素晴らしかった。本当に熱演で、観終わって、忠兵衛という役を見直した。本当これは他の誰もできない、玉男さんにしか出来ない役で、本当にこの配役でよかったと思った。と、「本当」を4回使った文章を書いてしまったけど、心からそう思った。私の玉男さんの好きな点として、客への媚びがなく、嘘のない雰囲気である点がある。それがよく出ることも悪く出ることもあるけれど、ヘタレ役が映えるのはこのためだと思う。少しでも媚びや作為があればそれがすぐ人形に映って卑しい雰囲気になり、他人から見たらヘタレたしょうもない奴だが、わたしにとってはただひとりの可愛い男ではなくなってしまう。私が文楽に求めている人形のうつくしさが失われてしまう。玉男さんは武将役では不透明な強固さが特徴だと思うが、こういう世話物のヘタレ男の透明感は絶品で、特に「淡路町の段」の前半で、下女お玉〈吉田清五郎〉に擦り寄るときの柔らかい仕草が最高。みんな、あのシーンのお膝タッチのクズさを見てくれ。相手役によって触り方を全部変えているのがわかる玉男様の手元演技の真骨頂だから。この指先の演技だけはほかの人形遣いだれも生涯玉男さんに勝つことはできないだろう。忠兵衛はこのあたりではひたすらナヨ〜っとしているが、「封印切の段」で八右衛門〈吉田玉輝〉に凄むところからは、みずみずしさをキープしたまま、芯が太い、まさに勢いに任せた雰囲気になるのも魅力。やっていることは救いようのないもう完全なドクズだが、こうなっても決して卑しさがにじまない清冽さが良かった。

清十郎さんの梅川も凍えるような悲壮感でとてもよかった。最初から最後までずっと涙が滲んでいるような目元や、陰鬱にうつむいた姿が印象的。しかし一心に忠兵衛に惚れていることがよくわかる。いや、もはや恋愛感情ではなくて、精神的に依存してしまっているのだろう。このいかにもなクズ男に情を移して破滅しそうな薄幸な雰囲気……、正月から清十郎が悲惨な役でよかった。今年も清十郎にはより一層不幸になって欲しい(心の底からの素直な感想)。そして、演目が発表されたときは「道行相合かご」はいいから近松版の新口村を出して欲しいと思っていたんだけれど、清十郎さんの梅川の哀れぶりやそれを気遣う忠兵衛の寂しさがよくて、結果的には上演があってよかったと思った。

ところで梅川、同輩たちから「カワさん」と呼ばれているのがおもしろい。仮に「梅川さん」という苗字の人がいるとしたら、みんな「ウメさん」と呼ぶのではないだろうか。知人で「梅◯」という苗字の人は大抵「ウメチャン」と呼ばれている。4文字苗字で下側を呼ばれるのは「渡辺さん」の「ナベさん」とかのオッサン系しか思い浮かばない。遊女である梅川が「カワさん」なのは、男まぜずの環境(女子校など)だと一般社会より女子の渾名がいかつくなる傾向があるのと同じ理由でしょうか。

それと八右衛門を見て、やっぱり、玉輝さんは役に対する人形の印象のコントロールが細かい人なんだなと思った。人形自体の重量とは関係ない芯の太さやあるいは軽快さの描写がおもしろくて、配役された役の重要度にかかわらず目で追ってしまう。八右衛門はとくに絶妙なキャラクターで表現が難しいと思う。一本調子では務まらない役。というか、たぶん、太夫人形遣いも客も、人によって役の解釈が違うと思う。私はドライで割り切った人物像という印象。今回のプログラムのコラムだと廓の世界の「粋」がわかっていない野暮天である的なことが書かれていたが、私はあまりにドライがすぎて他人の感情に頓着がなさすぎる一種の確信的無神経なんだと思っていた。他人の評価を気にしてやってるとは思っていなかったので(逆に他人視点がないからこそああいうことをやったんだと思っていた。だって陰で他人の悪口言うやつってそれこそ陰で嫌われるじゃないですか)、コラムを読んでそういう解釈もあるのかとびっくりした。

 

