TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

民俗芸能公演 淡路人形芝居『賤ヶ嶽七本槍』淡路人形座 国立劇場小劇場

国立劇場主催の民俗芸能公演。民俗芸能の人形芝居って観てみたいけど、なかなか遠方までは行けぬと思っていたら、国立劇場の民俗芸能公演に入っていたのでチケットを取った。このような上演が一度しかない公演も、あぜくら会なら確実にチケットを確保できる。入ってよかった、あぜくら会!(とは言っても発売日の昼過ぎにその日が発売日だったことを思い出して取ったので、席はあぜくら会とは思えないヤバイ後列でした)

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淡路人形芝居は文楽と同じく人形浄瑠璃で、今回上演の『賤ヶ嶽七本槍(しずがたけしちほんやり)』は上方での伝承が途絶え、現在は淡路にのみ伝わる演目だそうだ。小田春永・武智光秀の没後を舞台とした、柴田勝家と真柴久吉の小田家の家督相続を巡る争いの話。

 

「清光尼庵室の段」。小田春永の長男に長女・蘭の方を輿入れさせ、久吉方の家督相続の候補者である嫡孫・三法師をもうけさせていた足利政左衛門(前田利家のこと)の一家を描く部分。

幕が開くと黒衣の口上から始まり、舞台にならぶ人形は黒衣の三人遣い、黒の着付に肩衣をつけた太夫・三味線が出語り床に座っている(床は回さない)。しかし、太夫・三味線が女性だったり、人形のかしらが大きくて、頭身がちょっとマンガチックだったりと、文楽とは所々が異なっている。人形は構え方が若干違うらしくて、それと関係があるのかはわからないが、ツメ人形が若干前傾姿勢。文楽公演と雰囲気が異なり、ちょっと緊張(私が)。

政左衛門は久吉から、蘭の方の養父が小田家転覆を図ったため、三法師の跡目相続の障害とならぬよう蘭の方の首を差し出せと迫られていた。しかし実は蘭の方は政左衛門の実子ではなく、義理ある人の子であった。一方、政左衛門の次女・深雪は大徳寺焼香の折に出会った勝家の子息・勝久と恋に落ちるが、叶わぬ恋を悲観して庵にこもり清光尼と名乗っていた。この清光尼の庵室に、父・政左衛門が訪ねてくる。政左衛門は彼方で始まった真柴と柴田の合戦を見物すると言い、深雪の庵に遠眼鏡(望遠鏡)を据えさせた。そして髢*1を深雪に渡し、遊びはもう止して父の役に立つべく婿を取れ、還俗せよと促すが、深雪はそれを拒否する。

そうこうしているうちに久吉来訪の知らせが届き、政左衛門は三法師を伴った久吉と面会する。久吉は政左衛門に改めて蘭の方の首を催促しに訪れたのだった。政左衛門はしばらくここで待っていて欲しいと久吉に告げる。

政左衛門が庵室から帰った後、姫のお付きの三人の腰元たちは押し合いへし合い、遠眼鏡ではるか遠くのイケメンを見たり、大太刀を帯びた武将を見て斬られた〜いなどとキャーキャー騒いでいるが、そのうち合戦をしている武者の中に姫の想い人・勝久を見つける。腰元らに遠眼鏡の前へ引き出された黒袈裟姿の姫が覗いてみると、それはまさしく勝久であった。姫は捨てていたはずの俗世を思い切れなくなり、赤い振袖姿に着替え、簪をさして還俗してしまう。そこに政左衛門がふたたび現れ、姫に蘭の方の身代わりに死んでくれと頼むが、姫は「勝久を思い切れない、ここでは死ねない」と拒否する。政左衛門は、勝久はまもなく討死する運命、所詮この世で添えぬなら冥途で添えよと姫に自害を迫る。そのとき遠方から法螺貝の音が聞こえ、姫は遠眼鏡を覗き込む。すると遠眼鏡の先には数多の軍卒たちと戦う勝久の姿があった。やがて、深雪のもとに勝久討死の報が届く。悲しみに暮れる深雪は、姉の身代わりに死ぬことを決意し、父・政左衛門に首を討たれる。勝久は深雪の首を白布で包み、奥の間で待っていた久吉に渡す。政左衛門は久吉が偽の三法師を立てて奸計を巡らせているのではないかと疑うが、久吉は腕に抱いていた偽の三法師––正体は久吉の実子・捨千代––の首を討つことで誠意を示す。久吉の真意を知った政左衛門は、隠匿していた本物の三法師を黒袈裟姿に扮した蘭の方とともに久吉に引き渡した。

