TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

映画の文楽 1 『曽根崎心中』栗崎碧監督(1981)

大映の女優・栗崎碧(南左斗子)の監督・製作による自主制作映画。普通に考えて、俳優企画の自主制作となれば人間の俳優主演という方向にいくと思うのだが、本作は文楽人形の演技を普通の人間の俳優と同じ撮り方・演出で見せるという驚天動地の映画だった。

  • 曽根崎心中
  • 監督・製作=栗崎碧
  • 撮影=宮川一夫
  • 美術=内藤昭
  • 人形=徳兵衛:吉田玉男(初代)、お初:吉田簑助九平次:吉田玉幸、下女お玉:桐竹一暢、遊女:桐竹勘寿・吉田簑太郎(現・桐竹勘十郎)、吉田玉女(現・吉田玉男)、吉田玉也、吉田玉輝、桐竹亀次、吉田簑二郎、桐竹勘緑、吉田玉志、吉田幸
  • 太夫=竹本織大夫、豊竹呂大夫(五世)
  • 三味線=鶴澤清治、鶴澤清友、鶴澤清介、鶴澤八介
  • 栗崎事務所/1981

 

冒頭、通常の文楽公演のように下手*1の小幕*2がさっと開いて手代忠兵衛と醤油樽を下げた丁稚が入場してくると、カメラが大きく引いていき、そこが劇場のステージではなく生玉神社(生國魂神社)の境内だとわかる。カメラはかなりの引きになって、画面下部は木陰の落ちた地面、そのグランドライン上を人形が歩きまわり、背後には木々ざわめく生玉神社境内の風景と空が広がるという、文楽公演の舞台をそのまま実景に写し取ったような景色を映し出す。人形遣いはすべて黒衣で背景に溶け込んでいる。映像とはまったく別次元でバックに大夫の語る浄瑠璃、三味線の音が流れているが、その姿は映らない。

 

 

人形があたかも本当に地面を、神社の境内を歩いているかのような美術の作りがうまく、実景になじむよう作られた鳥居・灯篭などを入れ込んだ構図もビシッと決まっていて、「文楽を屋外で上演しているように撮ってるのか〜さすが大映出身スタッフで作ってるだけあって映像レベル高いわ〜」と思っていたら、すごいのはここから先。

本作に関してはじめに聞いていた話は「文楽人形を外に出して舞台になった実際の場所で撮ってる」ということで、観る前はてっきり背景書割にあたるものが屋外実写というだけで、ほかは通常の文楽公演と同じように家屋セットは真横アングル、人形が浄瑠璃に合わせてノンストップで演技をしているのを記録映像のように撮っているのかと思ったら、人間の俳優・女優を撮るのと同じようにカットを割り、寄り引きを作り、ときには右から左へ、あるいは奥から手前への移動撮影をおこなって撮っていて仰天。人形を俳優に置き換えるのではなく、俳優を人形に置き換えて通常の実写映画と同じ手法で撮っている。なんでこれを撮ろうと思ったのか、それ自体がすごいわ。製作のいきさつは存じ上げないが、とにかくすさまじい執念を感じる。

というのも、おそらく監督は文楽が好きでこの映画を企画したんだと思うけど、文楽が好きな人は普通は絶対これはやらないと思うから。特に寄りの撮影。人形の顔には基本表情がないため、全身で感情表現の演技をする。人形バストアップ撮影というのは、よく観察できるように思えて、芸の鑑賞としてはその逆、ものすごく見づらい*3。もうひとつ、人形遣いを黒衣にしたのも大変な決断だと思う。*4なんで折角の玉男様簑助様が黒衣やねん!?!?!?てなりますよ。文楽をご覧になったことのない方は、出遣いすなわい「結婚式の新婦の父?」みたいな紋付姿のすんごい普通の真顔のおっちゃんが人形の背後に立ってるのに違和感あるとは思うんですけど、文楽見慣れてくると黒衣のほうが逆に違和感あるんですよ!!! しかしこの作品ではそれらのイレギュラー要素がうまくいっていて、異様な映像空間を作り出している。

 

 

寄りで撮っているもんだから、黒衣姿の人形遣いが完全に見切れて見えなくなっており、まるで人形が生命を得て勝手に動いているようでおそろしい。異様にレベルの高いパペットアニメーションを見ているような感覚。ユーリ・ノルシュテインヤン・シュヴァンクマイエルの映像を初めて見たときのような……作り手のドン引きするほどのすさまじいド執念によって本来魂がないはずのもの=紙に描いた絵や人形に生命が宿ってしまった、本来この世にあってはならないヤバイもん見ちゃった感がある。

特に怖いのがお初(吉田簑助)の寄り。前述の通り、文楽人形には基本的に表情はない。お初の人形の場合は目を閉じる仕掛けがついている程度。よって、首のかしげ方やうつむき加減、肩の表情で感情を表現しているんだけど、よくもまあこんなバストアップで表情が出てるなーと思う。人形がここまでの寄りに耐えられる演技をしていることに驚いた。目を閉じる仕草、首のかしげ方、震える面差し、徳兵衛にそえる手の表情、なにをとっても動きがきわめて繊細で驚く。実際の公演ではたとえ最前列に座っても観客はここまで近づいて見ることはできないし、記録映像でもここまで寄りでは撮らない。こんな微細な表現をしていても、それは人形遣い本人しかわからないだろう。しかも本人は人形を覗き込めるわけではないので、この演技を見ることのできる人は誰もいない。誰にも見えないのにやっているというのがすごいのだが、これはそれをとらえている映像。