「封印切の段」の冒頭でちびカムロチャンが三味線で『夕霧三世相』を弾き語りするところは、おととし2月の東京公演で観たときはちびカムロチャンの人形配役がお若い人形遣いさん(私が観たときは和馬さん)で、それに合わせてか千歳さん&富助さんもちょっと稚拙風の義太夫にしていらっしゃった。が、今回は人形が玉誉さんで、普通に三味線めっちゃ上手いためか?、呂太夫さん宗助さんは普通の義太夫として演奏されていた。そして、この演奏中に花車〈吉田簑一郎〉がなにか本を読みながらチラチラと二階の部屋を見るが、この読んでる本、ちびカムロチャンが演奏している『夕霧三世相』の床本なんですね。表紙に「三世相」と書いてあるなとは思ったのだが、本を下げたときに義太夫文字で書かれた内側のページが見えた。それと、冒頭で千代歳〈桐竹紋秀〉と鳴渡瀬〈桐竹紋吉〉がじゃんけんをしているが、そのときに千代歳が手の甲をかざして何かを見ているのは、勝てる拳がなにかを占っているのかしらん? そういうの、子どものころにやったなあということを思い出した。

あとは道行に三輪さんが出演されていたが……、そりゃ清十郎さんの梅川の透明感を生かすベストなお声とパフォーマンスであるとは思うけど、勿体無い配役……。でも三輪さんは手を抜くなどはせず、合唱になるところも一文字目から最後の音引きまで綺麗に丁寧に語ってらっしゃった。揺らがないメンタルに本当に頭が下がる。しかし私が行ったときはちょっとお風邪を召されているのかなという感じで心配だった。それにしても文楽劇場のホール内、ハニワになりそうなくらい乾燥しているが、太夫さん方は大丈夫なのだろうか。

 

 

 

『壇浦兜軍記』阿古屋琴責の段。

これは、もう、勘十郎さん×津駒さんの阿古屋に圧倒された。まこと堂々たる最高位の傾城、舞台に咲く大輪の花だった。榛澤六郎に引かれて舞台に入ってくるあでやかな傾城姿は圧巻。ちいさな体にまとった豪奢な衣装の輝きとそれをさばく所作はまばゆいばかり。勘十郎さんのケレン味やある意味でのいかがわしさ、妖しさが最大限に発揮される配役だと思った。

しかし一番驚いたのは、阿古屋が本当に琴を弾いていたこと。琴を弾く人形って時々いるが、「あたかも本当に弾いている」ように見せるために、実際には弾くことができない特殊な演技用の手つきで演奏のフリをしている。しかし今回、阿古屋の手元をよく見てると、どうも本当に弦に指を置いて引っ掛けてるみたいに見えて(だから手のフリが普通の文楽人形の演技の観点からするとおかしいと思う)、勘十郎さんもじーっと人形の手元を見てるんですね。普段は余計なとこなんか絶対見ないのに。で、その手の動きと床の三曲演奏〈鶴澤寛太郎〉の琴の音が結構合ってるんですよ。特に手前側に手がくる時。そして、床が演奏している音の隙間から時々人形の手元の琴から音が聞こえることにマジビビった。当然、左手〈吉田一輔/出遣い〉は弦を押さえていないので完全に合わせられるわけないんだけど、結構合ってるんですよね。少なくとも全然違う音ではない。おそらく勘十郎さんはある程度(=人形の手が届く範囲で)琴の演奏を覚えていらして、できる範囲で弦をはじいてるんじゃないのかなあ。だって、そうじゃなかったら、普段の勘十郎さんならもっと華麗な、それこそ「あたかも本当に弾いている」ような手元の演技にすると思うもの。本当に弾いているから手の動きが不思議な印象になってたんじゃないかと感じた。時々、あ、手の場所忘れたんだなというような迷いのあるフリがあったり、寛太郎さんを見ていたのはそのためじゃないかな。 私は偶然阿古屋の目の前の席だったのだが、とにかく、その芸に賭ける執念に「すごい」を超えて「怖い」と感じて、この人まじで狂ってると思った。正気にては大業ならず。三味線と胡弓は楽器が本物でない(音が絶対鳴らない)ので「あたかも本当に弾いている」ような演技をされていたが、それでも人形の手元、あるいは寛太郎さんをよく見ていらした。三味線も、普通の三味線を弾く人形はバチを上から下へ動かす演技のみだが(実際、沢市の玉也さん、禿の玉誉さんはこれ)、床での三味線さんの演奏を見ていると、時々、下から上へかき上げたりもするじゃないですか。勘十郎さんはそういった実際の演奏に近い動きを時々混ぜ込んでいた。そして胡弓は後ろにおもしろおじさんがいるので、それに負けない、大きく弓を引いた情熱的な演奏。これは実際には演奏してないからこそできる熱演ですね。私、そのせいで阿古屋に釘付けになって、途中まで何で時々笑い声が上がってるのか、わからなかった。