深雪姫が法螺貝の音を聞いて遠眼鏡を覗く場面では、その視線の先にあたる、まさに遠眼鏡の向いている客席後方扉からツメ人形軍団、続けてきらびやかな若武者姿の勝久の人形が現れ、客席通路で合戦を繰り広げる演出にびっくり!  だから遠眼鏡が客席通路に向けて設置されていたのか。かなりの後方席だったが、この演出のおかげで人形を間近に見ることができた。ちなみに法螺貝の音は本当に客席後方で演奏。いきなり背後でブオ〜〜っと大きな音が鳴るので驚く。下手の御簾内にいたお囃子の人がいつのまにか客席後方に移動してきていて、後方ののれんの奥(?)で演奏していた。

ところで姫が赤い振り袖に着替えるところで気づいたのだが、なんか、姫役の人形のフォルムが見慣れたのと違う。特に人形が座っているとき。なんだか全体がシュッとしている。よく見ると振袖が広がらずにそのまままっすぐ下に落ちていて、人間が普通に着たときのような感じ。文楽のように全体フォルムが △ にならず、凸 の形になっていた。

また、この段は太夫・三味線が3組交代したのだが、最後の切の太夫のみ男性で、他は女性だった。人形芝居には音楽部分が義太夫節でないものもあるけど、淡路は義太夫節。女性の義太夫は人形芝居では(あるいは生では)初めて聴いたが、思っていたほど違和感はなかった。後ろから見ていると、床をガン見している人は結構いたが……。切の男性の太夫さんは、(男性だから比較しやすいんですけど)かなり文楽に近い、だが文楽よりもうちょっと清廉な感じだった。でもこれはその太夫さんが文楽時空よりお若いからかも。文楽でもお若い太夫さんは清楚な感じなので…… 。この方だけ、割と明確な語り分けをされていた。

あとは久吉と政左衛門が面会する場面で、庭の池からぴょんぴょん現れるかえるちゃんが可愛かった。

 

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「真柴久吉帰国行列の段」。ここはまさに娯楽を見せる段。ツメ人形が舞台上手から下手へひたすら行列していくだけ。しかもちゃんと大名行列みたいな役割分担があるので、次々違う格好の人形が現れる。ときには2人の毛槍持ちが毛槍を空中に投げて交換したり、いうことをきかない軍馬がいて手綱を持っている人形がぐいぐい引っ張ったり。無限にわき出てくるツメ人形にめっちゃ笑った。

そういえば、文楽では軍馬はブヒヒンって感じのリアルな馬だが、淡路ではわりとアバウトな顔の馬というか、片山まさゆきが描く馬が実写化したようなおそろしくシンプルなお顔の馬だった。

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まじこんな感じ。しかもみんなちゃんとたてがみの形が違っていて、角刈りのヤツとか前髪流してるヤツとかいて、笑いそうになった。後ろと隣の席の人は爆笑していた。

 

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「七勇士勢揃いの段」。

賤ヶ嶽の戦いで功名を立てた久吉の7人の勇士(武将)たちが槍をたずさえ馬に乗って久吉のものへ集ってくる。そのうち、加藤正清は指物(背中にさす旗)を忘れたと言い出し、そのへんに生えていた笹ではいけないかと久吉に尋ねるも、生の青々とした笹は古来よりの習わしで許されない。そうこうしているうちに、柴田方の武将・山路将監と佐久間玄蕃が現れた。清正は次々と軍卒たちをなぎ倒し、その首を笹に七夕飾り状にくくりつけて指物とした。さらに山路将監を倒した正清に、久吉はついに生笹の指物を許す。正清は玄蕃をも討ち果たし、久吉らは勝鬨をあげて本陣へ引き上げてゆく。