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↑ 渡邉肇『簑助伝』より、吉田簑助氏とお初の人形(2010年撮影)

 

しかしこれは人形遣いのうまさのほかに撮り方にも要因があって、バストアップになるときは若干高めのアングルから撮っているため肩〜胴体にかけてのひねりの表情も写っており、人形の感情表現がよくわかるようになっている。単に真横バストアップで撮っているわけではなく、人形を撮る工夫がなされている。さすが名匠、宮川一夫と思わされた。

このように人形の技術、撮影の技術ともにきわめて高いためか、芝居をしているのはたしかに人形のはずなのに、これはいわゆる「人形振り」の演出で、俳優に対し人形遣い役の黒衣がついているかのように見える不思議な映像に仕上がっている。通常の公演でも、人形がひとりでに動いていて、うしろについている人形遣いの3人が人形に引きずられているように見えることがあるが、その感覚を映像で再現している感じ。

 

 

徳兵衛(初代吉田玉男)とお初は、ともに透明感のある可憐で儚い印象。すっとしたしなやかな美男美女で、息をしてゆっくり上下する肩や胸元にふっくらとした色気が漂い、人形ならではの濁りの一切ない、限りない透明度を感じる。そしてふたりとも人形のはずなのに大俳優、大女優の風格。日本映画黄金期の大俳優・大女優起用の巨匠映画を観ている気分になる。って、演じている人形遣いは俳優・女優ならそれぞれの最高ランクにあたる人なので当たり前だが。

以前、にっぽん文楽の休憩時間のサービスで八重垣姫の人形が一緒に写真を撮ってくれるというのがあったのだが*5、そのとき写真を撮ってもらったお客さんがスマホに保存した人形との写真を見て、「大女優に一緒に写真撮ってもらったみたい!」と大喜びされていた。その言葉と同じことを、この映画を観て感じた。ものすごくうまい人形遣い(頭の悪い言い方ですいません)は通常の公演でも出てきた瞬間に舞台の雰囲気、そして客席の雰囲気までもさっと変えるようなオーラを放っていて、それは人間でいうと大俳優、大女優の持つそれなんだろうなと。

 

 

■ 

物語構成は近松原作とも文楽現行曲*6とも異なるオリジナルで、生玉社前→観音巡り(浄瑠璃なし)→天満屋→天神森という流れになっている。また、実際の公演ではすべて同じセットのまま進行するシーンでも場所を細かく変えていたり、通常の上演では不可能な回想シーンや風景イメージシーンがちょこちょこ挟まれてきて面白い。

たとえば冒頭部分。普通の文楽公演(生玉社前の段)では「別客に連れられて社前の茶屋に来ていたお初が自分を呼んでいる徳兵衛の姿に気づき、茶屋から出て来て話しかけ、外でしばらく話をしていたら、九平次が通りかかる」という流れになっているところ、本作では「別客に連れられて社前の茶屋に来ていたお初が自分を呼んでいる徳兵衛の姿に気づき、茶屋から出て来て話しかけ、茶屋の屋内に二人で入ってしばらく話をしていたら、外を九平次が通りかかって、徳兵衛が話しかけに行く」という空間を感じる流れに変更されている。徳兵衛が九平次に金を貸したと語る場面は回想シーンとして入っており、通常の上演では観られないオリジナル演技が入っている。

天満屋の段の冒頭では花街を客や幇間、女郎、下女のツメ人形*7が賑わしく歩き回るシーンが入り、当時の色里の様子をありありと伝える。天満屋内も通常の文楽公演のセットにある店の上り口の部屋のほか、女郎が化粧をなおしている部屋(店先の格子の中?)、店の二階など数カ所のセットが組まれていて豪華。天満屋屋内は深いつやのある木のしつらえが印象的。

天満屋では、上がり口に腰掛けたお初の、その打掛の中に隠れた徳兵衛が心中の意思を彼女に伝えるため、お初の足を手にとって喉に当てるという有名なシーンがある。ここはみんなが期待するシーンのためか、結構文楽公演の見え方に近い、真横アングルの様式美的な撮り方を基調としていた。『仮名手本忠臣蔵』を映画化した『大忠臣蔵』(松竹/1957)*8という映画があるのだが、この作品、途中までは脚本が『仮名手本忠臣蔵』なだけで普通に実写映画の映像文法で進んでいくものの、一力茶屋の場面にくるといきなり演出が歌舞伎になり、同じくカメラが真横アングルFIXになるのだが、妙な引き絵になりすぎていて、他のシーンとのつながりにおおいに違和感があった。が、本作では天満屋のこの真横アングルの場面に違和感はなく、寄り引きのカットを織り交ぜて一連の流れの中に溶け込んでおり、うまいなと感じた。このシーン、よく見ていると、お初のバストアップのカットでも徳兵衛がちゃんと打掛の中にいる。映画ならお初役の女優さん単独で撮影すると思うが、あの人ら的にはたとえカメラの画角に入っていなくてもいつもと同じようにやるということなのか、こだわりを感じる。

最後に心中する場所、天神森はふたたび屋外ロケ。霧が立ち込め、草木生い茂る暗い池のほとりをとぼとぼと歩く二人を斜俯瞰から引きでとらえたカットでは、背景が暗いこともあって人形遣いの姿が完全に闇に溶けて消えており、人形が本当にひとりでに動いているように見える。人形だけを自然に目立たせる照明がうまい。