津駒さんは松の位の太夫にふさわしい艶やかでしっとりとした語り、すばらしかった。それもピュアなみずみずしさとは少し違う、声の表面に融けた砂糖が結露しているかのようなしたたる色気というか……。阿古屋は設定としては結構若いとは思うんだけど、ちょっと老獪げな口調で山田五十鈴のような大女優風だった。大変力を入れておられることを感じた。ここまでのトロリとした毒とむせかえるような濃厚な色気、攻めた過剰さは津駒さんにしか出せない。本当は津駒さんには先代萩の切を語って欲しかったけど、勘十郎さんのケレン味の強い阿古屋の表現は津駒さんなくしては成立しないと思うので、阿古屋配役に納得した。あと、津駒さん、阿古屋が入ってくる前から汗(><)をかいておられて、まじで!?と思った。

 

畠山重忠〈吉田玉志〉はクリアな清潔感と知的な凛々しさがあり、すばらしい美しさだった。重忠は基本的に座っているだけなんだけど、人形そのものの容姿を超える内面からの輝きがあった。

重忠は阿古屋が三曲を演奏している最中、じーっとその演奏に耳を傾けている。その演奏を聴いているポーズが、三曲でそれぞれ異なる。まず琴は、目を閉じて正座して両膝を開き、その間に閉じた扇を突いて両手を添える。ってこの扇がなぜか空中で止まっている。その宙空停止姿勢でまったく動かないというのはかなりキツイと思われるが、まったく動かなくてすごいと思いました(小学生の作文)。次に三味線、このときは白州に降りるきざはしに長袴を履いた右足を斜めに下ろし(遠山の金さんスタイル)、刀もきざはしの下段に下ろしてやや上手に傾けて突き、それに両手をかけて軽く寄りかかり体も若干上手側に倒すポーズ。はじめはそこそこ体が傾いているのだが、途中からだんだんまっすぐに直ってくる。玉志さんて普段途中でポーズ直すこと絶対しないのに何してるのかなと思ったら、曲の途中に「トンッ!」と刀をつく場面があり、その所作に移行するために不自然でないレベルで姿勢を少しずつ直してたんですね。「♪さるにても我が夫の(トンッ!)秋より先に必ずと」で入る、この「トンッ!」という所作が何を意味しているのかについて、我がバイブル・初代吉田玉男文楽藝話』では「三味線では右足を踏み出し刀を杖にした姿勢、途中で阿古屋に泣き入るのを嗜めて、その刀をトンとつく」と解説されている。しかし現在文楽劇場の展示室に展示してある資料*2に載っている二代目野澤喜左衛門のコメントでは「景清が安芸の国にいることを、重忠の情にほだされて、それとなく白状して袖に目を当てます。そこで、重忠が刀をとんとついて注意しますので、はっと気をとり直して、また弾き出します」とあった。これ、どうなんだ? 原本を読むと阿古屋は景清がどこにいるかは知らないはずで、かつ、いまいるのは安芸の国ではないように思うけど、当時はこういう解釈だったのだろうか。初代玉男師匠のコメントは「泣いて演奏に失敗し、岩永左衛門につけ入られないように警告する」という意味かと思うが。この「トンッ!」がわりと大きな音で、サラリーマン必修のスキル「謎の長時間離席」をしていた岩永が驚いてチョロリンと戻ってくるのが可愛い。最後の胡弓はうつむき加減に目を閉じ、やや膝立ち風の正座になって、両太ももの上に手を置く。これは若干うつむいているので気づいたが、よく見ていれば、多分、首の角度も三曲それぞれで違うのだと思う。