冒頭、 久吉とその七人の部下たちが馬に乗って舞台に居並ぶ場面が圧巻。人形遣いが人形1体につき馬含め4人×8体で32人なので、文楽でもなかなかできなさそう。

加藤正清が軍卒たちを斬り捨てていく場面は、軍卒のツメ人形一人一人の殺し方が違っていて楽しませてくれる(というと物騒だが)。次々と遊郭の使用人や遊女、客たちを斬り殺してゆく『伊勢音頭恋寝刃』でもそうだったけど、いちいち芸が細かい! 首が飛んだり、かしらが文楽でいうところの梨割で頭を縦まっぷたつにされてもおメメをパチクリさせていたり、さいごの一人はぴゅーっと逃げ出したり。山路将監と戦う場面も遠見の人形(てのひらサイズのかなりプチなやつ)が大岩の上でキャイキャイやったりなどしてかわいらしく、楽しい。二人の動きは文楽でいうところの猿回しの猿だった。

加藤正清の足の方、なんだかきわだってうまかった。他の人形は足取りが少々おぼつかないのがいたり、立ち止まったときの足の形がうまく決まっていなかったりしたのだが、加藤正清だけはいかにも立役っぽい、しっかりした足取りでノシノシ歩いていた。加藤正清のみ派手な殺陣の場面があるので、ベテランの方がついていたのかしら。

 

 

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全体的に、民俗芸能と聞いてイメージする素朴な人形芝居ではなく、かなり洗練されていると感じた。さすが常設劇場のある一座。今回は人形に人数のいる演目なので、人形遣いが足りなくて地元の人などに出てもらったりしているようだ。

人形のかしらの大きさはしばらくすると気にならなくなった。印象としてはむかしNHKでやっていた人形劇に頭身が近いので、ある意味なじみがあるからかも。でも実際やっぱりデカイ。顔の大きさは全員武将なみ。席がセンターブロックうしろから3列目で、文楽公演なら人形の顔はまず見えない後列だったのだが、そこからでも顔がある程度見えたので……。あんだけかしらがデカイと、人形、メチャ重そう……。逆にツメ人形は文楽よりこぶりな印象だった。

しかし、かしらの大きさよりも、人形の動きが文楽と異なるのが一番目を引く。淡路は人形の振りが大きいと聞いていたが、むしろ文楽のほうが大きく感じた。かしらが大きいので体の振りがこぶりに見えるからか、立役に関しては文楽のほうが人形が大きいのか(これはたぶん本当にそう)、操演技術の系統の違いなのか。全体的に文楽ほどピクサージブリのような予備動作を伴うアニメーション的な大振りがなく、わりと人間の普通の動きに近い。あんまり比べても意味がないのだけど、立役でいうと、文楽では武将のような大型の人形は立ち上がるとき、見得を切るとき、出のときなどに伸びあがるような大きさを強調する動作をするが、そういった誇張演技をしない。女の人形も、文楽だと普段はチョコマカしていてもクドキや単独演技だと大きな動きをするが、こちらだと全体的におとなしめ。うしろぶりにあたる演技もあったが、それが浮いて見えるくらい。ツメ人形はわりと戯画的にワイワイしていたが、三人遣いの人形はみな楚々とした印象で、あまり華美な方向にいかない芸のように思われた。ただ、今回の演目は派手な演目ではないので、演技の振り幅はものにもよるのかもしれない。

また、逆説的にだが、人形の見え方にはやはり太夫・三味線が大きく影響するのだなということがよくわかった。率直に言うと、ご出演の太夫・三味線の方の技量に結構ばらつきがあって、床によって人形が大きく見えたりそうでなかったりするのだ。そういう意味ではある意味素朴とも言える。三味線については同じ劇場で同じようなフレーズを演奏しても、ここまで聞こえ方に幅が出るのだなと思わされる部分もあった。

客はある程度文楽から流れてきているだろうなと思っていたが、客層は若干異なるようで、文楽公演より平均年齢が結構高い印象。ロビーや客席の会話を聞いていると、三人遣いに驚いている人がいたりして、文楽を見たことがない人も多いようだった。

休憩時間には淡路人形座のオリジナルお土産売店と、民俗芸能資料の書籍のミニ売店がロビーに設置されていた。私は淡路人形座のほうでレトロなパッケージの絵葉書セットを購入。入っている絵葉書の写真を見ると、『絵本太功記』『本朝廿四孝』『壺坂観音霊験記』『伊達娘恋緋鹿子』など文楽にもある外題が入っていた。でもやっぱり文楽と同じではなく、人形のフォルムなどが違うので、なんだか不思議な印象。とくに『本朝廿四孝』奥庭狐火の段のきつねがアルパカみたいにすんごいモフってるのが可愛かった。