 

ちなみにこの映画独特の演出での私のお気に入り所は、天満屋の夜の場面。吊行灯の下で寝ている下女(桐竹一暢)を二階にいるお初の目線の俯瞰アングルで撮っているシーン。お玉がふとんからはみ出すようなものすごいガサツな寝方をしていてかわいい。通常の文楽公演ではお玉は客席側に小さい屏風を立てて寝るため、客席からお玉の寝姿は見えないのだが、こういう気持ちで遣ってらっしゃるのだな。

あとは人形にあわせた移動撮影が斬新すぎてびびる。移動撮影って映画ではごく普通の手法だが、公演を普通に見る分には絶対ない見え方だし記録映像でも絶対ありえない、またパペットアニメーションでもほぼ不可能の技法なので、人形でそれをやるとこう見えるんだというヴィジュアルショック……。

また、前述の通り本作は普通の実写映画のような撮り方になっているので、人形の振りは必ずしも通常公演と同じわけではなく、映画的空間でカメラに向かって演じるためのオリジナル演技がつけてある。人形遣いさんたちもよくやってくれたなあと思う。カメラに目線を向けて演技をするのもすごいけど、カメラに左遣いが映らないようにしていると見受けられるカットも多いので、カットを割ること前提で演技プランを工夫しているんじゃないかしら。

シーンにあわせた光を作る照明の焚き方も特異。文楽は通常は常灯のまま上演するので、だいぶ雰囲気が変わって見えた。とくに天満屋の内部はロウソクの明かりを模したオレンジ色の薄暗い照明で、人間主演の時代劇よりも凝っているくらいだった。

 

 

本作は、存在は聞いていたが観る方法がなかったものの、機会を得て鑑賞することができた。機会を与えてくださった方々に深く感謝申し上げます。

一度はスクリーンで観たい映画だが、昨年のラピュタ阿佐ヶ谷の芸事映画特集ではこれはかからなかった*9。上映用フィルムが存在しているのであれば、シネマヴェーラ渋谷の「妄執・異形の人々」特集あたりでやってほしい。間違いなくあのカテゴリの映画。

 

 

*1:向かって左側のこと

*2:舞台左右の人形の出入り口にかけられた、のれん状の小さな幕のこと

*3:文楽の記録映像は基本引き目。寄っても人形はひざ以上は写っている+人形遣いも同時に写す撮り方

*4:1体の人形に対し3人ついている人形遣いのうち主遣い(人形のかしらと右手をあやつる人。この人のみ配役表に名前が載る)が顔出し&紋付袴姿で出演すること。文楽公演は基本的には出遣い

*5:八重垣姫は上杉謙信の娘=大名の娘で品格の高い役なんですけど、このとき姫を遣っていたのは実際の公演で八重垣姫をやるような格の方ではなく若手の方だったせいか、姫が若干キャピっていて、「町に遊びに出た姫と入れ替わって姫の姿に化けた町娘」みたいになっていて可愛かったです。

*6:昭和30年の復活公演以降のアレンジ版

*7:モブキャラ。小ぶりな一人遣いの人形

*8:http://www.kusuya.net/大忠臣蔵

*9:文楽からはマーティ・グロス監督『文楽 冥途の飛脚』が上映された

文楽 3月地方公演『妹背山婦女庭訓』『近頃河原の達引』府中の森芸術劇場

地方公演、10月にも行っただろと言われそうだが、配役が変わったのでもう一度行った。

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会場となる「府中の森芸術劇場」は、最寄駅は京王線の東府中、そこから大きい道なりに徒歩7分程度と、地図で見るぶんにはわかりやすげな場所なのだが、駅に「府中の森芸術劇場 右の北口出て左に曲がり横断歩道渡って右に曲がって横断歩道ウンヌンカンヌン」と、金殿の豆腐の御用が教えてくるお清所の場所かよっていう文章での案内が出ており、混乱させられた。

府中の森芸術劇場」はオーケストラピットのあるコンサートホールを含めた複数のホールを持つ大型の劇場施設。文楽はそのうち「ふるさとホール」という伝統芸能等を上演する小さめのホールが会場で、文楽劇場のように左右両翼に桟敷席が設置されていた。定式幕を引ける構造になっているものの、道行で吊るす浅葱幕を落とすことができないようで、引き上げで対処していた。

 

 

昼の部は『妹背山婦女庭訓』。人形の配役はお三輪=豊松清十郎、求馬=吉田和生、橘姫=吉田文昇、鱶七=吉田玉也。

お三輪は10月公演(桐竹勘十郎)より、より幼く、透明感のあるいたいけな感じだった。勘十郎さんは(杉酒屋の時点では)おっとりしたお嬢さん風だったが、清十郎さんは等身大の少女的な感じ。和生さんの求馬は優柔不断のクソ野郎にはならず、なんらかの意図があってそうしていることを匂わせる、ぴんとした印象だった。貴公子感が相当あった。

杉酒屋の段。お三輪が不穏な様子。子太郎(吉田玉勢)が余計なこと吹き込むあたりが一番不穏な様子なのだが、手の震えはそれはそわそわや不安を表現しているのか、それとも何らかの不本意な理由によってそうなってしまっているのか。背中に差していたうちわを手鏡のようにかかげるところ、かしらはしっかりしているのだが、持ったうちわがカタカタしているのが目立ってしまっており、後者なら心配。もしそうなら本当、お忙しいのはわかっているがなにより大事なお身体、ご無理のないようにしてほしい。意図だとしたら、求馬の言い訳を聞いた後(〽さすがはおぼこの解けやすく)以降は普通にしているのと、身分が違い仕草も異なる橘姫が出てくると差異が際立つので意図はわかるのだが、少々やりすぎのように感じる。