そして何よりめちゃくちゃカワイイのがおもしろおじさん、岩永左衛門〈吉田文司〉。はじめは人形がデカいくせに動きが小物、他人の揚げ足を取るイヤ〜なヤツとして登場するが(しかし突然刀でエア三味線したり、扇子を広げて踊りだしたりするノリのよさ)、琴の演奏は一応重忠と同じ扇子をついたポーズで聴いているものの、三味線の途中でサボりはじめ謎の長時間離席。いつの間にかデカい火鉢を持って帰ってきて、火鉢の前にどっかと座り、あたたまりはじめる。両手を交互にあっためて、あったまってかゆくなった手をカイカイ。火鉢に両肘をついて「一応聞くか〜」としているうちにだんだん曲にノってきて、首を左右にフリフリ。しまいには火箸で阿古屋といっしょにエア胡弓。そして袖に炭が飛んで引火してアチチチチと大騒ぎ(ガチ点火)。火箸をおっことすのもカワイイよね。そして散々さぼりまくったくせに、最後はみんなと一緒に決めポーズ。…………なんという羨ましいワーキングスタイル……。岩永、観客の気が散り始める絶妙なタイミングで騒ぎ出すのも最高にいかす。確かに阿古屋の手元が見えない後列席のお客さんは胡弓の頃には演奏にも飽きてくるよね……。それにしても文司さんはずるい。チャーミングなキャラがめちゃくちゃ似合っていた。

あと榛澤六郎〈吉田玉佳〉がもうやばいレベルで一切動かなくてやばかった。動かなさすぎてどこにいるのかわからなかった。阿古屋を引いてきた後、帰ったのかなと思っていたら、上手で石像と化していた。阿古屋が三曲演奏しているあいだ、ピコンと座ったまままじで怖いレベルで動かない。まったく姿勢も直さず、エコノミークラス症候群になるのではと思った。

 

阿古屋、思っていた以上に、ギョッとした。語弊があるが、見てはいけないものを見た気分になった。やっぱり正気ではあの世界では生きていけないんだと思った。今回は人形に注目しすぎて床はほとんど見なかったので(というか、ツレ弾きより後ろが見えない席だった)、三曲の演奏自体に関しては来月の東京公演でよく観察したいと思う。

 

↓ 全段あらすじ記事

 

 

今年の初春公演はなかなかデラックスなおせち料理風だった。人形は今回は女方の配役充実度が高く、特に政岡=和生さん、八汐=勘壽さん、梅川=清十郎さん、阿古屋=勘十郎さんは相当いいもん観たという気分にさせてもらった。勘壽さんが意外なキラーキャラでよかった。ただそのぶん立役は役がまわりきっていなくて、玉勢さんと文哉さんは道行の駕籠かき役だけではさすがにかわいそうだった。

特記はしていないが、床は若手の方が本当に頑張っておられて、でも、いかにも「頑張っている」というような無理のある肩肘の張り方ではなく、自然な伸びやかさがあり、違和感なく聴けたのがよかった。重ねて書くが、女性配役を得意とする若手の方には、いますぐにはうまくいかず、もどかしいことがあったとしても、素直なままでご自身のよさを生かして頑張ってもらいたいと思っている。

今回は第二部の終演時間が早く、最後まで観ても東京行きの新幹線終電に乗れるため、第一部・第二部とも2回ずつ観劇することができた。2回見ていておもしろかったのが、上演のうえでの不完全要素があってもわりとすぐ改善されるんだなということ。たとえば人形さんてやっぱり初日はミスが多い。個人の技芸のクオリティは別として、出てなきゃいけない人形が出てない、小道具の受け渡しの準備不足、人形の手の位置等がおかしい等の演技上のミスなど。でも、2日目になるとちゃんと全部直ってるんですよね。『先代萩』の栄御前のところにも書いたが、衣装を綺麗に捌けていない人形も翌日にはうまくこなせていたり。太夫さんだと後期日程は声が枯れてしまう人がいるので尻上がりに良くなるとは言えないんだけど、人形は後期日程に行くに従って流れが整っていく気がする。あと玉志さんは浄瑠璃からのディレイが0になる。このままではジョジョ文楽化したときに高確率でプロシュート兄貴が配役されてしまうと思う。ペッシは文哉さんでよろしく。(話が大幅に逸れたところで突然終了)