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  • 賤ヶ嶽七本槍(しずがたけしちほんやり):清光尼庵室の段(せいこうにあんじつのだん)/真柴久吉帰国行列の段(ましばひさよしきこくぎょうれつのだん)/七勇士勢揃の段(しちゆうしせいぞろいのだん)

*1:かもじ。髪を結う際に用いる付け毛

文楽 1月大阪初春公演『染模様妹背門松』国立文楽劇場

続けて第二部を鑑賞。

一部と二部の入れ替え時間に1階ロビーに降りたら、いつのまにか鏡餅が片付けられていた。鏡餅は15日(小正月)の日没のタイミングで仕舞うと初めて知った。

 

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染模様妹背門松。本作に関しては、全体の構成や趣向に驚いた。

油店の段。大坂の大店、油屋の娘・お染(配役・吉田簑二郎)は山本屋清兵衛(吉田玉志)への嫁入りが決まっていたが、実は丁稚の久松(吉田勘彌)と恋仲だった。お染の兄・多三郎(吉田簑紫郎)は芸妓・おいと(桐竹紋秀)を請け出すために大阪屋源右衛門(吉田幸助)から借りた藤原定家の色紙を質入れして金を作ったものの、期限がきても色紙を返さなかったので、源右衛門が証文通りおいとを渡せと油屋へ乗り込んでくる。実はこれには仕掛けがあって、油屋の番頭・善六(桐竹勘十郎)はお染に横恋慕しており、お染をものにするためにまず多三郎を始末すべく影で源右衛門と組んで彼を陥れようとしていたのだった。

と、ここまで説明しておいてなんですが、ここの一番の見どころは善六と源右衛門の、話の本筋と関係ないボケボケの掛け合い。憎めないウザカワキャラの善六と、源右衛門の底抜けのアホっぷりがいとしい。この部分のご担当はやはり(?)、咲太夫さん。二人がホウキ三味線を手に歌う部分では現代流行を取り入れたアレンジを披露されていた。床本を確認したら意外と元の詞章にマッチしていて驚きの「PPAP」と唐突な「君の名は」はわかったのだが、「私、失敗しないので」は客席ウケていたわりに自分はまったく元ネタがわからず、終演してから調べた。……テレビ持ってないからわからなかったです……。あとは広島と阪神ネタ。登場人物が相当わんさといるのに誰が喋っているのかわかる語り分けも見事。咲さん『一谷嫩軍記』の「宝引の段」のわんさといる百姓たちがワヤワヤする部分も見事に語り分けられていたけど、今回の語り分けも面白かった。そして、果てしなく滑り続ける善六と源右衛門の人形の仕草もたまらなくかわいい。

登場人物が全体的に派手な衣装で驚いた。お染は鮮やかな濃紫地にシアン・赤の細紐と花手毬の柄の振袖に蛍光オレンジの帯。かなりサイケデリック。久松も淡い蛍光オレンジの着物(噺家にしか見えない)。兄多三郎の着物は蛍光オレンジと黒の細いストライプ。なんでみんな蛍光オレンジなんだ???

 

 

生玉の段。ここが初春公演で一番のびっくり。

久松が生玉神社の境内で善六を殺した上で自殺し、お染もあとを追うという筋だが、実はこの段は夢オチ。すべての顛末は二人の見ていた夢ということはパンフレットにも書いてあるからそれ自体は驚かないのだが、まじで仰天したのが、最後のシーンで「夢」と大きく書かれた吊り看板がスルスル下がってきたこと。

他のお客さんは一切反応していなかったが、私はもう目がそこに釘付け。浄瑠璃の詞章でもはっきり夢だとわかる表現がされているので、なにもそこまでしなくてもわかるはずなのに、その唐突な看板は何??? いつ、どのような経過でこれを下げるようになったの????? と驚愕していたら、その答えが頼りになる参考書、『文楽藝話』(初代吉田玉男・著)に書いてあった。