杉酒屋の床は咲太夫さん・燕三さん。最後、お三輪を追いかけてお三輪ママが駆け出すと、ママの帯に結わえつけられた酒樽の栓が抜けるところ、コポコポコポ〜酒がこぼれるぅ〜ああもったいないぃ〜って感じの三味線でよかった。

 

道行恋苧環。三味線が良かった。2月本公演より良かった。それにしても10月勘十郎さんのお三輪は相当やばい女で、あれに二股かけたら道行で一緒に踊らずその場で求馬がメッタ刺しにされても仕方ない感あったな。勘彌さんの橘姫を袖でおもいっきりぶったたいてキーッてやってたし。いや勘彌さんも負けじとぶったたいていたが。今回のおふたりはポンっと当てる程度でかわいらしかった。

 

姫戻りの段、金殿の段。10月勘十郎さんは相当エキサイトしていたが、今回の清十郎さんは金殿ではだいぶかわいそげな感じで、官女にいびられるところもかなりシオシオしているが、とくに鱶七に刺されたあとはもう死んでるのかなってくらいおとなしい。勘十郎さんは官女にいびられたあと相当狂乱していて鱶七にも楯突いていたが……。演技の組み立ては人によって違うのだなと思った。今回はお三輪がおとなしい分、最後に鱶七が正体をあらわす場面が際立っていた。冒頭に登場する豆腐の御用(吉田簑二郎)はお局様感のあるゲスでよかった。

金殿は我がお気に入り、津駒太夫さんが出演されていた。津駒さん、床が回った瞬間から (>_<) って感じの必死な表情と申しますか、トイレに行きたそうな表情なのがいつも気になっていたが、今回、かなり上手寄りで床がよく見える席になったのでじっと津駒さんを見ていたら、なにもはじめから必死なわけではなく、おそらくもともと必死感のあるお顔立ちで、上演前からお顔が (>_<) って感じになっているのは、単にパチクリまばたきされているだけのご様子だった。いや上演中は本当一生懸命でいらっしゃいましたが。上手に座ると気づくことが多いなと感じた。

 

 

夜の部は『近頃河原の達引』。人形の配役は与次郎=吉田玉男、伝兵衛=吉田簑二郎、おしゅん=吉田和生。

堀川猿回しの段、帰宅してきた与次郎がかぶっているてぬぐいがネコミミ状でかわいかった。与次郎は帰宅後、母に薬湯(お茶?)を飲ませる、今日のあがりを数える、お茶をわかす、たばこを吸う、ご飯を食べるなどやることが多いが、やることそのものは同じでも、10月の勘十郎さんと内容が違っていておもしろかった。ご飯を食べるところでは、勘十郎さんは「おひつからごはんをよそおうとするが、お弁当の残りがあることに気づいて、お弁当の残りのおにぎりをつつましく食べつつ、わずかなおかずである梅干しを酸っぱそうにちょびちょび食べる」みたいな庶民的な姿を表現する流れにしていたと思うが、玉男さんは「まずはお弁当の残りのおにぎりを食い、おひつのごはんもすべてさらえて残さず食う。でも梅干しはちょっとかじっただけで微妙な顔になり、即座に皿に戻す×2回」という流れだった。玉男さんの与次郎は自然体に生きておられるようだが、梅干しはお嫌いなようだ。よく見ると何かやるごとにひんぱんに眉毛をぴこぴこしていて、チャーミングな印象だった。

それはともかく、与次郎が足拍子を踏むたび、その振動で七輪の箱の上に乗った急須がぴょんぴょん飛び上がり、カタカタだんだん傾いてきてひっくり返りそうになっていたのでドキドキした。後ろの席の人は、最後、マンガみたいに急須が傾いたとき、「はっ」と声を出してしまっていた。あと一回足拍子が入っていたら玉男様がギャグになってしまうところだった。

和生さんのおしゅんの気品はさすがだった。掃き溜めに鶴。どうしてあの兄にこんな妹がいるんですかねって感じだった。

堀川の冒頭で、与次郎の母(吉田文昇)が三味線を習いに来ている女の子(稽古娘おつる=吉田玉彦)と合奏するところ、見ているとさすがにベテランの文昇さんのほうが三味線弾いてる感ある遣い方。バチを持つ手の腕の張り方と三味線への引っ掛け方、バチを弦に当てる角度がうまく、人形が持っているのは拵えものの三味線なのに、本当に音が鳴っていそうだと感じた。

そういえば10月に見たときはどうなっているのかわからなかった七輪の箱の火の粉、やっぱりあれは本当に火がついているんですね。与次郎が七輪の箱をうちわであおぐと、ほんのりと炭が燃えるような香りがした。たばこも本当に火がついているようで、杯を落とすとき、灰が落ちきるまできせるをカタカタ打ちつけていた。

 

 

公演日が3月11日だったため、冒頭の解説では東日本大震災の被災者のかたへのお見舞いの言葉があった。

解説は昼は靖太夫さん、夜は咲寿太夫さんで、双方で解説の組み立てが違っており、それぞれ独自に考えているんだなと思った。夜のほうは解説中、字幕立看板のGマークくんに独自の字幕(セリフ)を流していたが、あの字幕の内容も咲寿さんが考えたのかな。