 

 

 

ところで歌舞伎座の12月公演で阿古屋出ましたよね。それでね、玉三郎サンがBプロの岩永左衛門役の人形振りの役作りのために玉男様を訪問してお話を聞いたよ^^っていう話が歌舞伎美人にチョコリンと載ってたからみんな読んで。この話、玉三郎界隈ではともかく文楽界隈ではまったく広まってないと思うんですけど、いや玉男様がご自分からこの手の自慢話を一切しないのは重々承知で、それが玉男さんのいいところだと思うけど、文楽劇場はそこをゴリ押しして玉三郎と松竹の許可取って取材・記事公開して欲しい。

 

 

もうひとつ、これも文楽界隈で話題になっていないと思うので書きますが、現在公開中*3『YUKIGUNI』というドキュメンタリー映画に紋臣さんが出演されている。

映画自体はカクテル「雪国」を作ったバーテンダー・井山計一さんとそのご家族に取材し、山形県酒田市にある井山さんのお店「ケルン」を通して井山さんのバーテンダーとしての人生、そしてその「家族の肖像」が語られていくという内容。紋臣さんは芸名でのご出演にはなっているが、人形遣いではなくひとりの個人としての話をされる。一応書いておくけど、文楽の話はない(本当)。が、舞台映像が少しだけ入る。若手会のようだけど、舞台稽古かしらん? 予告編にも一瞬映ります。


映画「YUKIGUNI」 予告編 (2019年公開)

 

 

 

*1:手ぬぐい撒きでひとつ、ああ、やっぱりこの人たちは客をよく見ているんだ、と思ったことがあるので、書いておこうと思う。去年の初春公演の初日か二日目。私は結構前列席を取っていた。その私のとなりには、どうも初めて文楽を観に来たらしい若い女の子がひとりで座っていた。初日二日目で前列席に座っているお客さんというのは技芸員さん縁故の方が多く、かつ手ぬぐい撒きは内輪向けの雰囲気がある。私は内輪向けの空気が好きではないので手ぬぐい撒きは本当は退席したいのだが、正月のはじめからここに空席を作ってはさすがに無礼と思うような席だったので、そのまま座っていた。自分は栄御前以上に邪智深いので周囲がどんだけキャアキャアやっていようが「いや私は結構です」という態度を決め込めるけど、その子は騒がしい客席の空気感にどうしたらしいか戸惑って、浮いてしまっていた。かわいそうにと思っていると、ある三味線さんがあと数個というときになって突然、その女の子の膝にポンと手ぬぐいを投げたのだ。絶対横合いから取られないように。女の子はとても驚いていたが、嬉しそうにその三味線さんを見ていた。たぶん、その女の子はまた文楽劇場に足を運んでくれたことと思う。お名前は伏せるが、ああいうガチャガチャした場でもそういう目配りができるその三味線さんの細やかさに心を打たれた。その人は決して派手な人ではなく、ツレ弾きを真面目に演奏している姿を見るだけの人だったが、そのぶんより一層好感が持てた。もちろん、さすがにあそこまでいい席に座っているからには、その三味線さんの縁故の女の子だったのかもしれないけれど。

*2:タイトル控えてくるの忘れた、昭和29年だか発行だったかな、当時刊行された文楽のかしらのムック。

*3:現在、山形県内と東京都内で公開中。東京の上映館はポレポレ東中野アップリンク渋谷。1/18からはイオンシネマ日の出・イオンシネマ多摩センターでも上映。山形は地元だし、ドキュメンタリー映画祭の下地があるのかなって思うんですけど、なんだこの東京の変な公開館は?ポレポレとアップリンクはわかりますけどなぜ多摩センター???