この吊り看板の演出は江戸時代からあるもので、しかし当時は「夢」ではなく「心」という文字が書かれていたそうだ。これは芝居の世界の約束事で夢オチであることを示すものだったが、時代が変わり意味が通じなくなってきたので、戦後まもなくから「夢」という言葉に変わったらしい。へー。では他にも夢オチのある演目なら同じ演出があるということなのだろうか。

 

もうひとつ驚いたのが、お染と久松はここにいるのに、なぜか二人を主人公にした先行作品『お染久松袂の白絞り』が劇中劇として登場すること。「油店の段」では『お染久松袂の白絞り』の本が登場し、「生玉の段」では芝居小屋に『お染久松 歌祭文』という出し物がかかっている。二人の噂が広まっていることの表現もあるだろうが、初演当時の客が二人の話を知っていることを意識してこういったメタ的な展開にしているのだろう。江戸時代からこういう自己言及的な技法がすでに存在していたのか。

 

 

質店の段。生玉のくだりは二人が同時に見ていた夢だったとわかりつかの間安堵するも、店の外を通る祭文売りの声やお染が久松の子を身ごもっていることをお染の母・おかつ(吉田簑一郎)に感づかれたことで、二人はこの先を悲観する。そこへ久松の父・久作(吉田玉男)が年末の挨拶にと油屋へやってくる。田舎へ帰ろうと言う久作に、久松は年季の残りをたてに油屋へとどまろうとするが……。

おののいてばかりいる二人だが、実にならない不安ばかりを会話しているあたり、頭がまわっていない感じでリアルだ。辛い思いをしているのは実は本人たち以上に親などの周囲の人だという展開が生々しい。久作が久松を革足袋で打擲する場面、一発目は本当に当てているようにしか見えなかった。さすがベテラン。

 

 

蔵前の段。深夜、蔵に閉じ込められた久松の様子を伺いに忍んでくるお染。蔵の二階の窓からから唐突に久松が顔覗かせてるの、なんかかわいいな……。勘彌さんが一切見えないのがかなしいが。

結末は上演によって2種あるらしいけど、今回は心中ENDではなく逃げ切りEND。もう死ぬしかないというところで、どこからともなく善六が蔵の前に現れ、お染と駆け落ちすべく(まだ勘違いしてたのか)蔵から金目のものを盗み出そうと鍵を開けてしまい、出てきた久松に殴り倒されて善六は昏倒、お染と久松は手を取り合って逃げていく。善六、いいとこあるわ……(?)。最後、清兵衛に押さえつけられてワタワタする善六が本当かわいかった。サカナ的な、絶妙なワタワタさだった。

しかし今までの経緯をみるに、問題解決能力皆無でそもそも何も考えていなさそうな久松より、明らかに人間として立派で考えや振る舞いもちゃんとしている清兵衛のほうが絶対いいと思うのですがどうでしょうか、お染さん。このあと久松と駆け落ちしてもろくなことにならないと思うのだが。増村保造監督の映画『好色一代男』に、遊女と大恋愛するも彼女を落籍する甲斐性もなく、主人公が用立ててくれた金で身請けして所帯を持つ男が出てくる。二人の話はこれでハッピーエンドではなく、「その後二人は」という場面が後で出てくるのだが、まあMAX良くてああいうオチなんじゃないですかねえ。

 

邪悪なツッコミはともかく、振袖の人形って難しいんだな〜と思った。前方席だったので、人形が目の前で演技しているので普通より余計なものが見えてしまうというのはあったろうが、衣装が着崩れしているというか、振袖の袖のこなしが途中からうまくいっていなくて、袖の内側(人形には二の腕はないという部分)が見えてしまっていた。演技そのものはかわいいのだが、目立つので惜しい。ものの本を読むと、この段でお染が振袖を振るクドキは見どころとのこと。衣装のこなしがうまくいくかどうかは偶然もあるだろうから、うまくいった場合を見てみたい。

衣装のこなしは他にも羽織の紐が絡まって脱げなくなった人形がいたのだが、ちょうど太夫・三味線が交代するタイミングだったので、床が回っているあいだに後ろを向いて直しおられた。偶発性のある要素は大変だ。

 

 

最初に書いた通り、不思議な構成と演出の話だった。文楽を見るようになって、話自体より芸に注意がいくことが多かったが、今回は話そのもののほうが気になった。古典というのは現代の作劇法とはセオリーがまったく異なっていて、しかし現代に残るまでの完成度があるだけあって、いままでに見たことのない世界を見せてくれる。