会場規模は国立劇場小劇場くらい。客席に適度な傾斜がついていて人形が見やすかった。昼夜ともほぼ満席で、お客さん年齢層は本公演より若め。特に夜の部は(当社比)若い人のほうが多いほど。浄瑠璃の詞章や人形の仕草ひとつひとつにみなさんキャッキャと盛り上がっておられ、暖かい雰囲気だった。咲寿さんが解説で「文楽を初めてご覧になるかた?」と会場に尋ねておられたが、挙手されたのは3割くらいか。でもこれで文楽初めて観るっていいですよね。出演者も豪華だし、人に土産話を話せるような演目や内容ですからね。

今回はチケットをプレイガイドで取ったため席が指定できず、昼夜とも本公演では取らないような床の間近の席になった。やっぱり床に近いほうが三味線の音が綺麗に聞こえるな。離れた席とは音の澄みきり感やピンとした緊張感が違い、大変な贅沢感があった。これから本公演でもときどきは床の前の席にしようかしらん。でも人形は少々見づらいね。いや、人形は見えるのだが、人形遣いが見えない。昼の部、橘姫が衣をかついでいるときの文昇さん、夜の部の官左衛門役の玉也さん、お姿が人形に隠れてよく見えなかった。

 

10月地方公演(横浜公演)の感想はこちら 

 

 

  • 『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』杉酒屋の段、道行恋苧環、姫戻りの段、金殿の段  
  • 『近頃河原の達引(ちがごろかわらのたてひき)』四条河原の段、堀川猿廻しの段

文楽 赤坂文楽 #16『本朝廿四孝』奥庭狐火の段 赤坂区民センター

赤坂文楽は、東京公演会期付近に赤坂区民センターで行われている単発公演。夜7時開演とはいえ渡世の義理に縛られた身では平日夜のお出かけは難しいのだが、つばさがほしい、はねがほしい、とんでいきたい、とばかりに馳せ参じた(きつねの霊力はないので東京メトロ利用)。

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第一部は勘十郎さんのひとりトークショー

いままでは勘十郎さん・玉男さんのふたりで映像を流しながら昔の師匠の話などをコメントしていたそうだが、今回は「相方がいない」ということで、勘十郎さんがおひとりでお話をされていた。トークショー中も舞台上に灯篭や泉の橋など「奥庭」の上演用のセットが出しっぱなしになっており、そのセットの解説もあり。以下、トーク内容まとめ。

 

┃ 「お初」の役 〜2月東京公演所感、4月大阪・5月東京公演に向けて〜

  • きのう(2月20日)までの2月の東京公演は『曾根崎心中』でお初の役をいただいた。おかげさまで、1月の大阪につづき2月も大入り袋が出てよかった。東京の『曾根崎心中』では玉男さんが相手役だったが、4月の大阪公演では清十郎が徳兵衛。この配役は初めてなのでどうなるのか、自分でもわからない。
  • そして5月の東京公演でもまた「お初」の役。同じ「お初」でも、『加賀見山旧錦絵』の召使お初。これは思い出深い役。14年前の襲名公演のとき、夜の部で『加賀見山』が出たが、お初役の一暢さんが病気休演されて、お前がやれ!と代役が回ってきた。お初は甲斐甲斐しく世話をするなどやることが多く、大変な難役。そのときが初役で、昼の襲名公演がどーでもえー!となるほど頭が真っ白になった。いや、どうでもよくはないです、ちゃんとやりました!

 

┃ 八重垣姫

  • 1月の大阪公演は『本朝廿四孝』の八重垣姫を初めて「十種香」「奥庭」通しで遣った。「奥庭」はよくやっているが、「十種香」は初めて。いままで誰がやっていたかというと、師匠(吉田簑助)。師匠は「十種香」が好きでいつも「十種香」を師匠が遣い、あとやれ、で「奥庭」が来ていた。
  • 今回、各人に配られる配役表の封筒を開けて、「十種香」の八重垣姫が自分になっていたので驚いた。しかも師匠が腰元濡衣役で驚いた。今年は自分が師匠に入門して50年の節目にあたり、短い時間でもいいから師匠と共演したかったので嬉しかった。自分は芸歴50年、師匠はもっと上で75年。歳は20歳離れている。この歳で、現役で師匠と一緒に舞台に立てることがほんとうに嬉しい。
  • 「十種香」の八重垣姫は難しい。八重垣姫は「三姫」といわれるお姫様役の中でも最高位で、座頭がやるような役。複雑なストーリーが展開する『本朝廿四孝』のうち「十種香」「奥庭」は典型的な四段目で華やかな場面だが、「十種香」の八重垣姫は冒頭の十数分じ〜っとしており、そこが難しい。存在感がないとお客さんに観ていただけない。後ろ姿で芝居をしなくてはならない場面で、気苦労が多かった。しかも腰元役の師匠がず〜っと横におるし……。
  • 師匠は何も言わないが、「入門から50年経ったんか〜やってみ〜」という気持ちでいつも自身がやっている役をくれたのかなーと思った。上演中、ときどき師匠が「チラ」とこっちを見ていて、「50年でそれか〜」と思われているような気がした。いままでの修行の成果を出すべく、全力で頑張った。(お客様には)「またきつねか〜」と思われるかもしれないが、好きなんです。

 

┃ 奥庭の舞台装置ときつね人形

  • 今回の舞台の手摺は二尺六寸。基本(本公演)は二尺八寸だが、舟底のない通常の会場で二尺八寸にしてしまうと、手摺が高すぎて客席からは見上げの姿勢になってしまうため、会場にあわせて手摺の高さを調整している。場所によってはもっと低く設定することもある。
  • (奥庭用のきつねの人形を手にして)にほんごであそぼ」などではきつね色のきつねを使うこともあるが、文楽では基本的にきつねは霊性を帯びた生き物なので、白ぎつね(きつねの動きを実演。顔で背中をかく仕草など)文楽のきつねの人形は一見犬に見えるが、しっぽが違う(しっぽをポインとはねあげながら)。きつねの遣い方は(1)しっぽを上げない。上げると犬に見える。(2)顔を上げない。上げると妖しさがなくなる。という口伝がある。
  • 補遺:この実演のとき、勘十郎さんがきつねを遣っていないあいだはきつねはやはりただのぬいぐるみでぐったりしており、勘十郎さんが遣うと大きな動きをさせなくてもちゃんときつねに見えるのが不思議だった。しかし勘十郎さん、遣ってないあいだはきつねの喉をひっつかむというわりとラフな持ち方をされていて衝撃。狩られたきつねの死体のようだった。
  • 父の先代勘十郎はきつねを遣うため、天王寺の動物園へ勉強に行っていたが、何度行ってもきつねは寝ていた。父曰く、「動物園は朝行かなアカン。どうぶつはエサ食ったら寝てしまう」

 

┃ 「にほんごであそぼ」の文楽どうぶつ人形たち

  • 今日(2月21日)はNHKの「にほんごであそぼ」のロケで朝8時から船橋アンデルセン公園へ行った。風が強すぎて、予定本数が撮れなかった(この日は関東地方すさまじい強風)。そのロケに一緒に行った仲間を紹介します。

 

その1 いぬ(一人遣いぬいぐるみ)

↓ こいつ(驚異のぶりっこ写真帳、勘十郎様FBを貼っておきます)

  • イソップ童話で、水に映った自分の姿を見て吠えてしまい、口にくわえていた肉を落とすいぬ。自分で作った。耳が立つのと、目が開く(まぶたが動く)つくりにした(肉を落としてしまい、はっ!とする表情を実演、かわいー!!と客席大喜び)
  • 文楽にはあまりいぬが出てこない。『冥途の飛脚』の羽織落としで忠兵衛とぶつかるいぬ、『伽羅先代萩』で若君が飼っている狆くらい。あれらにはあまり仕掛けがなく、動かない。
  • 補遺:このいぬまじでかわいいです。ハンドパペットやミニぬいぐるみにして、NHKのショップで売ってほしい。ちなみにこやつ結構大きくて、奥庭のきつねよりひとまわり以上大きかったです。つよそうでした。

 

その2 かっぱ(三人遣い)

  • 文楽劇場にはハムレット、お岩さんなど、ずっと使われていないかしらがたくさん眠っていて、もったいなく思っていた。これはそのうちのひとつ、かっぱのかしらをリメイクして作った人形。からだは自分で作った。水かきもある(かっぱ、おてて広げてアピール)。体とかしらにはちりめんを貼った。
  • かっぱのかしらはとても古い。かつて紋十郎師匠がお客様に呼ばれて出るお座敷の座興のために作ったもの。「河太郎」という名前で、小唄にあわせてすすきをかついで踊る人形だった(このあたり話が高度すぎてよくわからなかった)。

 

その3 たぬき(三人遣い)

  • 文楽劇場の奈落で長い間眠っていたもの。NHKから「かちかちやま」をやりたいと言われ、たぬきもうさぎも人形がないんやけど……と思っていたとき、小さい頃のアルバムに、劇場の楽屋で姉と自分とたぬきの人形とで写った写真があったのを思い出した。小道具さんに頼んで探してもらい、奈落で見つかった。かなり古いものなので、おなかの白い部分を(とても大きいぽんぽんをなでなでしながら)あたらしく貼りかえてもらった。うさぎは耳が動くものを作った。
 

┃ 新作、こども向け文楽演目について

  • 30歳になるかならないかのころ、幼稚園で上演する用に「ひょうたんいけのおおなまず」という話を作った。こども向けの演目は必要ないと言われることもあるが、文楽は99%悲劇なので、こども向けにはたのしいもの、きれいなものをやりたいと思っている。古典になるものはまだできていないが、どんなに忙しくても、大阪の夏休み公演第一部のように、みんなで新作に取り組むようにしている。
  • 新作は作曲と本(脚本、浄瑠璃)が難しい。良い芝居は良い曲と良い本によって成立する。文楽では名曲と言われる『義経千本桜』の道行(道行初音旅)、『忠臣蔵』の道行(道行旅路の花嫁)でも、オペラのように作曲者の名が残ってはいないが、曲はとても大切な要素。自分が書いた新作は全部清介さんに曲をつけてもらった。作曲料は出世払いということにしてもらって……(はっとして)ぼくまだ出世してないんでまだ払ってないです!
  • 幼稚園で上演するにあたり、幼稚園の先生にあらかじめこどもが飽きないで見られる条件を聞いた。(1)15分以内、(2)動物が出てくる、(3)常に人形か舞台が動いている(人形が会話しているだけというのはNG)。「ひょうたんいけのおおなまず」は、釣り人と大鯰の対決の話で、いつもエサだけ取られて釣れない釣り人がついに大鯰を釣り上げる(が結局またエサだけ取られて逃げられる)だけの15分程度の短い演目。
  • 前半は舞台を下手「釣り人のいる池の淵(土手)」上手「なまずのいる池の中」に分け、釣り人がなまずを釣り上げるとなまずが上へ持ち上がって舞台転換し、舞台全体が上手側へ移動して、下手側からなまずが出てくるという仕掛けにした。これで飽きずに観てもらえた。
  • 現在、太夫・三味線・人形すべてで今までにないほど引き合いが多く、本公演以外も仕事が多くて忙しいが、そのなかでもみんなでいっしょに新作への取り組みを頑張っていきたい。
  • とか言って、あした締め切りの原稿まだ終わってないんですけど……