 

 

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帰りも新幹線が結構遅延していたが、今回は終演時間自体が早めだったので、東京駅到着以降もなんとか在来線の終電に接続できた。

同日、ジャニーズのコンサートが京セラドームであったらしく、大阪市内の地下鉄も東京行きの新幹線もコンサート帰りの女子たちでびっしり。夜遅いにもかかわらず新幹線の中がきゃっきゃとしていて、女子校の修学旅行みたいで面白かった(勝手にむこうを同類視)。

 

 

文楽 1月大阪初春公演『寿式三番叟』『奥州安達原』『本朝廿四孝』国立文楽劇場

もはやまったく正月感のない今日この頃、やっと文楽劇場へ行った。

観劇日前後は大寒波の影響で名古屋~京都付近が大雪、新幹線が徐行運転となり大幅遅延。当日朝の新幹線で大阪へ行き、日帰りで観ようとしていたのであせったが、新幹線の時間を繰り上げたので、70分ほど到着が遅れたけど無事開演には間に合った。かなり早い時間の新幹線に乗ったので4時起きでしたが……。大雪が降っても運休せず新幹線を運行しつづけるJRの降積雪対策技術と、夜間除雪作業等にあたられた方のお陰で無事初春公演観られてよかったです。

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米原付近の雪景色。ふぶいてます。

 

 

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文楽劇場はまだお正月飾りを出していてくれた。

小正月なので本当ギリギリだったが、一応一階ロビーにはまだ鏡餅があった。それと文楽劇場のサイトのニュースに載っていた、黒門市場から届いたというにらみ鯛。って、これって本物の鯛(鮮魚)を貰って初日だけ飾っておくのかと思っていたら、作り物なんですね。

大劇場ロビーには紅白の玉のついた花餅が賑やかにワサワサと飾られていた。場内入ると舞台上方には干支が揮毫された凧と一対の巨大なにらみ鯛がライトアップ。ちょっとぼーっとした顔のピンクの鯛がかわいかった。

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第一部、最初は『寿式三番叟』。

9月に国立劇場で観たのと配役が違うが、そのためか三番叟の踊りの進行が違っていて面白かった。ギャグ顔のほうの三番叟のほうが途中でサボる回数やサボり方、イケメンのほうの三番叟がそれに気づいて「ちょっとちょっと~!」ってやるタイミングが違っていた。今回はわりとすぐイケメンの三番叟(配役・吉田玉佳)がギャグ顔(吉田一輔)のサボりに気づいて「も~っ💦」とやっていた。そのとき玉佳さんまで「も~っ💦」って感じだったのがおかわいい。ギャグ顔の三番叟は何度もサボっていた。

翁は和生さんでさすがの気品ぶり、美しかった。しかし翁が舞っている間、かなりマナーが悪い客がいて、本当和生さんには申し訳なかった……。ここがフィルムセンターなら乱闘始まってたね。

この『寿式三番叟』、太夫・三味線がステージ奥へ雛壇状に並ぶので、通常時より義太夫が小さく聞こえる。私は今回最前列だったが、それでも声・音が小さく思えた。後列のほうの方はどうだったんだろう。

また、一階の展示室では、文楽劇場で開場以来33年間に上演された『寿式三番叟』18回分の記録映像ダイジェストが流されていたが、それを見ても三番叟の踊りの進行は演者によって違っていて、個性が出ていて興味深かった。横にずれていって扇でパタパタひとやすみするのではなく、疲れすぎてバタンキューしちゃうパターン(簑助さん)とか。衣装も通例の黒地ではなく、エメラルドグリーンや紫の衣装を着ている映像もあった。

 

 

『奥州安達原』。

一段だけの上演だったが……、これ、一段のみ上演するにしては話が複雑すぎ、この段だけでも人間関係入り組みすぎでは。しかも人がやたらワサワサ出てくる。にもかかわらず、パンフレットの説明がかなりわかりづらい。説明しきるのは無理と判断したのか説明を大幅にはしょっているのと(壮大な話ですと書かれても……)、文章自体がわかりづらく、事前に読んでもどういう話なのかわからなかった。

 