 

┃ 新著『一日に一字学べば…』

  • 宣伝みたいになってしまいますけど、『一日に一字学べば…』という本を出しました。(とか言いつつ別に本は持ってきていない勘十郎様……)
一日に一字学べば……

一日に一字学べば……

 
  • 題名の「一日に一字学べば…」は、『菅原伝授手習鑑』寺入りの段で菅秀才がいう台詞。菅秀才て、名前からして頭よさそうですね……。これは、1日に1文字ずつでも学んでいけば、360日(太陰暦の一年)で360文字を学べるという教えで、自分が好きな言葉。タイトルの語尾に「…」がついているのは、自分は学んだわけではないから。
  • 文楽の芸も一足飛びにうまくなることはなく、1日に紙1枚ずつ積んでいくようなもの。誰も見ていないからと言って無造作に束で積めば、狂いが生じてきて積めなくなってしまう。それが怖い。
  • 文五郎師匠は、出の拍手で「自分は人気がある」と調子にのってはいけないと戒めた。芸のわかる人は拍手をしないという。芸がよければ終わりに大きな拍手をいただける。しかし本当によかったら、お客様はうなづくだけだと。
  • 菅秀才といえば、小さいころ、歌舞伎の舞台で子役をやらされて失敗したのが思い出。寺子屋へ松王丸と春藤玄蕃が検分に来るときに並ぶこどもの役で、姉も出ていた。自分は頭が大きくて、子役用のいちばん大きなかつらでもきつくて、頭が痛かった。玄蕃が門口でこどもを順番に掴んで検分するのだが、自分の番が来たとき、わらじを履いてくるのを忘れて、履きに戻ってしまった。あとで玄蕃役の方から「そういうときはそのままでいい」と叱られた。よだれくりのようなこどもだった。(このあとちょっと上方歌舞伎の役者さんの話。知識なさすぎて何を話されているのかまじでまったくわからず)

 

人形遣いの修行と今後

  • 足遣い、左遣いの頃、師匠から「はぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜(ものすごく脱力した深いため息)」と言われた。「早い」「遅い」と言ってくれればいいが、言ってくれない。そのうち、何も言われなくなる。それがいちばん怖い。
  • 師匠が『伽羅先代萩』で政岡を遣ったとき、自分は左遣いで入っていた。政岡は左が難しい役で、まま炊きでうちわを振るときなどは細心の注意を払って遣ったつもりだったが、師匠は「はぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜」と言ってきた。おそらく、左遣いとしてはよく出来ていても、政岡の左になっていないという意味だったと思う。
  • 師匠もかつて、その師匠に「はぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜……… お前もそのうちわかるわ〜〜〜……」と言われたそうだ。自分が師匠の足、左だったとき、同じことを師匠から言われた。そしてまたぼくもいまそれを実感している。
  • 文楽の研修生制度について、人形に関しては講習2年は長いと感じている。太夫、三味線は色々とやることもあるのだろうが、ぼくは人形は1年経ったら舞台・楽屋実習をさせている。舞台の袖から上演を見るほか、できることから経験させている。失敗しながら学んでいってほしい。
  • 先人の教えで「言われたことはすぐ忘れる」「聞きに来い、聞きに行かないならわかっていると思われる」というのがある。といっても聞きに行くと、「まだ早い」と言われる。これはどういうことかというと、あまりに自分の力に見合わない、例えば自分の力が2のときに5のことを聞いたということ。基礎ができていないときに教えると、変なくせがついてしまう。先輩たちはよく見ている。
  • 足遣いは大変な仕事。(腰を落とし、実際に足遣いの人の姿勢をしてみせながら)こういう姿勢でいつづけるのは若いときしかできない。人によって10年、15年と経験期間は違うが、自分は足遣いが面白いと感じるようになったころに左がつきだした。そのときは、端役の主遣いを振られるより、主役の足のほうをずっとやっていたいと思っていた。
  • 左遣いは、足遣いより体勢的には楽だが、常に気を張っている。昔は主遣いが倒れたとき(その瞬間かしらを受け取って構える仕草)、すぐ交代できる人が左遣いと言われていた。いまは若い子にも左につかせているので、少し違うが。
  • 昔は足遣い、左遣いのままで一生を終える人もいた。しかし、人形遣いとして名が残らなくても、左遣いとして座頭が頭を下げて左を頼みに来るほどの人もいた。かつて栄三師匠が八重垣姫を遣うとき、桐竹亀三郎という左遣いの名人にいつも左に入ってもらっていた。「十種香」の冒頭、八重垣姫は上手側で客席に斜め後ろの姿を見せて座っており、左手側が客席を向く。なので左の演技が肝心で、このとき左遣いが失敗すると完全な後ろ姿になってしまい、客席から祈る姿が見えなくなる。また、「十種香」では八重垣姫は打掛を着ているので、左遣いがしっかりしていないと打掛の重さがすべて主遣いにかかってしまう。
  • 自分は動く人形であればなんでもやりたい。体力は年齢とともに落ちていくが、気持ちは落とさずやりたい。若い人に芸を形を崩さず受け継ぎたい。襲名も名前を預かっているだけなので、「桐竹勘十郎」の名前を落とすことのないよう、できれば上げることのできるよう、今後も頑張りたい。