ざっくり言うと、狂言全体としては、前九年の役で朝廷に滅ぼされた東北地方の豪族・安倍一族の末裔、安倍貞任・宗任兄弟が源義家に報復を企てるが、その目的のために彼らの周囲で悲劇が巻き起こるという話(多分……)。

今回上演の「環の宮明御殿の段」、前半は登場人物が一度にたくさん出てくる上にことばのやりとりが多く、何か詮議をしているのはわかるものの各人の思惑がわからず「???」状態になったが(字幕が見えない席はこういうときツライ)、袖萩(豊松清十郎)が出てきて以降は芸だけ見ていても雰囲気で話の流れを汲める展開だった。門の内側へ入れない落ちぶれた袖萩が母・浜夕(桐竹勘壽)に促され、自らの身の上を歌(祭文)で伝えるあたりが一番の見せ場でとてもよかったが、個人的には、死の間際の袖萩が貞任(吉田玉男)にすがりつくとき、貞任は最初はまっすぐ正面を見て知らぬような顔をしているけど、下を見ると袖萩が手を重ねているのがひっそりとよかった。娘のお君(吉田簑太郎)は相当しっかりしているが、何歳という設定なのだろうか(←追記:詞章に11歳とあった。しっかりしたお子じゃ)。

ここでよかったのは安倍貞任役の玉男さん。前半は桂中納言に化けているのでお公家さん姿の気品のある鷹揚で静かな芝居、後半は本性をあらわし派手な襷掛け衣装の荒々しい姿へ。とてもお似合いの役で、芝居のメリハリが鮮やかで私のような素人でも楽しめる。後半のバクハツ鬘は剛毛だったり固まったりしているのではなく、女子がバッグにつけているファーのポンポンのようにフワフワやわらかげに揺れていて、触りたい、頭ポンポンしたいと思った(休憩時間にロビーで同じことを言っている方がいて笑った)。おもしろいビジュアルといえば、最初は田舎者の姿で登場する弟・時任(吉田玉也)の本性の姿も。太いイエローの綱を鉢巻と襷にしているのがセイバーマリオネットJ(古い)的なセンスでおもしろい。

この段では鏃がキーアイテムになっていて、舞台のあちこちを行き来する。はじめは手裏剣。これ、ちっちゃい&本当に飛ばしているわけじゃない分、人形の演技でどこへ飛ばしているか、客が目で追えるようしっかり見せなくちゃいけなくて大変ですね。ちょととどこへ飛んだかわからないときがあった。次に宗任が白旗に血文字で歌を書く筆。最後には白梅の枝に取り付けられて傔杖の腹切刀になる。梅の枝を刀にするのは、三隅研次監督の映画『斬る』で、市川雷蔵が梅の枝を剣に見立てるくだりを思い出した。また、登場人物の対立構図のほか、源氏を象徴する白という色、対して平家を象徴する赤も重要な意味を持っており、それを解説に書いておいてくれよ〜と思った。劇中何度か取り出される白い旗を使った演出もそうなのだが、白梅が血に染まって紅梅になるところとか、注意していないとわかりづらい。

ところで、幕の直前、貞任と宗任と義家(吉田文昇)がみなド派手な衣装で、しかも貞任と時任はかなり大振りの人形で競り合うように同時に大きく動き、かつ大きな音を立てるため、どこを見ていいかわからず、割り切って玉男さんを見ました(人形を見ろ)。

以上、あまりにパンフレットの解説がわかりづらかったため、(初代)吉田玉男文楽藝話』を参考にして書きました。文楽劇場国立劇場売店で売っている本で、新書サイズながら内容はかなり専門的、演目ごとに大変細かい解説が書かれていて参考になります。

 

任侠映画が好きと言っているわりに、そこに描かれている義理に縛られ心のままに生きられないという筋書きにいまいち反応できず、むしろ詰めの甘さや脚本上の穴が気になりだすことが多い私だが、文楽だと義理に縛られて親子でも思うように手を取り合えず、想いと行動が逆にならざるを得ないという話がすっと入ってきて、素直に泣けるのがとても不思議。親子ネタも映画ではほとんど感動したことないのに(『砂の器』くらい? これも想いと真逆の行動にならざるを得ないという展開だが)、この袖萩親子の話はとても心に響くものがあった。文楽は洗練と泥臭さと品と俗が入り混じる不思議な世界だ。