 

やさしい口調で1時間淀みなくのお話。11月の三井記念美術館の対談式トークショーではあまりにおっとりされていて不安になったが、おひとりで人形の話をされている今回のほうがはるかにイキイキとされていた。基礎知識的内容なので上では省いたが、三人遣いの発祥の解説などは年号含めかなりスラスラ喋っておられた。勘十郎さんはおひとりのほうがパフォーマンスが上がるタイプなのかも。そしてやはりお人形を持っておられるときが一番楽しそうなご様子だった。

 

 

 第二部、『本朝廿四孝』奥庭狐火の段。

ステージは間口がかなり狭く、本公演のような船底・段上の2段に別れる綺麗なセットの組み方ができないようで、かなりコンパクトに入り組ませた立て込みになっていた。

ネガティブなことから書いてしまうが、会場、義太夫節を聴く環境として悪すぎる。おそらく講演会用のホールで音楽用の音響設備ではないというのも大きいんだけど、会場の建築構造上、床を客席に張り出して設置できずステージ上手袖に設置しているため、そもそもが音が聞こえづらい。私の席は上手かなり後列だったこともあって、いちばん奥側に座っている呂勢さんの声がかよわくしか聞こえない。三味線の音も本公演の会場のようなピーンと張った響きがまったくなくて、かなり華奢。ステージ上の音がどれくらい聞こえないかというと、藤蔵さんの掛け声が気にならないくらい聞こえない(クソ失礼)。唯一はっきり聞こえたのが琴(鶴澤寛太郎)。なぜなら、床が狭すぎて琴を本公演のようにまっすぐ置けず、床に対して斜めに置いているため、客席上手側正面を向いて弾いている状態になっており、上手に座っている私からすると琴の音が真正面になるため、一番大きく聞こえた。というか、太夫の声が負けそうになっていた……。前列席だとまた聞こえ方も違うだろうが、ご本人たちはいつも通りやっているだろうにこれはなかなか辛い。なお、私の席は上手寄りすぎて上手側の舞台袖に隠れてカンタローの姿が見えず、「連れ弾き、誰?????」状態だった。

そんなこんなで冒頭部分〜きつねが演技をしているあいだは「どうしよう……」と思っていたのだが、きつねが去って、カラカラと履物の音を響かせながら八重垣姫が現れた瞬間ステージの空気が変わった。ステージが狭く立て込みも特殊という劣悪な環境で人形のパフォーマンスが下がらないのがすごい。八重垣姫の演技は本公演とかわらず鳥肌もので、これは誇張でなく実感として、人形のまわりだけ時空が歪んでいるようだった。本公演だと客電落とした客席含め劇場空間すべての雰囲気が変わり異界に飲み込まれるイメージだけど、この公演だと客電つけたままで上演していることもあり、八重垣姫の半径1m以内だけ異界になっている印象。

ちなみに八重垣姫は狐の霊力が乗り移ってからも左、足は黒衣。引き連れている白狐は2匹でこれも黒衣でした。

 

 

とはいえ、トークショー付きで派手な演目を豪華な配役でやるというのはやはり引きが強い。価格設定は5,500円と本公演並みだが、それに見合った内容と言える。ステージの狭さは目をつぶるとして(こじんまりとした演目ならむしろいいのかもしれない)、これであとは音響さえよければいいんですけどね。会費上がっていいから会場変えてくれないかなぁ。

トークショーは初心者向けではなくファン向けのハイコンテクストな内容で満足度が高かった。イベント自体は一応初心者もターゲットのようだが、さすがにトークショーは勘十郎さんのキャリアをある程度理解していないとよくわからないと思う。演目選定は初心者の私からしても初心者向けにとても良いと思う。

会場キャパ400席で満席だったが、客筋は大阪公演か若手公演のような雰囲気。東京本公演のようにたしなみ感覚で来ている人はあまりいないようで、後列までほぼ全員が固定の文楽ファンだろうと感じた。年齢層は本公演より若めで、会社帰りの人が多いか? 開演ギリギリに来る人も多く「7時はちょっと厳しい」と話されている方の姿もあった。私も開演7時半くらいのほうが嬉しい。

次回5月は玉男さんと燕三さんがご出演ということで、四つ足で駆けてでも行かねばと思っているが、なんとかして少しでも前列下手の席を取らないとせっかくの燕三さんの三味線が勿体無い。この赤坂文楽太夫さんや三味線さんのファンの人はどうしてるんだろう。やはりみなさん何がなんでも前列を取っているのだろうか。それとも音響に目をつぶって……いや、耳をつぶって(?)おられるのだろうか。同じように外部主催による単発公演・にっぽん文楽でも後列席だった方は床の聞こえ方に対してかなり強い不満があったようだが、本公演以外は会場状況が事前に予測できず、やはり色々と当たり外れがあるなと感じる。