 

 

『本朝廿四孝』。

十種香の段。定式幕が開くと、幕の張られた瓦燈口を中央に、障子で中が見えない屋台が左右に割り振られていた。上手の部屋の障子の内側に仕掛けられた幕が巻き上げられると、透ける障子越しに勝頼の姿を描いた掛け軸に手を合わせる八重垣姫(桐竹勘十郎)の後ろ姿が見える。そして下手の部屋では位牌に向かう腰元・濡衣。今回、簑助さんはこの濡衣役で出演されていた。なんか異様に色気したたる腰元がおるなって感じ。これって普段どうなってんの? こういうもんなの? 八重垣姫が勝頼(吉田和生)との関係を疑ってくるのもわかる。この気品のある色気によって、八重垣姫の幼さと可憐さが際立っていてよかった。八重垣姫は一途なお姫様といえば聞こえがいいが、行動が思い込みすぎ&無茶苦茶&豪速球なところ、勘十郎さんに似合う気がする。

それにしても勝頼の衣装がかわいい。光沢のある淡いミントグリーンの裃に、ペールピンクとクリーム色がバイカラーになっている着物は可憐な小花柄。八重垣姫の赤い振袖以上に女の子が好きそうな色合い。

奥庭狐火の段。幕が開くと暗い庭にイエロー〜グリーンの綺麗な色の狐火がふたつプワンプワンしているのが幻想的。本物の火を使う演出。そして待ってました、勘十郎様。諏訪明神の御使のキツネの霊力により姫が魔性を帯びる、人形の派手な見せ場。勘十郎さんご自身がとてもいきいきされていたし、客席も大喜びで、頻繁に拍手の嵐が起こっていた。着付も十種香の薄群青から、キツネを演じるときは白地に火炎、魔性を帯びた火炎の衣装の姫に持ち替えてからは淡いグレーに早変わり。姫の演技も可憐で幼げな十種香とはまったく異なり、水面に映るキツネの姿に怯えながらも人外の霊性を帯びた妖艶なものになる。人形の手もちゃんとキツネの手。動きが激しく速いのに姿が崩れないのは見事。火炎の衣装になった八重垣姫は全員出遣いで、左が一輔さんだったのだが、足がロビーのグリーティングとかで時々見る、いつもがんばってる顔色が真っ青な子だった。いい役もらったんだねえ。

そしてみなさまお待ちかね、ぬいぐるみのキツネちゃんたち。灯籠から現れて兜に憑依するキツネちゃん(勘十郎さん)も尻尾の扱いがかわいくて良いが、最後に八重垣姫が纏う4匹のキツネちゃんもかわいい。ここはお若い人形遣いのみなさんが出遣いで出演。今回配役に名前の出ていない若い子はここで出遣いがあるのね。キツネちゃんたちは画一的な演技ではなく、良い意味で揃っていない、ちゃんといっぴきいっぴき違う個性がある演技。ジブリでこれをアニメ化してもこういうふうにちゃんといっぴきいっぴき違うキツネとして描かれるだろうという感じ。いずれも華やかで可愛く、楽しかった。

 

 

今回は昼ごはんを食堂で食べた。

前述の通り、劇場到着が遅くなってしまったため開演前に予約できなかったので、休憩時間になってから直接食堂へ行った。注文したのは天丼(1,500円)。頑張ってできるだけ早く作って出してくれるのだが、いかんせん休憩時間が30分しかないため15分程度で食べねばならない。にも関わらず、ご飯がすごい量盛られていたので「えー!食べきれない!」と思ったが、箸でつっついてみるとすごくフンワリというか、空気を含んで盛り付けられて、口当たりホロホロになっており、実際の量はそこまでではなかった。この空気を含んだ盛り方、喉につまらないよう、食べやすいようにという配慮? 食堂はちょっと高いけど、席やロビーに比べゆったり余裕のある席で食べられて良い。また、いまどきないくらい接客がテキトーなのも良い。予約したらもうすこしゆっくりできるはずなので、今度は予約にしたい。

 

 

  • 『寿式三番叟(ことぶきしきさんばそう)』
  • 『奥州安達原(おうしゅうあだちがはら)』環の宮明御殿の段
  • 『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』十種香の段/奥庭狐火の段
  • http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/bunraku/2016/5757.html